『氷菓』の文化祭編が超面白かったという話
『氷菓』のアニメがとても面白いです。最初の数話は何だったのかというほどに。
私の好みを知っている人なら恐らく分かっているんじゃないかと思うのですが、
○ 群像劇としての見事さ
群像劇の定義を「決められた主人公がいない話」だとすると、今回の『氷菓』は群像劇というよりも「4人の主人公がそれぞれ別のルートをクロスしながら進む」『428』的なシナリオだったと思うのですが。いずれにせよこの手の話で重要なのは、「4つの話がどう自然にクロスするか」ということだと思います。
「4人の主人公」というのはもちろん「折木奉太郎」「千反田える」「福部里志」「伊原摩耶花」の4人。この4人は「氷菓を完売させる」という大きな共通の目的は持っていましたが、それぞれ違う立場とルートを進むことでそれぞれ違った目標を持つようになったんですね。
摩耶花は漫研の中での人間関係に苦しみ、
里志は怪盗十文字を捕らえること(というより折木に勝つこと)に目的が変わり、
千反田さんは各所を奔走して「お願い」をすることに疲れ、
折木は……わらしべプロトコルを完遂させようとしたというところでしょうか(笑)。
それぞれがそれぞれのストーリーを走り、
そして折木以外の3人はそれぞれ「敗北」をしているんですよね。「達成」は出来ていない。
千反田さんは入須に教わった「お願い」の方法を実行することで、彼女なりに「氷菓の完売」に貢献しようとしたのですが……自分とは違う自分(入須のような)になろうとした結果、疲弊してしまいました。普段あんなに目を輝かせて「気になります!」と言っていた頃と違って、なんて辛そうな表情が多かったことか!
里志は「この事件は奉太郎向きではない。自分に向いた事件だ」と走り回りましたが、奇術部でもグローバル研でも十文字を捕らえられず、最終的には折木に十文字を暴かれてしまうという「敗北」の話でした。
摩耶花の話もまた「敗北」の話。
いや、彼女の場合は「敗北すら出来ていない」話でした。『夕べには骸に』に敗れた河内先輩の漫画もまた摩耶花の心を打った作品だったことに気付いた瞬間、自分がまだストートラインにすら立っていないことにも気付いてしまったという話でした。
では、彼女ら3人の話には意味がなかったのか?というのが今日の話。
○ 敗北者達の物語
京アニ作品は「文化祭」のシーンがやたら多いと思うんですけど。
この作品における「文化祭」は、それ以上に「集大成」な意味合いが強かったと思います。
古典部の伝統である氷菓は「文化祭で頒布するもの」ですし、そのルーツにも文化祭は大きく関係していましたし。「映画」編で描かれた映画も「文化祭で上映するもの」でしたし。遠垣内先輩や沢木口先輩のように、以前に出てきたキャラクターが再登場しているのも面白いところでした。
「文化祭」ってそういう場所ですもんね。
各部活の晴れの舞台。学校中の人間があっちへきたりこっちへきたりで、違う学年で違う部活の人なんかにも珍しくエンカウントする機会ですし。
『けいおん!!』にもそういう描写があったけど(オカルト研だっけ)、そういう独特の空気感とか、あとは単純に大人数の動かし方とか、その人数分を描き分けられるキャラデザとか、やはりここは流石の京アニだなって思いました。
んで、そんな風に大人数が乱れ動く文化祭という群像劇の中で、
描いたものが「敗北者達」による「劣等感の物語」だったというのが、自分の心を打ったんです。
河内先輩は勝てなかった、
田名辺先輩も勝てなかった―――絶対的な飛びぬけた「才能」の前に。
それは、里志が折木に感じていたものと似ているのかも知れない。
それは、摩耶花が逃げ場所を探してしまったことと似ているのかも知れない。
それは、千反田さんが自分以外にはなれなかったことと似ているのかも知れない。
誰もが主人公になれるはずの群像劇で、敢えて「自分は主人公になれないと悟ってしまった人達」を描くというのが何とも残酷で、そして学校というものはそういう場所なんですよね。大多数の敗北者にとっては、学校は「自分は特別な人間ではない」と知るための場所なんです。
○ 折木は「特別な人間」なのか
「才能」という言葉は、「映画」編のキーワードでした。
「才能」という言葉に踊らされた折木は入須の術中にハマり、言ってしまえば折木も「敗北者」だったのです。しかし、里志からすればそうではない。里志からすれば折木は「期待をかけられるだけの価値のある人間」なんです。
「文化祭」編のキーワードは「期待」でした。
これは流石に1回観ただけだと覚えていない細かい描写もありそうですが、4人の主人公のストーリーにはそれぞれ「期待」という言葉が使われていたと思います。象徴的なのは入須先輩が千反田さんに教えた「期待」というフレーズなんですが、入須先輩が千反田さんに教えた方法って「映画」編で、入須が折木にやった方法なんですよね。
「映画」編の「才能」が自己に向かう言葉ならば。
「文化祭」編の「期待」は他者に向かう言葉―――特別ではない僕らが、他者に抱く言葉
でも、折木は毎回「一人で結論を出している」ワケじゃなかったですよね。
「氷菓」編の頃は他の3人が出した仮定の上に乗っかって結論を出していたし、「映画」編の頃は一人で出した結論を他の3人から否定されたことで結論にたどり着けたのだし、今回の「文化祭」編も他の3人がいなければ十文字にはたどり着けなかったことでしょう。
このアニメ……というか、恐らく原作小説がそうなんでしょうけど(自分はアニメの前に原作は読まない人なんで推測でしかありませんが)。
“視点”に忠実に作られているんですよね。
他の人が語る回想シーンなどを除けば、折木が自分の目で見たシーンしか描かれていないはずです。多分。ミステリーってそういうものかなと思ったけど、『名探偵コナン』とかだと全身黒タイツの犯人視点のシーンとかもありますよね。『氷菓』にはそういうシーンがありません。多分。
しかし、この「文化祭」編だけは4人の視点でシーンが描かれます。
4人が別々の場所で体験したことは視聴者の頭の中にしか一本に繋がらず、「何かが起きているらしい」ことは視聴者にしか分かりません。しかし、各々が得た情報を持ち帰って統合してくれたことにより、それらの情報は一本に繋がり、折木は真実に辿り着けたのです。
誰か一人が欠けても、折木は十文字の正体に辿り着けなかったんですよね。
『夕べには骸に』の原作者の名前が分かったのは摩耶花のおかげだし、作画者の名前が分かったのは千反田さんのおかげでした。里志は……えっと、確か「カンヤ祭の歩き方」を渡したとか、陸山の名前を教えたとか、そもそも色んな部でものが盗まれているという情報をくれたのも確か里志だったような気がするし!役に立ってたよきっと!あんまり印象ない上に他の人でも出来そうなことばかりですけど!
マジメな話、折木が「協力を頼める人」で躊躇なく里志の名前を出したところは結構なポイントだと思うんですけどね。でも、「有能な相方」という立場も辛いんだろうなぁと。
ここで描かれたのは「敗北者の物語」だったけど、それが誰かの何かに繋がっているかも知れない。
敗北者たる河内先輩の描いた漫画が、実は摩耶花の心を打っていたように。
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| アニメ雑記 | 17:54 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑
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