突然の訃報
大越健介キャスター
衣笠さんの葬儀のニュースを見ていると、車が出る時に、江夏さんが深々と頭を下げているところが映っていまして、衣笠さんに寄せる想いとか、深いものがおありなのだろうなと思って、きょうは無理を言ってインタビューをお願いしました。ありがとうございます。江夏さんは衣笠さんが亡くなられた知らせを、いつどのような形で受けられましたか?
江夏豊さん
彼が亡くなったのは4月23日の夕方6時5分らしいんですよね。24日の朝、衣笠君の奥さんから電話がありまして。たまたま電話があった時僕はシャワーに入ってたんですよ。その日僕は松山にちょっと仕事で行く予定でしたから。留守番電話に衣笠って入ってましたから、こんな朝早う珍しいな、何かいな?って。
実は、その2〜3日前に彼とかなり長い間電話でしゃべっていたんで、また何かいな?って思って折り返し電話をしますと、奥さんが出てきて、「実は昨日の夕方亡くなった」ということを言われて。
一瞬、ほんと一瞬頭がボーっとしたといいますか。
ただ19日の日に横浜で、横浜×巨人の解説をやってる時に、声が出てなかったんですよね、ひどかったんですよ。
元々病気の治療が始まった時に、特にこの1年くらいかな、声がこう、ツートーンくらい上がるんですよ。高い声になってしまうんですよ。そんですごくハスキーになるんですよ。
「お前なー、70歳になってハスキーになってもしゃーないぞ、なに考えとんねん」って言ったら、「いやー治療で、抗がん剤の影響で声が高くなって」ってこと聞いてましたからね。
で、19日の放送の時には本当に声が出てないといいますかね、これは聞いてる方みんな、あれ?と思ったんじゃないですかね、それくらいひどい状態やったんですよね。
だから次の日かな、電話で「お前なあ、そんな無理してそんな状態でマイクの前に行ってもしょうがないぞ」と。
本人にしてみれば、あの日は今年最初の放送やったらしいんですよ。それで今度5月の2日かな、もう一度放送が入ってるから、それまでになんとか元通りになりたいからなっていうことを彼は強く言ってましたけどね。
大越
そうすると、その横浜での試合の解説を心配された江夏さんが電話で話をされたのが、生前の衣笠さんとの最後の会話になったということですか?
江夏
そうです、20日でしたね。そして23日に亡くなって、24日の午前中に奥さんからそういうことを聞きまして。
聞いた瞬間は本当に頭真っ白といいますか、え、まさか?という気持ちと、悔しいといいますかね、「このやろう先にいきやがって」と。
周りに誰もいませんでしたから、本当に恥ずかしい話、30分くらい号泣しましたね。本当に泣きました。久しぶりに涙が止まらないくらい、泣きました。
今から8年前にちょうど大沢啓二が亡くなった時もやっぱり、うん、かなり涙がこぼれたんですけどね。僕は何があっても男は人前で涙なんか流すもんじゃないというね、強い気持ちを持っていたんですけど、ほんと恥ずかしい話、こぼれました。
初めての出会い
大越
大沢さんは日本ハムの時に江夏さんが慕われた監督でいらっしゃいましたけど、それ以来に号泣された衣笠さんっていう方と、どういう経緯でそれだけ親しい関係になっていったんですか?
江夏
うーん、ねえ、一番最初彼を見たのは、僕が入団した昭和42年なんですよね。彼が3年目でやっと1軍に上がってきたとこやったらしいですよ。でまあ、野球選手にとりまして、背番号というのは俗に言う名刺代わりなんですよ、だから同じ番号のやつには負けたくないという、結構そういう意識ってあったんですよ。
大越
28番ですね。
江夏
はい。僕は28番で、彼も28番をつけておりまして。彼は同じ関西の高校からプロに入ったということを聞いてましたから、「こいつが衣笠か、どんなバッターかいな」と。
まあ当時はまだ、スタメンに出てくるような選手じゃなかったですから。代打で出てくるような感じでしたからね。対戦しても、振っても振ってもバットにボールが当たらないような選手でしたけどね。
ただまあ、めげないんですよね。俗に言うミート中心に当てにくるような感じのバッターではなかったですからね、豪快な人だなという意識はありましたけどね。
大越
衣笠さんは若い時からそうだったんですね。
江夏
そうですね。それから僕の頭の中に、広島カープの28番、衣笠祥雄というのは強烈に残ってましたよね。
大越
江夏さんはそれから阪神のエースとしてチームを背負う立場になられて、衣笠さんも主力の一人としてカープの責任を持つ選手として、互いに何度も何度も対戦されたと思うんですけれども。
阪神と広島で相対した時代、衣笠さんのプレースタイルは、「全力で振ってくる」とさっき伺いましたけど、一貫して衣笠さんはどういう選手でしたか?
