2018年(平成30年) 5月12日

沖縄タイムス+プラス ニュース

普天間飛行場の成り立ち 戦前は宜野湾村の中心地

 米軍のヘリが墜落した沖縄国際大学は、米軍普天間飛行場に隣接している。普天間飛行場が建設された場所は沖縄戦の前、「宜野湾村」の集落があった。村役場や宜野湾国民学校があり、南北に宜野湾並松(ジノーンナンマチ)と呼ばれた街道が走る生活の中心地だった。

戦前(1944年)の宜野湾村と普天間飛行場の重ね図

 宜野湾市史によると、沖縄戦の前年の1944年、宜野湾村(当時)には22の字があり、1万3635人が住んでいた。そのうち、普天間飛行場は宜野湾の中心、14字にまたがる場所に建設された。14字では8880人が生活していた。

 45年の沖縄戦で住民の古里は奪われた。宜野湾へ侵攻した米軍が占領と同時に土地を接収し、滑走路の建設を開始。住民は同年10月以降に順次、収容所や避難先から帰村が許されたが、多くが古里に戻れず、米軍に割り当てられた普天間飛行場周辺に住まわざるをえなかった。

 住民の先祖が眠る墓や御願所は今も基地の中にあり、入るには米軍の許可が必要になる。

 2015年6月に自民党若手議員らの勉強会で、作家の百田尚樹氏は普天間飛行場を「もともとは田んぼの中にあり、周りは何もなかった」などと事実とかけ離れた発言をし、非難を浴びた。
 古里を奪われた住民が基地の周りに住まわされたのが実情だ。

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