菅はその出自からして、確かに左派的イメージを持った政治家である。権威主義を排して対等な個人同士が自由意思で結合する市民社会を志向するという点、市場経済の行きすぎを政府の力で是正し人間の尊厳を確保しようとするという点の二つにおいて、菅の主張は左派的である。こうした思想は現在の日本にとってきわめて必要なものであり、左派と言われても何ら恥じることはない。しかし、日本では左派というと現実を見ない夢想主義、政治の複雑さに耐えられない単純思考という響きもある。最近では、こうした特徴は連立離脱の際の社民党にも発揮された。
ヨーロッパに行けば、ドイツのブラント、フランスのミッテランなど現実的左派政治家は何人もいた。菅自身は左派という言葉を使わないだろうが、彼は日本で初めての現実主義的左派という政治家像を模索していると私は想像している。菅については、橋本政権の厚生大臣として薬害エイズ事件の究明に尽力した実績から、官僚を使いこなして物事を成し遂げる(get things done)能力を持つという期待がある。他方で、鳩山政権の副総理として危うい問題には一切口をつぐんで首相の座を手に入れた権力志向の風見鶏というイメージもある。
ここで問われるのは、現実主義の意味である。戦後の日本政治では、現実主義と理想主義が磁石の両極のように対置されてきた。日本的理想主義とは、社民党に代表されるように、ユートピアを求め、現実を否定、拒絶する態度であった。それは、「政治とは悪さ加減の選択」という鉄則を無視し、ベストを求め、ベターを拒絶するあまり、かえって変化の芽を摘み、現実の固定化を助長するという帰結をもたらした。
日本的現実主義について、丸山真男は「「現実」主義の陥穽」という論文の中で、所与の現実を不動の前提と考える、現実を一次元的なものと考える、支配権力の考える現実を現実とみなすという三つの特徴を挙げている。力の強い者が押しつける現実を有り難がり、それに不都合があっても一切変革の努力を放棄するのが日本の現実主義であった。
たとえば、西ドイツの首相ブラントは、東欧諸国との和解という一見不可能な目標に挑戦し、岩盤に穴を穿つ努力を重ねて東方外交を実現したという点で、真の現実主義者であった。その時の現実から出発することは当然としても、現状に甘んじるのではなく、将来どのような方向を目指すのか、方向性を示すことこそ、現実主義的な指導者の使命である。
菅首相が就任早々税制改革の必要性を提起したことによって、彼がどの程度の現実主義者か量られることとなった。民主党が主張する積極的社会政策を実現するためには、歳入確保のための対策が不可欠である。また、財政赤字に歯止めをかけることも必要である。財務大臣としての経験をもとに、財政の持続可能性を回復したいという菅の思いは、額面通り受け取ってよいであろう。それにしても、消費税率の引き上げを中心とする税制改革が、財政赤字を減らしたいという財務官僚の現実主義に基づく提案なのか、最小不幸社会を実現するための政策手段を実行するための財源の確保なのか、その意味づけを明確にしなければ、国民はどう考えてよいか分からなくなる。
菅の言う強い経済、強い社会保障、強い財政という三つのスローガンにしても、よく考えてみると国の針路とするには詰めが足りない。菅は、財政学者の神野直彦氏の理論から影響を受けていると称しているが、神野氏はこの三つについて明確な優先順位をつけている。財政赤字が増加するのは、失業や貧困の蔓延、地域社会の空洞化など社会の荒廃の表現である。より多くの人が働いて所得を得るならば、税収が増える一方で、生活保護などの財政支援が縮小する。また、若い人々が家庭を築き、出生数が増えるならば、社会保障や財政の持続可能性を回復する基盤ができる。
強い経済は働く人々に生活の糧をもたらすのだろうか。日本は小泉時代に数年間、輸出企業主導で強い経済を実現した。しかし、その間も財政赤字は増え続け、人々の賃金は減り続けた。人々に富を配分しない強い経済は、社会保障と財政を弱めるというのが現実の経験であった。強い社会保障によって人々が仕事と家庭を持続できるような環境を整え、それによって経済を強くし、最終的に財政も強くなるというのが、菅政権の本来の経済ビジョンであろう。
エセ現実主義者は、様々な議論から都合のよいスローガンをつまみ食いして、パッチワークを造りたがる。菅の言う政調戦略や財政健全化がそのようなパッチワークなのか、真のビジョンなのか、選挙戦の論争の中で試されることとなる。
もちろん私は、菅に真の現実主義者であってもらいたいと願っている。ヨーロッパモデルの福祉国家を実現するためには、日本人はもっと租税負担を上げなければならないという現実を突きつけ、ともに悩むことを提案した点は、勇気ある行動だと評価したい。しかし、その勇気だけでは国民は説得されない。菅が政権発足当初、小沢前幹事長から自立した行動を取ったことで、この政権は高い支持率を得た。政策論議の段階に入った今、財務省から自立することこそ、国民の信頼を得るために不可欠である。帳面上の赤字減らしではなく、国民生活を支えるための財源として負担増を位置づける分かりやすい説明が求められている。(週刊東洋経済7月10日号)
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