江夏
見るからに野球が好きで、決してやらされているというタイプの選手じゃなかったですね。決して守備もまあ、うまいほうじゃなかったんですよね。でも一生懸命打球に飛びついていくスタイルの選手でしたからね。
だからバッターボックスで相対した時も、本当に彼なりに配球を読んで、打ちにきてるということは感じましたけど、決してそれに対してミート中心でヒットを狙ってくるようなバッターじゃなかったですね。
江夏
やっぱり自分のスイングで、彼の好きなフルスイングで遠くに飛ばしたいというタイプの選手でしたけどね。だから彼は23年間で504本のホームランを打っているんですけど、唯一1本打たれてるんですよね僕、彼から。1本打たれてる。
その1本が、通算100号のホームランを僕から打ったらしいですよ。なんと第1号が僕の大先輩のそして衣笠君も大好きだった村山実さんから打って。彼の自慢は「1号は村山さんから、100号はお前から打った」んだと。
「お前から打った」って、振れば1本くらいは当たる時もあるわいという気持ちで僕はおりましたけどね。(笑)
大越
江夏さんというとON、特に王さんから奪三振記録の、三振を狙って取りにいったりという印象が強いですが、私のように田舎で育った少年からすると、巨人戦の江夏さんしか見たことがなくて、江夏対衣笠とか江夏対山本浩二は見たことがないんですよね。衣笠さんと相対する時に、フルスイングの衣笠さんに対して、心の中でギアが上がる感じはお持ちでしたか?
江夏
まあ心のどっかに、打たれっこないという自信はありましたよね。(笑)
コース、コースに放っておけば、それほど遠くに飛ばされることはないだろうという気持ちは絶えず持ってました。
ただ野球界も昭和40年代は巨人のV9の時代でしたからね、ON中心の。そして49年にV9が途切れて、50年に赤ヘルの時代になりました。
この幕開けで、衣笠、山本浩二というバッターが本当に素晴らしい成長を見せてましたからね。
この時にはシェーン、ホプキンスという素晴らしい助っ人もおりましたし、打つ方では 水谷(実雄)選手、亡くなった三村(敏之)選手、そしてピッチャーでは外木場(義郎)、安仁屋(宗八)という素晴らしい投手がいまして、本当に強い赤ヘル時代の幕開けでした。
大越
対戦していて広島の衣笠さんたちが、脂がだんだん乗ってくる年齢になってきて、このチームは力をつけてきているなという実感は?
江夏
もうそれは戦っていてひしひしと感じました。
本当に赤ヘル、新しいカープの時代が目の前まで来てるなというのは、戦っていて肌で感じたといいますかね、それくらい素晴らしいチームになっていましたね。
“江夏の21球” 衣笠さんがかけた言葉、そして…
大越
江夏さんといいますと、広島のまさに抑え、守護神であられた時にですね、日本一の場面、何度も本でも読みましたし、新聞の手記でも拝見しました。あのノーアウト満塁になった時にブルペンが動いたのを江夏さんがご覧になって、ちょっと心が一瞬、怒りというか動揺したというくだりがありますけれど、あの時はどんな心境だったんですか?
