財務省の事務次官による女性記者へのセクハラ疑惑が明らかにするのは、対応を誤り続ける政官だけではない。男女雇用機会均等法施行から三十年を経た今も変わらぬ女性に差別的な社会の姿だ。
民放女性記者に対するみだらな言動の音声データを公開された福田淳一事務次官は、辞任を表明してもなお「音声データの全体を見ればセクハラではない」と反論、疑惑を否定し続けている。
恥ずべきは福田氏だけではない。福田氏をかばい立てする麻生太郎財務相も「番記者を男性記者に交代させたらいい」などと認識のずれた発言を繰り返している。
米国女優が大物プロデューサーから受けた被害を告発したのをきっかけに、性暴力の被害者が名乗り出る「#Me Too(私も)」の潮流が生まれた。セクハラの本質は権力構造の内で起きる性暴力だと、国内外から関心が向けられている中で、福田氏も麻生氏もリーダーとしての資質が著しく欠けている。
財務次官のケースで被害を訴えたのは記者の女性だったが、セクハラは働く女性が増えるなかで広く起きている。営業職では、取引相手からセクハラに遭って上司に相談しても、会社が取引先に抗議せず、女性社員の側が我慢を強いられる場合もある。職場が守ってくれると思えず、相談すら諦めてしまうことも少なくない。
男女雇用機会均等法が一九八六年に施行されて三十二年。
男女が差別されずに働ける場をつくるという法の理念はいまだ実現していない。決定権を持つ役職は男性が主流だ。国会や市町村の議会、役場などでも男性上司が女性の部下たちを不快にさせる性的言動を繰り返している。
欧州の議会などで広く導入されている「クオータ制(人数割り当て制)」は、制度として女性議員を増やす。日本も社会の意識を変えるのなら、採用を検討したらどうか。
音声データを他媒体に提供した女性記者に対し、記者としての倫理に反するとの批判が起きているが、事実を矮小(わいしょう)化してはいけない。本質はセクハラという加害にどう向き合うかだ。
公益通報者保護制度をきちんと確立しなければならない。被害者個人がよく守られなければ、被害者は安心して訴えることができない。問題の本質を共有すべきだ。
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