※この原稿は、『リズと青い鳥』の重要な部分に触れています。予めご了承下さい。
やがて時が過ぎ去っても、この瞬間は永遠に続く――。
引っ込み思案の少女は、闊達な少女とずっと一緒にいたいと願っていた。でも高校3年生という時間は、2人をそのままにしてはおかなかった。吹奏楽部を舞台にしたこのシンプルな物語は、劇伴も含めとても静かに表現されているが、その実、とても饒舌である。
それは、オーボエ奏者の鎧塚みぞれが、校門近くの階段でフルート奏者の傘木希美を待っている、開巻間もないシーンから徹底されている。
まずみぞれは、膝をあまり上げず、少し重心を前にかけて、まるで「先に進みたくない」かのように歩いて登場する。足音も心なしか音色が暗い。
一方、希美になると、元気よくカツカツと歩いてくる。足は前に大きく踏み出され、歩く度にポニーテールも踊るように右に左に大きく揺れる。階段を一段とばしで上ったりもする。
そして、そんな希美を、みぞれはうしろからじっと見つめている。簡単な会話以上の関係性がふたりの歩く姿から匂い立ってくる。この映像言語の饒舌さは、ラストシーンまで全編を貫いている。
続いて、2人は音楽室に入り、互いの楽器を取り出す。希美がみぞれのとなりの椅子に座ると、みぞれは希美を意識し、彼女を見つめる。その瞳をカメラは広角レンズを使ったアップでとらえる。
要所に入るこのキャラクターの目元を狙ったクローズアップは、それぞれの心の中に起きた“さざなみ”を“大波”のように観客に伝えてくれる。
この時、2人が並んで読むことになる童話絵本が表題となっている『リズと青い鳥』である。
希美がどうしてこの絵本を持っていたかといえば、彼女たちが所属する北宇治高校吹奏楽部は、コンクールの自由曲としてこの童話をベースにした楽曲を演奏するからだ。画は冒頭に、『リズと青い鳥』の冒頭――リズと青い鳥の出会い――の部分をおいて、本作が童話と照らし合わせながら進行することを示している。
そしてみずれと希美は組曲『リズと青い鳥』第3楽章の冒頭部分から出てくるオーボエとフルートのソロを吹き始める。吹き終えて希美は、「自分のピッチが合っていなかったかな」という趣旨のことを言うが、確かに違和感はこのソロの二重奏にみちみちていて、物語後半へと続く不穏な雰囲気を既に漂わせている。
この不穏な雰囲気がさらに掻き立てられるのは、希美がコンクールについて前向きな言葉を発するのに対し、ひとりになったみぞれは、本番なんてこなければいいのに、とつぶやくからである。
こうして『リズと青い鳥』は冒頭およそ10分で全てが示される。そして観客は、残り80分をかけて、何気ない日常として描かれていた冒頭10分にどのようなドラマの予兆が潜んでいたかを思い知ることになる。希美とみぞれの関係が変化していくのは、必然だったと知るのである。
ドラマが急浮上するのは、中盤、みぞれが音大受験を進められたあたりからだ。
みぞれが音大のパンフレットを渡されたことを知った希美。カメラは廊下の2人を横からとらえ、希美は「私も音大受けようかな」というセリフとともに、画面左側へとフレームアウトしていく。
「希美と一緒にいたい」というみぞれの言葉を肯定するようなセリフでありながら、映像はそれを裏切っている。このような希美の言葉と芝居の不調和が、映画後半の緊張感を静かに高めていく。それまで、絶えず楽しげなステップを踏んでいかのように動いていた希美の足だが、ピアノを囲んで3年生4人が会話する時には、快活さを装ったセリフを裏切るように、机のバーにのせられた足はまったく動いていない。
このようにして関係性を描く作品だからこそ、本作は、画面を縦に区切る「境界線」をどこに置くかという演出の基本について、とても繊細に気を配っている。
たとえば、みぞれは慕って声をかけてくる後輩の剣崎梨々花との関係の変化は、教室の窓の柱を使って描かれている。
教室にいるみぞれのところに、初めて梨々花がやってきたとき、2人の間には厳然と柱が描かれている。だがやがて、みぞれはその柱の中に入り込んで自ら境界線を侵犯するようになる。最終的に教室でみぞれと梨々花が一緒にオーボエを吹く時、オーボエは境界線である柱を超えており、2人の気持ちのようにクロスして描かれる。
だからこそ、理科室で希美とみぞれの間の距離が明確になった時、2人の手前に置いてある実験スタンドへとピントが送られ、縦に伸びた支持棒が2人の間を引き裂くようにう画面を立てに区切った時の衝撃も大きいのだ。
もちろんこのような境界線を使った演出は、映像言語としては決して珍しいものではない。だが本作は、こうした「やるべき演出」を丁寧に見せつつ、そこに加えて、随所に花のカットをインサートしたり(絵本世界では青い花、現実世界では黄色い花がフィーチャーされている)、窓の外を飛んでいく鳥をイメージ的に見せたりと、言外の要素を加えて、映像言語を重層的に構成していく。
映画は童話の中のリズと青い鳥の関係性を、みぞれと希美の関係性に重ね合わせるように進行していくが、やがてプロット上の大きな転換点を向かえる。この転換点は、吹奏楽部の演奏シーンとしてもとても見ごたえと聴き応えがあるシーンとして作られている。演奏だけでキャラクターの感情の変化を伝えることに成功している。
この前後でみぞれと希美の関係は大きく変化してしまう。相手の気持ちがようやくわかるようになって、だからこそ自分の気持ちがわかることもある。自分が何者かわからなかった、まどろみのような幸福な時間は終わる。
かくしてみぞれと希美の間に距離が生まれる。その距離はまず、画面分割として表現される。時折画面に登場して、ドラマの予感を示していた「境界線」が物理的な区切りとしてフレームの上に現れ、別々の空間にいるみぞれと希美を映し出す。
ただ別々の空間にいてもなお、カメラは2人がそれぞれ似た行動をとっている瞬間を拾い上げており、それはこの映画の優しさだ。
そして別々の時間を過ごした2人は待ち合わせ、一緒に下校をしていく。階段の段差を使って希美がみぞれに語りかけるシーンも印象的だが、もっとも心に残るのはその後のカットだ。
たわいない会話をしながら歩く2人。その2人をカメラは正面から望遠レンズで撮っている。
手持ちカメラでドキュメンタリー風にキャラの心情に迫ったり、望遠レンズを使って「盗み見る」という形で観客をキャラクターのドラマに立ち会わせるという手法は、それぞれ『けいおん!』、『たまこラブストーリー』で使われていた。本作もこの延長線上でカメラは物語を語っている。
だがこのラストの望遠レンズは少し違う。2人の関係を盗み見るだけに留まない。このカットでは、もう別々の道を歩き始めた2人を収めつつも、そこには(レンズの圧縮効果により)「2人の距離」が映っていないのである。
やがてこの2人がどのような人生を歩んでいくか観客は知らない。でも今、なんの距離もなく一緒に下校しているその瞬間があったという事実は永遠なのだ。
青春という名の物語の“ハッピーエンド”とはそういうものだと思う。
[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。