江夏
自分は 昭和53年にカープにお世話になって、当時の古葉監督は「江夏と心中する、江夏で落としたら仕方がないんだ」ということをずっと言ってきて、事実53年、54年の公式戦でそういう動きは一切なかったんですよね。
当時は130試合の時代ですよね、公式戦の130試合が終わり、日本シリーズの7試合目、137試合目で、古葉さんが動いた。動くんだったら、もう少し気を使って欲しかった。場所は大阪球場でしょ。大阪球場っていうのは、室内にもブルペンがあるんですよ。だからあの時、池谷君と北別府君がブルペン行きましたよね。この2人を用意さすんだったら室内でやらしゃいいんですよ、だったら僕見えないんですよ。
それをわざわざベンチから飛び出していって、ブルペンへ走る。まざまざと目に見えるわけですよ。
「何やってんだ、なに慌ててんだ」と。「こんな場面、誰がいったって抑えられるわけないんだから、気持ちよく負けようぜ」とマウンド上で僕の気持ちは強かったんですよね。
どういうんですかね、人間、自分が有利な時、チームが有利な時っていうのは、これはもう野球だけじゃなしにそういう時っちゅうのはかなり余裕があります。視野も広いです。周りも見えます。でも、ああいう状況に陥りますと、本当に目の前のことしか見えない。自分の足元しか見えない。これは人間の心理、心境だと思うんですよ。
あの苦しい場面、これはもうマウンド上の僕だけじゃなしに、守ってる野手、ベンチで見てる方たち、スタンドでカープを応援してる、テレビで応援してる方たちみんな苦しかったと思うんですよ。苦しい時っていうのは、本当に周りが見えない。どうしようどうしよう、そういう心理状態になっても僕は不思議じゃないと思うんですよ。
その時に、ファーストを守っている衣笠君が私の横にやってきて、「もうよそ見するな、前見て投げろ」と言ってくれた。
あのアドバイス、もし僕がファーストを守っていて彼がマウンドに立っていたら、じゃあ僕は同じようにマウンド上に行ってそのアドバイスを言えたかなというと、間違いなく出来なかったでしょう。
守っている人たちも苦しいんですよ。何を考えるかというと、次のプレーのことを考えます。球が飛んできたらどうしよう、どういうプレーしようと。どんなうまい人だって、思うことは一つなんですよ。何かといいますと、「自分のところに飛んでくんなよ」と。よそへ飛んでくれよと。そういう心理、心境になっても不思議じゃないですよ。それくらいやっぱり苦しい。あの場面で「さあ自分のところに飛んでこい」という人は、まずいないと思うんですよ。
そういう時に私のそばに来て「よそ見するな、この場面はお前しかいないんだ」と言ってくれたアドバイスの言葉ね。来た時は「うるさいお前、はよ帰れ」と。「こんなもん誰がやったって、抑えられっこないんだ」っていう気持ちが強かったです。
でも彼が真剣な、真剣な顔で僕に言ってくれて。本当に僕自身も状況が苦しかったんですよ。
でも、本当にこれ不謹慎なことなんですけど、あの苦しい時に全然違うことを感じたんですよ。何かといいますと、彼がアドバイスしてくれて、2~3歩ファーストベースに帰りかけて、ぱっと振り向き返ったんですよ。
この時、バシッと目と目が合ったんです。
大阪球場っていうのは、日本のスタジアムの中でも一番照明の暗い球場でした。時間的にも薄暮で雨が降っている、天気も悪い。そういう状況下でナイター照明がつきながらも暗かったんですよ。
その暗いグラウンドで彼が振り向いて、ニコッと笑ったんですよ。「頑張れよ」と言いながら。このニコッと笑った時に、僕はちょっと笑ったんですよね、ええ。
「あれ?サチってキレイな歯してるなー、こいつ、こんな歯きれいだったかなー」って。
これ本当に不謹慎なことなんですけど、あの苦しい場面でそんな事を考えること自体おかしいんですけど、なぜかあの時、サチの歯がきれいやなと思った。
一瞬ですけどね、これはもう自分でも不思議な心境といいますか、人間あんな苦しい、「どうしようどうしよう、出来たらもうマウンドから降りたい、早く解放されたい」という気持ちの時に、彼のねえ、彼の歯なんて毎日見てるわけですから。毎日見てるわけですよ。でもなぜかあの時にそれを感じたんですよ。
大越
どんな選手でさえ「自分のところに飛んでくるな」と思って緊張している中で、ベンチの動きに不信が芽生えてマウンドで孤独にしている江夏さんを、衣笠さんは気持ちを思いやって声をかけてきてくれた…
江夏
本当に苦しい場面で、人の気持ちを理解する、わかってくれたということ自体、僕にとってありがたかったといいますかね。
大越
「よそ見をするな」と言うのは、ブルペンのことは気にするなということですか?
