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AI原論 神の支配と人間の自由
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2018年5月12日
自律系と他律系の差違
潜在性の時間論を機械と生命の区別に結びつけて考える
AI原論 神の支配と人間の自由著 者:西垣 通
出版社:講談社
評者:永田 希(書評家)
2010年以降のいわゆる第三次AIブームが超人間的・超知性的なものを欲望しているとして批判する一冊。第三次AIブームにおけるシンギュラリティ仮説やトランスヒューマニズムは、機械と生命との区別を見失った考え方に過ぎない、と著者は指摘する。
本書の論においては、生命が本質的に自律的であるのに対して機械は他律的でしかありえない。生命は想定外の事態に対して自己決定が可能(自律系)だが、AIを含むすべての機械の判断はあらかじめ想定された方向づけをなぞっているに過ぎない(他律系)からだ。これはいわゆる「フレーム問題」として知られているが、いまだに解決されていないという。
記号論理学に基づき誤りが少ない代わりに応用範囲の限られる「記号計算モデル」が軸になっていた過去の第一次AIブーム、第二次AIブームとは異なり、現代の第三次AIブームでは「ニューラルネットモデル」が中心となり飛躍的に応用範囲が広がった。統計計算に基づくこの第三次ブームのAIがもつ「結論が必ず正しくなるというわけではない」という点が重要だ。
従来の記号計算モデルのAIに比べて、ニューラルネットモデルのAIはアルゴリズムを細かくトレースするのが難しい。言い換えれば、第三次ブームAIの挙動は、人間による他律的なプログラミングから「自律している」ように見える。第三次ブームのAIは「擬似的な自律性」を獲得したとも言えるのである。誤ることができるようになったAIの自律性はなぜ擬似的なものでしかないのか。
ところでシンギュラリティ仮説とは「約30年後にはAIの知力が人間をしのぐ」という説で、技術が指数関数的に進歩するという見通しに立脚している。これは、人間の主観と関わりなく宇宙や世界が実在し、そこにある事物は科学測定データによって解明可能であり、ゆえに未来も測定可能だとする「素朴実在論」である。これに対し著者は「思弁的実在論」で知られるカンタン・メイヤスーを召喚し、議論を展開させる。
「宇宙や世界の現状を因果的に説明する必然的な理由などなく、すべては偶然に生起する」と主張し、恒常的に成り立つ自然法則まで否定しようとさえするメイヤスーは、「潜勢力potentialite」と「潜在性virtualite」とを区別する。
従来の考え方では、事故や地震などの未来に起こる事象は確率論的に予測可能だとされてきた。メイヤスーの用語で言えば、これらの事象は生起する確率が予測されうるものであり、これは「潜勢力の現実化」として捉えられる。
これに対してメイヤスーは、時間の経過が引き起こす、いかなる必然性も法則性も関連しない、偶然的な「潜在性」をもつ事象を論じようと試みる。本書で興味深いのは、この潜在性の時間論を、AIと人間、機械と生命の区別に結びつけて考える点だろう。機械とAIは潜勢力の予測可能性の外に出ることはないが、生命と人間はそうではない。近代の哲学的パラダイムに対するメイヤスーの相関主義批判と、第三次AIブーム以降のトランスヒューマニズムとの相性がいいことは著者も認めるところだ。しかし本書におけるメイヤスーの役割はAIと思弁的実在論の親和性を説明することではない。シンギュラリティ仮説が前提とする技術進歩予測と素朴実在論に対して、潜在性という、より根源的な問いをさし向けることによって、機械と生命との本質的で乗り越え不可能な境界を明らかにするためにメイヤスーは召喚されている。著者が重視するその境界、つまり自律系と他律系の差異は、予測不可能な事象に直面したときの振る舞いによって判定される。
誤ることができるようになっても、第三次ブームAIの自律性は擬似的なものでしかない。それは単に予測を誤ったに過ぎず、潜在性と直面したわけではないのだ。本書の副題にある「人間の自由」とはそのときに問われるものなのかもしれない。
本書の論においては、生命が本質的に自律的であるのに対して機械は他律的でしかありえない。生命は想定外の事態に対して自己決定が可能(自律系)だが、AIを含むすべての機械の判断はあらかじめ想定された方向づけをなぞっているに過ぎない(他律系)からだ。これはいわゆる「フレーム問題」として知られているが、いまだに解決されていないという。
記号論理学に基づき誤りが少ない代わりに応用範囲の限られる「記号計算モデル」が軸になっていた過去の第一次AIブーム、第二次AIブームとは異なり、現代の第三次AIブームでは「ニューラルネットモデル」が中心となり飛躍的に応用範囲が広がった。統計計算に基づくこの第三次ブームのAIがもつ「結論が必ず正しくなるというわけではない」という点が重要だ。
従来の記号計算モデルのAIに比べて、ニューラルネットモデルのAIはアルゴリズムを細かくトレースするのが難しい。言い換えれば、第三次ブームAIの挙動は、人間による他律的なプログラミングから「自律している」ように見える。第三次ブームのAIは「擬似的な自律性」を獲得したとも言えるのである。誤ることができるようになったAIの自律性はなぜ擬似的なものでしかないのか。
ところでシンギュラリティ仮説とは「約30年後にはAIの知力が人間をしのぐ」という説で、技術が指数関数的に進歩するという見通しに立脚している。これは、人間の主観と関わりなく宇宙や世界が実在し、そこにある事物は科学測定データによって解明可能であり、ゆえに未来も測定可能だとする「素朴実在論」である。これに対し著者は「思弁的実在論」で知られるカンタン・メイヤスーを召喚し、議論を展開させる。
「宇宙や世界の現状を因果的に説明する必然的な理由などなく、すべては偶然に生起する」と主張し、恒常的に成り立つ自然法則まで否定しようとさえするメイヤスーは、「潜勢力potentialite」と「潜在性virtualite」とを区別する。
従来の考え方では、事故や地震などの未来に起こる事象は確率論的に予測可能だとされてきた。メイヤスーの用語で言えば、これらの事象は生起する確率が予測されうるものであり、これは「潜勢力の現実化」として捉えられる。
これに対してメイヤスーは、時間の経過が引き起こす、いかなる必然性も法則性も関連しない、偶然的な「潜在性」をもつ事象を論じようと試みる。本書で興味深いのは、この潜在性の時間論を、AIと人間、機械と生命の区別に結びつけて考える点だろう。機械とAIは潜勢力の予測可能性の外に出ることはないが、生命と人間はそうではない。近代の哲学的パラダイムに対するメイヤスーの相関主義批判と、第三次AIブーム以降のトランスヒューマニズムとの相性がいいことは著者も認めるところだ。しかし本書におけるメイヤスーの役割はAIと思弁的実在論の親和性を説明することではない。シンギュラリティ仮説が前提とする技術進歩予測と素朴実在論に対して、潜在性という、より根源的な問いをさし向けることによって、機械と生命との本質的で乗り越え不可能な境界を明らかにするためにメイヤスーは召喚されている。著者が重視するその境界、つまり自律系と他律系の差異は、予測不可能な事象に直面したときの振る舞いによって判定される。
誤ることができるようになっても、第三次ブームAIの自律性は擬似的なものでしかない。それは単に予測を誤ったに過ぎず、潜在性と直面したわけではないのだ。本書の副題にある「人間の自由」とはそのときに問われるものなのかもしれない。
この記事の中でご紹介した本
2018年5月11日 新聞掲載(第3238号)
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