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「お金に印」をつける。「美しい稼ぎ」と「美しい使い方」

前回、役員報酬1億円以上開示の話しをした。「美しい稼ぎ」の予告をしたので、勢いに乗って、続いて書くことにした。よく「お金に印はついていないから、○○で結構です」というような話し方を聞く。経済価値と言う意味では、1万円は一万円である。為替変動も、そういった価値の平準化のために本来存在するから、まさに「お金にしるし」はないはずなのである。しかし、僕は、いつの頃からか「お金には色分けがあるなあ」と思うようになってきた。よい例が、倉本聰の「北の国から」で純君が貧しいお父さんから汚れた1万円札をもらったが、その「なけなし」の思いを、泥のついたお札に感じ、ずっと使えないで封筒に入れて大切にしていた場面だ。あのドラマを観た人は、印象に残っているのではないだろうか。これ以上は「お金に印」の説明はいらないであろう。

1億円以上の年俸を開示するのはよいが、もっといいのは、その使い道を開示することだと思っている。もし、生活が慎ましやかであるが、報酬の多くを福祉施設などに寄付したり、部下の慰労にせっせと身銭を切っていたりしているのなら、それこそ高額報酬を取るに相応しいあっぱれな方であろう。具体的には、今の日本では、家族の人数にもよるだろうが、せいぜい数千万円もあれば、贅沢な生活ができるだろう(僕には想像でしかないが)。それ以上は「死に金」になる恐れがある。悪いこと(なんでしょうか?)に使ったり、相続で子供たちがもめる材料になったり、働かない子供になったり、、、など。

ここで、恥をさらそう。僕が、医学事務所&クリニックを始めてから、26年にもなるのに、業績は低迷している。しかし、業務は滞りなく行い、多くの人の役に立ってきたと自負はしている。主侍医という「民間の侍医」を契約ベースで提供している。契約には、いくばくかの契約金と、月額10万円以上の費用がかかるから、普通の人にはなかなか手が届きにくい。そこが辛いところでもあるが、今のところ仕方がないので、別途奉仕的な相談業務も行うことで、自分を納得させている。そんな高品質ではあるが、若干高価でもある医療サービスを提供しているが、未だに年間の売り上げは1億円には遥かに届かない。利益ではなく売り上げの話しであるから税務署に睨まれるどころか笑われるはめになっている。その中から、やや贅沢なスペースであるが華美ではない事務所の家賃を払い、僕を含め3名の主侍医と78名の救急担当主侍医と4名のスタッフの給料に振り分けているが、誰も貧乏にあえぐような生活ではないし、そこそこ誇りを捨てないでもいいくらいの生活は出来ている。営業や人材確保の先行投資や万一に備えてのリスクヘッジまでの余裕がないのは、経営者として失格気味なのだが。言いたいのは「一億円」とはそれくらいのお金なのだということだ。「一億円の報酬は、私のような優秀で選ばれた人物には当然」と思っているご仁。それを言うなら、僕の事務所、代表の僕は東大の医学部出身で、それなりの研修を積んで、経験も30年ある。一人のスタッフドクターは、東大の後輩であり、優秀な上に人格もよろしいし、勉強好きで現在東大の法科大学院で司法試験にもチャレンジ中である。もう一人は慶應の教え子であり、学生時代に「塾長賞」まで頂いた優秀で、これまた抜きん出た性格の良さである。救急を支えてくれる数名の医師たちも、教授や部長クラスを交えての陣容。事務局専任スタッフもみな、20年以上勤続の精鋭たち。手前味噌と言われるかもしれないが、これが束になっても「一億円役員」の能力に敵わないとはとても思えない。

「1億円」とはそんな額であるということだ。これを理解するためには「お金には印がついている」と思うしかないであろう。そんな報酬を頂くのは、決して会社から頂くのではなく、その逆の「社会」から頂くのだから、公表してもいいくらい「生き金」として、世の中の模範となり還元するようなあっぱれな使い方をして欲しいものである。是非、「使い方」の開示を実現して欲しい。

つまり「ノーブレス・オブリージ」の考え方である。

これに関して、更に言及すれば、世の中には1億円などとは桁違いに稼ぐ人がいて、大衆も「あのゴルファーは、野球の選手は、1億円しか年俸がない」などと言うくらいに感覚が麻痺してきている。人間はほとんどの刺激に対して慣れ現象を起こすからだ。しかし、そういった超人的に稼ぐ人は、やはりその使い道に「ノーブレス・オブリージ」を意識して欲しいと願っている。

そのためにアイデアがある。5000万円くらい以上から、福祉目的に税金が累進的にかかり、1億円以上は99%を税金とする。しかし、そのお金には印を付けよう。お札に「遼」とか「ビル」とか「マイケル」とか印刷し、福祉目的で使う。「遼に感謝しながら、リハビリする」とか、「ビルのお陰で、老後が安心」となれば生き金となるだろうし、遼もビルも鼻が高いから、稼ぐこともまんざらではない。空想ではあるが、楽しく明るい空想ではないだろうか。

最近の報道で、この不景気なのに富裕層の人数が増えた、とあった。危険な徴候だ。「分かりやすくするためには、極端に考える」というのが僕のひとつの思考ルールがあるが、もし、世の中の30%が超富裕層で、残り70%が貧困ではなく日本での年俸に換算して数百万円の、それなりにがつがつしないでゆったり人間らしく生きたいという層の2層になったらどうなるだろう。もはや超富裕層のお金の価値はなくなり、そのお金で買えるサービスは限定され(サービス提供者がいなくなる)、富裕層間のカジノのなかのダミーのチップのようになり果てはしないだろうか?まあ、この危惧は現実的でない、空想、妄想であればいいのだが。富裕層のみなさま、自分の首を絞めることの無きように。

作成:2010/06/24

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