江夏
もう要するに、前見て投げろ、よそ見をするなと。「この場面お前しかいないんだから」ということをはっきり言ってくれましたよね。で、「もしも何かあったら、俺も同じようにユニフォーム脱いでやるよ」と、はっきり言ってくれました。
それはやっぱり僕にとっては、本当に心強いといいますかね、よし!となる部分になりましたよね。
大越
その後、神がかりのようにして、カーブの握りでスクイズを外す。
江夏
スクイズを外した。あれもやっぱりよく外したなと思いますけど、その前に、ノーアウト満塁で、代打の佐々木恭介さんが出てきたんですよね。彼は俗に言う左殺しといいますか、左ピッチャーを打つのが大変うまいバッターで、その前の年もパ・リーグの首位打者になってる、本当にスタメンに出てきても絶対におかしくない選手だったんですけど、相手の西本監督は、やっぱりカープを倒すには、必ず最後に江夏が出てくるんだから、江夏を倒さなきゃだめだというところで、2つの戦力を、コマをずっと抱いていた。
一つは 藤瀬(史朗)君という、あの9回に先頭に羽田(耕一)君のかわりに出てきた代走で 、この足と、俗に言う左殺し、江夏に絶対的に強い恭介君を代打にもってきた。
大越
絶体絶命ですね。
江夏
もう本当に逃げることも出来ない、フォアボールという手は使えないし、本当に恭介君に投げた球数、そして最後のカーブというのは、本当に自分の持ってる野球技術、投球技術のすべてだと思いますね。勝負はあのカーブよりその前の5球目に投げたインローのまっすぐの球がすべてだったんですけどね。
大越
衣笠さんが前を向いて投げろといったのは、佐々木さんの打席の前ですか?後ですか?
江夏
前です。
大越
ノーアウト満塁の時点で。
江夏
一、三塁の場面になって、この時に、ファーストランナーの吹石(徳一)君が走って。で野手が集まって、野手たちは「満塁策にしてください」と。嫌なことを言うなと、満塁策って言うのはこっちはもうボールを放れないですからね。でも守っている野手たちが守りやすいようにそういう作戦を持っていくのもこっちの仕事ですから、「わかった」と、じゃあ満塁策にしようということで、平野(光泰)君を歩かせて満塁になって。
その時に衣笠君が来てくれて、本当に僕にとっては、本当に素晴らしいアドバイスをしてくれて、そして、うん、真っ白な歯を見せてくれたんですよね。
大越
気持ちを真っ白い歯で伝えてくれて、それが結果的には、佐々木選手に対する印象に残る三振であったり、次の打者に。
江夏
1アウト満塁になって石渡(茂)君が出てきた時には、ここはもう僕自身100%スクイズでくると。
これは野球のセオリーですから、1点差、ノーアウト満塁、強攻策、1アウトになって、次は逆転よりはまずは同点の作戦になっていくのは、これは野球のセオリーですから。
恭介君は打つことだけ。でも石渡君は右打ちができる、小細工ができるバッターというのは理解してましたから、スクイズでくるだろうと。
で、この時にね、ベンチには西本監督、相手のサードコーチには仰木さんがおられたんですよね。個人的に仰木さんとはけっこう仲がよかったもんですから、試合中にパパっと目をあわすと、いつもにこっと笑ってくるんですけど、この時だけは、顔こわばっていたんですよね。
あれ?なんかあるな、くるな、ということは僕なりに理解して、はい。
大越
味方のエラーも含めてヒットを打たれ、代走が出て、送球がそれて三塁になって、結果的にノーアウト満塁っていう日本シリーズ第7戦の局面で、最終回にマウンドに立ってる江夏さんに、しかもどこかわだかまりがあった江夏さんに、衣笠さんが声をかける…
江夏
その言葉が無ければ、ああいう結果はなかったと思うんですよね。
大越
球史に語り継がれる場面というのは、何かお互い気持ちの通じ合うところから何か生まれたのかもしれないですね。つまり江夏さんの本当の力が、そこでやっぱり発揮されるようになったのかもしれないですね?
江夏
まあ、本当に言葉っていうのは僕にとりましては心強いといいますかね、もうマウンド上で本当に自分1人しかいないんだというような、自分で苦しい方へどんどんいってましたから。「勝ちたい、優勝したい」という気持ちがホントに強い部分がありましたからね。
大越
江夏さんの野球人生で優勝というのは、あれが初めて?
