1995年1月2日。
日本テレビ社内は歓喜の声に湧いた。12年間、年間視聴率三冠王者に君臨し続けてきたフジテレビをついに逆転したのだ。「0.01%」をめぐる僅差の戦いだった。
歓喜の輪の中心にいたのは、編成局長として辣腕を振るった萩原敏雄だった。勝利確定の報を聞いてすぐに駆けつけた社長の氏家齊一郎も社員たちの労をねぎらった。そして、その立役者となったディレクターやプロデューサーたちにバイク便や電話などで次々にその吉報は知らされていった。
60~70年代半ばまで日本テレビはテレビの王様だった。『シャボン玉ホリデー』や伝説のプロデューサー井原高忠が手がけた『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』、『11PM』、ドラマでも『おれは男だ!』などの青春シリーズや『傷だらけの天使』といった時代を代表する革新的な番組を生み出し、テレビ界を牽引していた。
けれど、80年代に入ると日本テレビは苦汁をなめ続けることとなる。いまや絶対王者の日本テレビを見ると信じられないことではあるが、この頃は在京キー局の中で3位が定位置となり、ひどい時は、最下位がすぐ背中に迫っていることもあった。そんなとき、支えていたのはいつだって、プロ野球の巨人戦。それはつまり、「巨人戦頼り」などと揶揄させることを示していた。〝テレビ屋〟にとっては屈辱以外の何物でもない。けれど、どんなに悔しくてもそれが紛れもない事実だった。
テレビ草創期、黄金時代を築いた日本テレビのDNAは失われてしまったのか?
このままではダメだ。
80年代後半、いよいよ反撃の狼煙をあげた。その原動力になったのが、30代を中心とした若い世代のつくり手たちだった。彼らの多くは、黄金時代を知らない。最悪の状態の日本テレビでテレビ屋としてのキャリアを積み、幾度も〝失敗〟を重ねていた。いわば、「落ちこぼれ」だった。
「逆襲」とは、敗れざりし者たちだけに許された特権である。
いかにして、日本テレビは、フジテレビを逆転し、絶対王者と呼ばれるまでになったのだろうか——。
日本テレビの天皇
遡ること2年前の1992年8月——。
「中継カメラを映せ! ここだー!」
「ふざけんな! 今歌わせないでどうするんだよ!」
「うるさい! 今はこっちを流すんだ!」
『24時間テレビ』本番中、日本武道館と日本テレビ本部の間で怒号が飛び交っていた。
武道館にいるのは、プロデューサーの小杉善信と渡辺弘。次々にやってくる有名タレントたちに対応しながら、それぞれに見せ場をつくるべく奔走していた。その苦労を知ってか知らずか、日本テレビの本部で全体の流れを見ながら12台のカメラのスイッチングをしていた総合演出のひとり、五味一男は、せっかくニ人が苦心し調整したスケジュールを反故にし、後述する別の〝ある中継〟を優先して流そうとしている。とんでもない試みだったが、そのほうがおもしろい、視聴者に求められているはずだと直感したからだ。
「日本テレビの天皇」
当時、周囲からそんなふうに呼ばれていたと自嘲気味に五味は語る。
「確かにそれくらい天狗になってましたね。自分に絶対的に自信がありました」
五味は30代の日テレの作り手の中で数少ない〝エリート〟だった。87年に広告業界から転身し中途採用されると翌年には『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』を手がけ大ヒット。さらに『マジカル頭脳パワー!!』も生み出し、日テレのエースのような存在になっていた。このとき、五味は36歳。何をやっても〝当たる〟という確信のようなものすらあった。
「一応、事前に決めた構成表とか台本はあったんです。それは、もうちょっと武道館で歌う人の時間が多かったんですよ。でも、〝あの中継〟のほうがおもしろいから武道館の出演者の歌とかを無視して長く中継しちゃったんです。なんせ〝天皇〟だから、誰の言うことも聞かない(笑)。というか、予定調和をぶち壊さなきゃいけない。その場で台本が作られていくような感じです。だから武道館は大混乱だったでしょうね(笑)」
「『24時間テレビ』の視聴率は諦めていた」
そう、1992年8月29日~30日に放送された『24時間テレビ』は大幅にリニューアルされたのだ。このリニューアルこそが先に述べた反撃の狼煙の象徴だった。のちに日本テレビ社長にまで登りつめた萩原敏雄は、当時、病気で入院中だったが、その放送を見て驚いたという。
「あれは、前代未聞と言っていいくらいのものすごいリニューアル。あの頃の日テレの試みの中でいちばん評価していいと思います。それまでどっちかっていうと『24時間テレビ』は〝お荷物〟。その日だけは視聴率は諦めるというような番組だった。立派な番組だったかもしれないけど、ものすごく多くの人が喜んだり楽しんだりはしてなかったはずの『24時間テレビ』を、同じチャリティー趣旨のままで多くの人が見る番組に作り変えた。趣旨を変えずにそれをやり遂げたことがすごいんですよ」
『24時間テレビ』は、その前年の91年、史上最低視聴率を叩き出してしまっていた。開始から14年、もともとチャリティーというとっつきにくいテーマであるのに加え、マンネリ感が充満していた。
一方、フジテレビ版『24時間テレビ』である『1億人のテレビ夢列島』は逆にフジテレビの好調を証明するように成功が続いていた。元々は『24時間テレビ』をパロディーにしたもの。日テレがチャリティーなら、フジテレビは「笑い」を武器にした。始まるとすぐに〝本家〟を超える人気番組になった。
そして、『24時間テレビ』が最低視聴率に沈んだ91年、皮肉にも『夢列島』の盛り上がりは最高潮に達した。2日目の午後に放送されたビートたけし、タモリ、明石家さんまの「BIG3」が揃ったコーナーはそれを象徴していた。
さんまが買ったばかりの新車で「車庫入れ」をしようという企画。嫌がるさんまのもとに、さんまの愛車・レンジローバーが登場する。すかさずたけしは隙を見て、レンジローバーに乗り込むと、「誰かヤツを止めなさい!」とさんまの悲鳴が鳴り響く中、車をブロック塀に躊躇なくぶつけ、ボコボコにしたのだ。いまのテレビではできない過激な内容に視聴者は歓喜し、〝伝説〟となった。
フジテレビらしいお祭り騒ぎと、日本テレビの生真面目さ。当時の視聴者は断然、前者を支持した。楽しくなければ、テレビじゃない、と。
「日テレが潰れるまでやめられない」
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