超歌手

DON'T TRUST TEENAGER

現代を生き抜く至言満載!
妥協なき創作活動で支持されるミュージシャン・大森靖子が、生死、社会、芸術、偏愛まで余すことなく書きつけた、超本音エッセイ集『超歌手』(6/7発売)。
本書の刊行を記念し、cakesで一部を特別公開します。
くだらないを壊せ。美しく生きろ。

「真実と向き合うときの言語」と「人にそれを伝えるときの言語」は異なる

ライナーノーツというものがある。曲があって、その曲に込めた想いや、制作過程などをつくった人が語るものだ。

私がライナーノーツを書くときは、おそらくその範疇を飛び越えて新しい作品としてまた文章を曲から起こしている感覚すらある。

『絶対少女』というアルバムを制作したときは、インディーズ時代で、どうやったら聴いてもらえるのだろうかという策を無限に打ちまくっていた。その全曲解説のようなものを、アルバムの特設サイトに誰でも読める状態で公開した。文章の質感は、アルバムを聴いてない人にも世界を感じてもらうことにつながり、それをきっかけで音源を聴いてくれたり、ライブに足を運んでくれたりする人もいた。

文章を書くのは好きだし、自分と向き合うためのごうごうとした不確かなままの文体をiPhoneの画面に叩き落としていくのは快感でしかない。そこは創造と直結している。

しかし、誰かに何かを伝え、感じとってもらうための、他人との共通言語を意識した文章を書くとなると、とてつもなく疲労する。

やらなければならないとはわかっているものの、真実と向き合うときの言語と、人にそれを伝えるときの言語とでは、英語と日本語ぐらい違うのだ。だから、誰かに何かを伝えられる日本語に落とし込む能力はまた、文章を生み出す能力とは別なのだ。

くしくも若いときというのは持っている言語が少ないため、否応なくわかりやすいことを言うことができる。

だから真実と向き合うときの言語に、人に伝わる簡単な言葉を用いられていることが多いのだ。そのわかりやすく尖った表現は、「10代特有の感情の機微」として評価されるだろう。

その「エモみ」と言われているようなもの、それはやがて失われていくもののようにされているが、そんなことはまったくない。

30代にも30代特有の感情の機微が当たり前にあるし、40代には40代のブルースがあり、それぞれの現実と向き合い、問題に直面し、解決し続けている。

年齢を重ねるにつれ、問題は難解になる

やはり年齢を重ねていくにつれ、問題は難解になっていく。問題が難解になっていくので、答えも難解になっていく。語彙が増えるし、レベルが上がっていく。

レベルが上がった状態で、たとえばドラクエみたいに、最初の村にまた訪れて、スライムがあらわれて、こちらの様子をうかがわれたところで、腕を振るのもわずらわしいほどのザコキャラと化しているのは当然のことだ。

ただ、ゲームなら数ヵ月で相当強くなれるのが、人生だと何年も何年もかかるだけ。

私は東京に来てからバンドマンとしか恋仲になったことがない。

付き合ってくれない恋人に対して、お金や肯定感や時間や才能のすべてを捧げることによってそばにいることができた。

しかし大前提の「おまえがとにかく好きだ!」という気持ちが常に相手にないので、普通にむなしかった。

彼女ではない自分に、優しくはしてくれる。抱かれる。抱いたあとに「なぜおまえとなんかセックスしちゃうんだろう」と毎回言われる。泣く。優しくされる。その繰り返し。

その優しさは本質的な優しさではないことはわかっている。何かを得るためのコミュニケーションとして「優しさ」の形をしたものを投げつけているだけだ。

そういうヤツは逃げようとすると追ってきて、こっちが「自分に魅力がないからこのような扱いを受けるのは当然」とボロボロになるまで女の価値を落としてくる。

その状況をある程度楽しんでいたとはいえ、音楽がないとまじでひたすらクソ女だった。

このときも、恋愛においても他のことにおいても、「みんなが普通にできることがなぜか自分にだけできない」。このことがきっとずっといちばん、すべてのつっかえだったけど、「そんなのできなくてべつによくね? そのぶん私ができて当たり前のことでみんなにできないこと山ほどあるんだし」というのを、自己評価を下げることも、逆に上位意識を持ち人を見下すこともなく、ただ当たり前に人に個性があって、だからそれぞれ別の仕事をするという、それだけの自然なことと思えるようになった瞬間、少しだけ人生が拓ひらけた気がした。