江夏
あの時が僕は初めてなんですよ。プロ入って13年間なかったんですよね。そういう意味では、まあプロに入ってというよりは、高校時代もなかったし、本当に勝つことを教えてくれたのはカープでしたから。
大越
それから考えてみたら“優勝請負人”という名前がついたりするのは…
江夏
これはもう、マスコミの勝手な言葉ですけどもね。
江夏さんに見せた、鉄人の”弱音”
大越
そういう修羅場を経てきて、幾多のライバルや野球選手がいらっしゃる中で、江夏さんにとってあの時の局面というのもあるんでしょうが、衣笠さんという存在がそこまで大きくなった、亡くなった時に奥様から直接連絡が来る、亡くなる直前までお互いが話したりとか、ある種特別な存在であったろうと推測するんですが、衣笠さんとそこまでの信頼関係を築けたのはどうしてなのでしょうか?
江夏
うーん、まあきっかけは、彼が連続フルイニング(出場)の記録が途切れた時があったんですね。たまたま岡山遠征に行ってる時、サチは開幕して1か月間が本当に絶不調だったんですよ。本当に打率も1割そこそこで、見ていてかわいそうなぐらい、それで例えば投げやりになったような行動を見せれば別なんですけど、夜になったらいつもバット振ってる。食事をしていても、無理に明るく振る舞っている。分かるわけですよね、苦しんでるなというのは。
江夏
この時、古葉監督も苦渋の選択で、スタメンから外した。スタメンから外れるということは、連続イニングは途切れたんですよ。その時に彼が、「今から監督に呼ばれてるから行ってくるな」と言って、監督からそういう言葉を聞いたと。かなりショックやったんでしょうね。まあその夜、「飲みたい」っていうから、「わかったじゃあ行こうか」と言って。まあ本当に、いっつも彼は酒が好きな方で結構酔うタイプなんですよね、雰囲気が賑やかなのが好きで、その時は本当にもう苦しかったんでしょうね。それ見ていて分かりますからね。やっぱりもう出る言葉は愚痴ばっかりですからね。その愚痴も人のことではなくて、自分自身が不甲斐ないということをしゃべっている彼の姿を見て、やっぱりそこまで人間、自分をさらけ出すというのはなかなか出来ることではないですよね。ましてやまだ付き合いの浅い俺に。
それから変なクセがつきまして、彼、僕と行くとすぐ酔っ払うんですよ。僕が全然お酒飲まない人間ですから、僕と行くと完全にできあがってしまう。あとは豊が面倒見てくれると。面倒なんて見たくもないんですけどね、そういう関係が続きましたからね。
お互いを成長させた言葉
大越
心を許されてたんですね。
江夏
うん、なんか心を開いてくれた部分があったんでしょうね。まあ100パーセントとは言いませんけど、でもこと野球に関しては本当に開いてくれて、そして僕にすごく嫌なことを言ったんですよ。何を言ったかといいますと、「ピッチャーはええな、1回投げたらすぐ休めるからな、野手は毎日仕事やから」と。「ばかやろう、ピッチャーも野手も同じや」という気持ちはありましたけどね。
でも僕自身それを言われてから、あぁそういう考えを野手は持っているのか、ならば俺も毎日野球しようと考えが変わりまして。昭和53年の夏場、5月6月ぐらいからかな。まあ先発投手の場合は投げれば次の日はあがり(ベンチからはずれて休養)ます。僕はリリーフピッチャー、リリーフだってたとえば当時のリリーフっていうのは、多い時は3回投げるケースもあったんですよ。3イニング投げた次の日はだいたいあがりだったんですよ。でも僕は「あがりなし」で常にベンチに入って。ベンチに入るということは、いつでも試合に出られるコンディションを作っておくというのが責任ですから。それを自分でやってみようということで、彼の一言で僕はこの53年から、辞める59年まですべてベンチに入りました。
江夏
1年間130試合ベンチに入るピッチャー、この苦しさっていうのは、昭和54年に初めて経験したんですけど、彼の一言がなければ、そんなことはしなかったと思うんですよね。彼の一言のお陰で「クソっ」と、「野手だけじゃない、ピッチャーだってしんどいんだ」ってことを見せてやると思って130試合ベンチに入ることを心がけた。
大越
僕らの目にはもう広島の抑えを務められていた江夏さんは、投手として円熟期に見えたんですけど、それでもその江夏さんもクソっと思わせる、そんな言葉もかけてくれていたんですね。
江夏
