先日「アニメが文学足りうるか?」という、あまり踏み込みたくない大命題に足を踏み入れてしまって、ちょっと慌てた。
なぜなら、「アニメが文学足りうるか?」を問う前に、前提として「何が文学か?」「文学とは何か?」を問わなければならないからだ。

文学部出身だけに迂闊なことを言えばお里が知れる。すぐ足を引っ込めたいところだが、せっかくなので少しだけ考えてみよう。


文学の定義は難しい。歴史的にいろんな議論がある。
でもぶっちゃけ、文字が連なっていれば何でも文学になり得る。
だからボブ・ディランにノーベル文学賞が授与されるまでに至った。

恐らくここでは「」付きの文学、「文学」について語るべきだろう。
いずれにしても、そのややこしさに余り首突っ込みたくないので、あくまで僕の所見ということにしてもらいたい。


柄谷行人の書いた『反文学論』という本がある。まぁ近代の文学がいかに「スノビズム」にまみれていたかというのを糾弾した本だ。因みに映画監督の吉田喜重は「反映画」という表現を使っている。まぁこの際どうでもいいが。
似たようなことを宇野常寛は『母性のディストピア』で変奏し、戦後「近代」を保てなくなった「文学」が弱々しく変容・変節し、そこから生まれ、逞しく成長した鬼っ子こそが戦後アニメーションなのだ、という縦横無尽の大議論を展開している。


僕も思わず「文学とは」と書いてしまったが、そもそも「文学」という概念こそが「スノビズム」そのものだと言えるだろう。
又吉直樹が『火花』であり得ない芥川賞を獲ってしまったのも、そういった「文学」の裏の面が見え隠れしてしょうがない。
「文学って凄いんザマス!凄いだけじゃなくて、大人気でセンセーショナルザマス!」
そう言わずにいられないゲスな声が文壇に充満していることは容易に想像できる。

しかしながら、「文学」はスノビズムで斬り捨てるには惜しすぎる魅力がある。なぜだろう?


僕は綿矢りさという女性作家がずっと好きで、三島や太宰や川端よりも好きだ。
そう言えば彼女も「史上最年少美少女作家」として、変な空気の中で芥川賞を獲っている。

彼女の書く女性は非常に僕の求める女性像と合致し、大いに参考にし影響を受けているのだが、そのどこに「文学」性があるかと言えば、これは難しい話だ。
特に、何度も書いたが『WUG』の精神的参考とした『夢を与える』は、当時アイドル作家としてチヤホヤされていた自らの境遇に「ふざけるな!」と吐き散らした、そんな一喝が込められているようで、興奮して読んだ。


やはりこう考えても、「文学」性とはまず「正直さ」、そしてそれをはっきり描写できる「筆致」、この二つに尽きると思う。
どちらが欠けてもダメなのだ。
「文学」がスノビズムを超克するには、この条件しかないと確信する。


これはもちろん映画にも、アニメにも言えることだ。
確かに巷の作品は、たとえ優秀でも、どちらかが欠けているものばかりだ。

だから「文学」たりえないのだ。