溺れることは不幸ではない

10代に直面するのはそういった根本的な問題が多く、すべてをひもといていく方程式になるようなものもそこで自分で手に入れなければ意味がないので、たしかに重要だ。

10代の頃に向き合わなければならなかった問題は、10代の頃にすら、やがて解決できてしまう程度の問題だろうことなんて、心のどこかでわかっていたのだ。それすらむなしかった。

ひたすら苦しくて悲しくて、バカみたいに傷ついて、でもその中でしかみつけられない煌めきもあって、それはなんだか海の中みたいで、溺れて溺れて深く深いところまで堕ちて、暗くて息ができなくて自由に身動きがとれなくて、でもそこでしかみつけられない「何か」にいつも触れることができる。

初めて見るヘンな生き物、知らない色をした海藻が光によって無限に変色してゆき、海の底から見る海面の光は、きれいだ苦しい、きれいだ苦しい……そのループを頭の中でやめられずにいた。

悲劇のヒロインぶっているつもりはなくとも、その感覚はクセになり、私を蝕みつづけた。

だからでもそれは、周りにはどう映ろうとも、私が不幸だったことなんて一度もない。ずっと芸術の中に快楽を求め続けていただけなんだ。今も。だから。

大人になるとは何かを削って我慢することなんかじゃなかったし、無理に変わることなんかじゃないなんてのは、もう誰でもわかっていると思ってわざわざ言わないけど、そうでもないらしい。

私の気持ちは私だけのもの

「変わらなきゃいけない」なんてことはほんとにひとつもなかったんだ。ただ、変わったほうが楽だったことはあったかもしれない。

私は初対面で「この人とはこういうところがわかり合えないな、わかり合う必要もないし」ということがもうある程度わかるので、そこの部分のコミュニケーションは完全省略する。

私のことなんて絶対にわからないのに、そこを相手からわかろうとされることが暴力にしか感じられない。人はなぜわかり合いたいのか? 違いとか、わけのわからなさとか、それこそが尊さなのに、そういうものを目の当たりにしたときに、薄っぺらい絶望できちゃうくだらないプライドをとっとと捨ててくれないか。

わかり合うことが美徳とされているのが納得いかない。いつも私の細かいニュアンスはその「わかる」という行為によって殺される。その細かいニュアンスにこそ真理があるにもかかわらずである。

私の真理は殺され続ける、目の前の人間の「あなたをわかりたい」という欲望によって。実質それは「わかる」ではなく「わからないを突きつける暴力行為」にしかなっていない。暴力の果てに「わかってあげられる自分になりたい」のだ。

それを達成させてあげることになぜ、私が無駄な努力をしなければならないのか。わからないものを消したい、自分の脳内のどこかのファイルにぶちこみたい、カテゴライズしたい、不安要素を回避したい、というくだらないことのために、なぜわざわざ私が手を煩わすことをしなければならないのか。

私の気持ちは私だけのものなのだよ。これを使うときは、この気持ちに似ている気持ちを持った人が、持っている重圧に耐えられなさそうなときや、優しさや愛を全否定されてしまったときや、誰かを守りたいときだけで、共有したいときは音楽がなるときだけで、誰かを救いたいときだけで、誰かが私を呼ぶ声が聞こえたときだけで、まあだからそれは、わりといつもなんだ。

自立とは「自分が立っていられる環境を整えること」

忙しいんだよ私は。だから、ただ目の前にいるというだけの理由で、私のコミュニケーションするべき人間第一位に躍り出るシステムはおかしい。

道を歩いてるときにナンパされると、せっかく絶対にわかられない自分の愚かさやかわいらしさやあざとさや殺意やすべてを自分の外にこぼさないようにATフィールド張って歩くことで世界と自分のお互いの平和を守っているのに、それをぶち抜いてガツガツ中に入り込んでくるということは、殺されてもいいということだと判断し、毎回「死んでください」と返答している。