いやーこれ、たとえ思っていてもね、面と向かって言えるもんじゃないですよ、うん。野手の人がピッチャーに「ピッチャーはええな、楽で。投げた次の日は休めるから」なんて、それは思っていても言えるもんじゃないですよ。でも平然と言いやがったから「このやろう!」と。「じゃあ俺も野手と同じようにすべてベンチに入ってやろう」と。ベンチに入るというのはただ(メンバーの表に)丸をつけてベンチ座ってるだけじゃないんですよ。ベンチに入ったからには常に試合に出られる気持ちとコンディション作らなきゃダメだということですね。それを自分で勉強しました。
大越
かなり本音で。
江夏
それはやっぱりね、僕も10何年目のピッチャーでしたからね。一応それなりの数字も残してきたピッチャーに対して、言える言葉じゃないもん。それを平然と言ってくれた。だから自分が改めて頭をごつんっと叩かれたような。よし!と、自分のまた新しいピッチャーとしての、リリーフピッチャーとしての目標を作り出してくれた。
俺が教えたキャッチボールの基本
大越
衣笠さんもやっぱり鉄人とは言われますけど、人間・衣笠は自分が不甲斐ないと悩むこともあったということであれば、江夏さんの方からも衣笠さんにアドバイスや意見をされたこともあったと思うんですけど、印象に残っている事などありますか?
江夏
一番最初に昭和53年、カープのキャンプにお世話になって一緒に練習入った時に、「なんとこいつは、ぶきっちょで下手な奴やな」と。キャッチボールできないんですよ。キャッチボールを10分もできない。すぐ終わるんですよ。でまあ、横着なキャッチボールするんですよ。で、「肩が痛い、肩が痛い」一人前に言うんですよ。「そらなお前、そんな投げ方しとったら肩も痛くなるよ」と。「なんでや?」と言うから「お前の投げ方ちょっとひどいぞ、例え野手であろうが正しいキャッチボールってのがある」と。
キャッチボールを大事にするのは絶対ピッチャーですから。本当にキャッチボールを単なる体ほぐしだけじゃない、肩をぬくもるだけじゃないですからね。キャッチボールの延長がブルペンで、ブルペンの延長が試合ですから。これはもう大越さんもご存じと思いますけど、それはもうピッチャーにとってキャッチボールは大事。これは野手にとってもキャッチボールは大事なんですよ。
野手の場合はその試合でケースバイケースでわしづかみで投げなあかん部分もありますけど、でも、キャッチボールという練習時間の時には、正しくボールを握って正しいボールの回転で投げることができるんですよ。それを、ちゃんと握ってるんですけどボールは変化する、ボールは伸びない、遠くに投げられない、足は開いている。「そんな放り方しとったら肩に負担くるよ、痛くなって当然や、もっと正しいキャッチボールやってみな」ということで、踏み出した方の足は相手に向かってと、初歩的なことですよ、ピッチャーから言えば。それが出来なかった。
それを言いますと、初めはキャッチボールをそんな大事にして、そんな長い間してという考えあったんでしょうね。でもそれ(教えたキャッチボール)をキャンプの1か月間ずーっと繰り返していると、シーズン入っても全然肩が痛くないと、そういうことに変わってきましたから。やっぱり基本っちゅうのは、野手とピッチャーは違う部分はありますけど、でもボールに相対する時は同じですから。それを彼に、ちょっとおこがましいんですけど、あまりひどいキャッチボールしてましたから。それを言った覚えはありますよね。その後、彼が23年間終わるまで肩が痛いなんちゅうことは言わなかったんですよ。キャッチボールを大事にするようになりましたからね。
大越
衣笠さん、じゃあ江夏さんに恩を感じてたかもしれないですね。その部分では。
江夏
いや恩を感じてたというか、そういう事はやっぱり学生時代に教えられてるんですけど、やっぱりプロ入って、だんだんだんだん、その悪い言葉で言いますと、横着になっていく、惰性になっていくという部分はあるんですよね。それをやっぱ周りからぽっと指摘されますと、ああ学生時代やってたなとか、そういう練習やってたなと思い出すんじゃないですかね。
野球っていうのは全てボールに相対する時は、ピッチャーとバッター、基本的な部分は違いますけど、形は違って目的は同じですからね。
引退後も続いた友情
大越
そのお二人も引退という時を迎えて。野球選手の場合、引退後の長い人生をどうやって生きていくのかというのは、その時の選手間の友情とかすごく大きいと思うんですけど、ユニフォームを脱いでからも交友関係というのは続いたんですか?
