ただ、吉幾三が「ない」と歌っているのは目に見える「モノ」に限られ、阿部幸大氏が述べている「文化と教育」ではない。1984年にも都市と地方で「文化と教育の格差」は存在したはずなのだが。当時は「モノ」のほうにばかり関心が集中し、「文化と教育」にまで気がまわらなかったせいかもしれない。
今だったら「大学ねえ、短大ねえ、専門学校見たことねえ」「コンサートねえ、ライブもねえ、来るのは無名の演歌歌手」などと自虐的に歌っているはずである。
1986年生まれで、高校時代まで釧路市で過ごした阿部氏は、釧路市について「若者が集まる場所といえば『ジャスコ』しか選択肢がなく」、「もっともメジャーな路線のバスは30分に1本しか来ない」、「ユニクロやスタバがオープンすると大行列ができる」、「典型的な田舎町」と評している。
ただし、阿部氏自身はそう思っていても、釧路に住む人々の大部分はそう思っていないはずだし、おおむね釧路での生活に満足しているはずである。なぜなら、阿部氏には「都市(東京)」という比較対象があるが、釧路にしか住んだことがなければ「文化と教育の差」に気づきようもないはずである。
私は阿部氏より18年年上の1968年生まれで、高校時代まで北海道南西部の室蘭市のはずれで過ごしたが、状況は似たようなものだった。高校の周りは「農村」ですらなく、未開拓の「原野」。若者が集まる場所といえばゲーセンか街中にある長崎屋しかなく、映画を見ようにも最寄りの映画館までバスで1時間。高校に進学してバイトをしようにも、そもそも新聞配達か年末の年賀状仕分けくらいしか存在しない。風俗もない。
ネットもスマホも存在しなかった当時、あまりの刺激のなさに高校時代はヒマをもてあまし、「いかにして、この田舎から脱出するか」ということばかり考えていたような気がする。ただし、当時、ネットやスマホが存在したなら、私に知的な刺激を与えた恩師や友人がいなかったなら、それなりに現状に満足し、おそらく北海道から脱出することもなかっただろう。
高校卒業後、進学した先が奈良県の田舎だったため、大学や下宿の周りは田んぼと柿畑ばっかりだったが、それでも北海道の田舎より「まし」だった。そこには、少なくても文化的な刺激はあったからである。
奈良は京都・大阪・和歌山・三重と県境を接している。本州と海で隔てられている北海道とは違い、さまざまな地域文化に接しやすい環境だった。私も多くの「関西人」(当時の私にとっては「外国人」と同じだった)との接触を通して、大阪・京都・兵庫など多くの「異文化」を体感することができた。同時にそれまで気が付かなかった北海道の特殊性に気がつくことになったのである。
一般的に北海道民は開拓者精神に充ち溢れた積極的な人々と捉えられることが多いようだが、実際は大いに異なる。かつて北海道財務局で理財部長・総務部長などを歴任した加藤孝氏(愛知出身)は、その著書『エルムの木陰にて-北都断想』(北方ジャーナル、1976年)で北海道民の気質についてこう述べている。
「道内でよくきかれる『フロンティア・スピリット』とか『ボーイズ・ビー・アンビシャス』という言葉にいつもひっかかるものがあるんだ。(中略)いまのどさん子(道産子、北海道出身者のこと-引用者)たちにそうした開拓者精神があふれていると期待するのはどんなもんだろうか」
確かに、「ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ、大志を抱け)」と言ったのは札幌農学校教頭・クラーク博士で、言われた側の弟子たちは全員が本州生まれ。北海道生まれの人間など一人もいない。この言葉を北海道民の気質をあらわすフレーズととらえるのは、相当な無理がある。さらに加藤氏は次のように指摘する。
「だからぼくなんか北海道にやってくるまでは、啄木の『かなしきは小樽の街よ歌うことなき人々の声の荒さよ』という歌からの連想や冷酷な自然を克服した開拓の歴史から想像して、非常に気性の激しい人が多いのじゃないかと思っていた。
また、それが事業とか商売のほうに向けられると、とても積極的で、ときにはガメついような動き方をするのじゃないかと考えていたが、まったくの見当違いだったね。むしろ、きまじめで妥協的なところが目立つほどで、ときには受け身で消極的な感じさえもする」
この指摘は私が常々感じている「道民性」とおおむね一致する。現在の北海道民は、一般に考えられているような、「開拓者精神に充ち溢れた人々」ではない。全般的にのんびりで、おおらかで、あっさりしていて、サバサバしている反面、地域社会や伝統文化に対する執着が弱く、男性は草食系、女性は肉食系。
もちろん、地域差や個人差はあるだろうから十把一絡げにはできないが、「きまじめで、妥協的」「受け身で消極的」、つまり進取の気質に富むとは言い難い。鈴木宗男のような道民はむしろ例外に属する(と思う)。