あくまで大切な部分に土足で踏み入られたときに限定的に感じる拒否反応で、円滑に物事を推し進めるための会話や挨拶や努力は私だってできる。たぶん、目は合わせないけど。

「おはようございます、よろしくおねがいしますマシーン」と化すことができる。

何かあるなと感じたら踏み入って話すことだってできる。何か生まれそうだなと思ったら会話に尖った言葉をぶちこんで煽ることだってできる。そんなことは稀なので、だいたいいつも抜け殻で生きている。打ち上げで面白い話なんてほぼしないし、「美味しいものは食べたいけど早く寝たい」としか基本的に考えていない。

こんなんでも、全然生きていけている。

摑むべきは自分の得意不得意や性格を自分でしっかり理解して、それでも生きていける環境づくりだ。

自立するということは自分で立つということで、ぜんぶ自分でやるという意味ではない。自分が立っていられる環境を整えることだ。

ひとりで生きるためにはどうすればいいですか? と聞かれたことがある。誰にも関わらずに生きるのは無理だ。

「ひとりで生きる」が、「誰とも話さずに生きる」という意味だとしたら、ひとり圧倒的な依存先を見つけ、その人に「ひとりにしてください」と頼むしかないでしょう。それが親なのか子供なのか恋人なのか他人なのか知らないですけど。ただ依存された相手の生活は犠牲にされますよね。

「育児を母親だけがする仕事だと思うな」っていうのはこういうことで、自立なんてできっこない子供の依存先を母親だけにしてしまったら、母親は壊れるに決まってるし。

できることゾーンで自分の役割を果たす

「誰にも頼らずに生きる」は絶対に無理。

自分のできることで金を稼いで、できないことを仕事して補ってくれる人に金を払うのだ。

人が大人になるっていうのは、何でもできる人になることではない。できることとできないことなんて、生まれてから死ぬまで残念ながらほぼずっと変わらない。

なら最初からできることをめっちゃできるようになって、自分は何にも苦労しなくても当たり前にできるようなことを仕事にして、自分の役割として、そのできることゾーンで人にいくらでも依存されよう、それが働くってことだ、と思った。

そこでお金を稼ぐから、掃除ができなくてもDMMおかんが来てくれるし、ブスはお医者さんがほんの少しだけなら助けてくれるし。まじちょっとだけ。

かわいいは金で買えるけど、ブスだと、かわいいに至るまでに普通にもともとかわいいよりもめっちゃ金と時間かけなきゃいけないし。

センスだって身につけなきゃ余計遠回りになるし。でも、かわいく生きるためなら何も惜しまないし、私のかわいいが男や女にモテるかわいいかどうかなんてどうでもよくて、とにかくかわいく生きたくて。その欲望を誰にも否定する権利はないし、元がひどかったぶん、私は一生かわいくなりつづけてやろうと決めたんだ。

ねえ、10代の輝きだけが本物だなんて絶対にありえないよ。

ドントトラストオーバーサーティーと叫ぶパンク少年、10代特有の感情とかのほうが、そんなもん信じるなよ。時が経てば腐るような思想ばかりが衝動なんて恥ずかしくないのか。感受性とは一生向き合おうや。

大人になったら潰しにくるやつは多いですけど、心は捨てないほうが、意思は持っていたほうが、美しい景色をたくさん見ることができるって私は思いますけどね。

生きてるかぎりは真摯にね。捨てるような命を、私もきみもやってきたわけではないだろうから。


次回更新は5/18(金)です。お楽しみに!

現代を生き抜く至言満載! 超本音エッセイ集!

超歌手

大森 靖子
毎日新聞出版
2018-06-07

この連載について

超歌手

大森靖子

現代を生き抜く至言満載! 妥協なき創作活動で支持されるミュージシャン・大森靖子が、生死、社会、芸術、偏愛まで、余すことなく書きつけた、超本音エッセイ集『超歌手』(6/7発売)。 本書の刊行を記念し、cakesで一...もっと読む

関連キーワード

コメント

asamixjuice cakesで、大森さんの本の一部を限定公開! 21分前 replyretweetfavorite