江夏
そうですね。ユニフォームを着てる時は、同じチームの時は毎日一緒ですから、ただまあ僕はその後日本ハムに行き、最終的に西武に行きましたからね。まあこの時は電話するのは月に1回あるかないかでしたね。ただまあ、現役が終わってからは結構連絡取り合ったし、やっぱり自分の気持ちの中に、何か迷いがあった時に、サチがいたらこういうアドバイス、こういう考えだろうなっていうことは絶えず持ってましたからね。そういう意味では僕にとっては本当に、気持ちの上で大きな支えになってくれたと思うんですけどね。
大越
最初の話に戻りますが、江夏さんは通夜も告別式も参列されたんですよね。
江夏
出席させてもらいました。
大越
ご本人の霊前に祈る時に、どういう声をかけられましたか?
江夏
まあね、彼の棺に入っている顔を見ますと、「ばかやろう、まさか俺より先に」。まあ歳は彼の方が学年2つ上なんですけど、まさか俺よりか... だって鉄人でしょ?鉄人っちゅうのは、そんな簡単に...という気持ちはありましたからね。ただまあ4年前かな、(病気が)わかった時に、相当苦しんでる。聞いてみますと、本当にお医者さんから余命1か月ということを言われたらしんですよ。でもそれを4年近く頑張ったんですから。改めて鉄人やったんだと。ただまあ亡くなる10日ちょっとぐらい前かな、「どうしたんだ?」と聞くと、「苦しいんや」と。腹水がかなりたまってると。僕ら色々聞いた限りでは人間、腹水がたまったり黄疸が出たりっていうのはかなり良くない状況だっていうのは聞いてましたからね。でも4キロほど抜いてちょっとは楽になったと言ってましたからね。頑張れよと。
大越
そんな余命宣告まで受けてられたんですね。しかしその余命宣告で、単に命を生きながらえただけじゃなく、解説の仕事をされたというのは…
江夏
今から考えるとありがたかったと言いますかね、たまたま3年前のタイガースのキャンプに、僕が臨時コーチという形で声をかけられてお手伝いをした時に、来なくていいのにサチが沖縄まで来たんですよ。電話で「行くからな」っていうから「ばかやろう、来なくていいよ、治療しとけ」と。「わかったわかった」って言いながら、沖縄まで「お前がグラウンドに立ってる姿見たいから」って来てくれたんですよ。そりゃうれしい部分と、大事に至らなきゃいいなという気持ちが強かったですね。で、東京に帰ってやっぱり容態が少し悪くなったって聞いた時は、もう本当につらかったですよね。
大越
「お前がグラウンドに立ってる姿見たい」って言われた時は、野球人としてはうれしかったんじゃないですか?
江夏
そりゃ友としてはうれしいですよ。でも、体を考えると普通の状態じゃないんだよと。口を酸っぱく電話では言ったんですけどね。
衣笠さんが野球界に残したもの
大越
改めて衣笠さんが日本の野球界に刻んだ足跡、彼の野球人生の意味っていうのは、どういう事だとお考えですか?
