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批評再生塾4期キックオフイベントののちに(前編)

さる5月9日、五反田のゲンロンカフェにて「佐々木敦 ゲンロン 批評再生塾」第4期キックオフイベントが開催された。登壇者は主任講師の佐々木敦、批評再生塾第1期総代の吉田雅史、同じく第3期総代の渋革まろんの3名。この文章の書き手である第3期批評再生塾参加者の私、伏見も現場に駆け付けていた。


第一部が終わり、第二部になりゲンロン社長東浩紀が登場する。東さんは登場時から憤怒の感情を露わにし、第一部のトークに対する苛烈な批判を展開した。曰く、このイベントは第4期の参加者を呼び込むためのイベントであり、「3期はよかったねー」という同窓会的な回顧を語る場ではない。そうした内輪なトークに終始した結果、イベントが開始してからの4期応募者はゼロ人である。参加者が少なければ批評再生塾はすぐに頓挫してしまう危うい試みであり、そもそも批評という営為が存在しないものを存在させようとする困難な試みなのだから、いつ消えてもおかしくないという危機感を持っていなくては批評家はつとまらない。ぼくはそうした危機意識を再生塾を通じて伝えたつもりなのに、まったく伝わっていない。3期の論考がいくら評価されようが、4期の参加が増えなければそれは失敗なのだ、と。

そのあと、市川真人さん、さらには津田大介さんも壇上に加わり、批評についての語りが展開された。

今日になって東さんは批評再生塾に対して連投ツイートをおこなっている。その最初の二つにはこう書かれている


「もし批評再生塾が、なぜいまの時代に批評が必要なのか自分の言葉でまったく語ることができず、「おれたちみたいな批評オタクにも居場所を与えてくれた再生塾はよかったです!」と言う卒業生しか育てられないのであれば、いくらそのひとがライターとして優秀でも、講座としては失敗と言うしかない。」


「第3期の募集コピー「批評はひとりでやるもんじゃない」を考えたのはぼくですが、それが、「みんなで群れて批評のまねごとして楽しければそれでいいんですね!」という自己肯定の甘えの言葉として受け取られたのだとすれば、本当に残念。第4期はちゃんと独り立ちできる批評家を育てたいと思います。」

 

さて、伏見個人の反省としては、トークの第一部を見ていて「まずまず上々だ」と感じていたことに尽きる。引っかかりはあったのだが、3期の総括としてはこんなものだろうと見ながら思っていたのだ。その感受に外部性、あるいは批評性が欠けてたといわれればその通りだ。だが、3期生たちはゲンロン社員から「3期の同窓会的イベントの意味合いもあるから来てほしい」と言われているのだから、同窓会的雰囲気を受け入れるのも必然である。ところが、ゲンロンの社長は後から「これは同窓会ではない」と殺気まじりに怒号を立てた。もちろん、我々3期生が批評再生塾の未来(それは自分自身の未来と少なからず関係している)を慮って、「こんなノリでいいの?」という疑問を投げかけるべきだったとも言えるだろう。昨年のキックオフイベントは佐々木敦東浩紀、大澤聡という百戦錬磨の論客が集まって、これからの批評に期待することを堂々と語り合っていた。今回登壇者となった吉田氏、まろん氏はそんなつわもの達と同等、もしくはそれ以上のものを提示しなくてはいけなかった。3期生は直接的にはイベントのただのお客さんだとはいえ、まろん氏を鼓舞し、支えなければいけなかった。そこに対しての反省は大いにするべきだろう。とはいえ、今回のキックオフイベントがどこか歯車の嚙み合わないものになったとしたら、社長と社員が違う言葉を語って、違う方向を向いていたゲンロンという会社に責任がある。少なくとも、3期生の批評の構えがおかしいとか、「自己肯定の甘え」を起因にできる話ではないのだ。ゲンロンの社長が3期生を批判したことに対しては、明確に筋違いであり、はっきりいって憤っている。もっとも原始的に怒りを表現するとしたら、「なんでお客として(タダになったとはいえ最初はお金を振り込んで)遊びにいっただけなのに、公然と批判されなきゃならんのだ!」となるだろう。

 

ただ、ここでぼくは東浩紀批判を展開したいわけじゃないし、東さんの失望にも自分なりの理解は感じた。とはいえ、第3期が持ちえた力をわざわざ否定しにかかることに対しては、その一員として反論しておきたい。今後のそれぞれの活動を通して示したほうがかっこいいんじゃないかとも思うのだが、今の時点で態度表明を見せなくては、ただの従順なゲンロンの金魚のフンとして我々がとらえられてしまう可能性が高い。少なくとも僕は、そんな人間ではない。ということを次のブログに書き上げる。

(これから予定があるので、続きは夜に書きます)