江夏
その数字的なものね、23年間やった事とか、うん、そういうんじゃなしに、衣笠祥雄という男が存在した。で、彼らしいなと思ったのが、昭和54年だったかな、巨人戦で西本君から背中に(デッドボールを)あてられて、その晩ぼく彼の家に行ったんですよ。泣いてるんですよ「痛い、痛い」と言って。でまあ、かなり遅くまで一緒にトレーナーの福永さんという方と一緒に行った時に、痛い痛いと泣いてるんですよ。ゆっくり休めよと。もうこの時には試合に出れるなんて夢にも思わないですからね。ゆっくり休めよと帰っていって。
次の日、僕がグラウンドに行ってユニフォームに着替えてベンチに行きますと、なんとアイツ、ベンチにどーん!とバット持って座ってるんですよ。「お前、何しとんねん?」と言ったら、「何を!」とジロっとにらむんですよ。「休んどけよ」と僕はグラウンドへ練習に行った。(投手と野手で)やることは違いますからね。僕は自分のコンディション作りをして。
その試合、(巨人は)江川君が先発したんですよね。僕は例のごとく後半戦ブルペンへ行って、ちょっとしていると場内アナウンスで
「代打、衣笠」。
みんな、「わーっ!」というよりも「えーっ!?」って、騒然としてましたよね。それで、ブルペンにいた控えのピッチャー、裏方さんのキャッチャーたちもみんな彼の状態を知ってるわけですよ。背中に亀裂骨折してる。野球出来る状態じゃないっていうのを、みんな「えーっ!?」となって、みんなが注目して見たんですよ。なんと江川君の本当の全盛期ですからね。あの速い球を当たりもせんのに3つ振って、胸張って帰ってきたんですよ。その時にみんな下向いてましたよね。どう表現していいかわからないから。心の中ではみんな「ばかだなー、何やってんだ、野球やれる状態じゃないだろ」とみんな思ってたと思うんですよ。
でもそこに彼の野球に対する思いが、そのスイングに表れてたんですよね。そして言った言葉が「1本目はファンのために、2本目は自分のために、3本目は当てた西本君のためにフルスイングしたんだ」と。これはなかなか言えることじゃないですよ。たとえばすべて健康に治ってから言う言葉やったらまだ分かりますよ。苦しい、まだ背中にヒビが入ってる時に、彼の相手を思いやる。先日のインタビューで王さんも言ってましたけど、当てられて相手を威嚇するような痛そうな態度、行動は一度でも見せたことはないですよね。それは彼の野球を始めた時からの人生、野球人生のスタイルなんですよね。
高校時代は、中学の時も悪ガキやったらしいです。ということは、それなりにつっぱってる部分もあったんでしょう。でもそれじゃダメだということを彼は自分で悟って、プロ野球入ってあの形ができたんじゃないでしょうかね。これは口で言うほど簡単じゃないですよ。人間当てられたら当て返しますよ。当てられたら威嚇しますよ。やられたらやり返せっちゅうのが僕らの育ってきた環境、野球やってきた環境でしたから。当てられたら当て返せっていうような教育受けてましたからね。それを当てられても威嚇することなく、痛そうにする姿も見せない。そういう選手は、これから果たして出てくるかなと。
大越
そういう衣笠さんの人格ってどうやって出来ていったんですかね。何かきっかけがあったんでしょうかね?
江夏
僕の聞く範囲では、やっぱり環境的に苦しいというのがあったみたいですね。そういうのをかなり酒が入った時に、全部が全部は言えなかったと思うんですけど。言える範囲にはいろいろ聞きましたけどね。そうかそうかと、僕もそういう答えしましたけどね。
そして、贈る言葉
大越
いろんな苦しい経験があった分だけ、それを乗り越えた時に、彼の持っている本当の優しさや思いやりが、彼の野球人生後半、そして人生の中で活きていったという事かもしれないですね。
江夏
どうなんですかね、まあただ、最後は国民栄誉賞ですか、素晴らしい賞いただいて良かったなという部分は当然あります。でも、僕に言わせれば、何が国民栄誉賞だと。いっつも酔っ払って、いっつも連れて帰って、部屋に放り込んで、着てるもの脱がせて、いい迷惑ですよ本当に。
まあそういう意味じゃ、こまめにやってくれた。たとえば北海道なんて行きますと、毛ガニが出てきますよね。あいつは魚を一切食わないんですよね。でもカニは食うんですよ。カニ食う時にはきれいに身を出してくれるんですよ。僕はそういう動作が嫌いなんですよ、食べることしかできない。そういう細かい作業できないなんですよ。
でもあいつは一生懸命、身を出してくれて、僕に出してくれるんですよ。ありがたい男だったですよね。ホントに人の面倒見もすごく良いところも、すごーくマイペースなところもあったしね。まあ本当に僕にとっては、残り何年生きるかわからないですけど、30歳の時に彼と知り合って40年間付き合ってきて、本当にいい奴と知り合えたな、良い奴を友達に持ったなと。
先に逝ってしまった棺の中の顔を見て「お疲れさん」と。あの世へ逝けば先輩のカープの山本かずさん(山本一義さん)も待ってるし、タイガースの村山(実)さんも待ってるし。「大好きな野球談義してこい、そのうち俺もそこへ入らせてもらうからな」ということは言いましたけどね。