藤津亮太のアニメ時評 四代目アニメの門 第12回
『アイカツ!』『THE IDOLM@STER』『Wake Up, Girls!』『ラブライブ!』
「アイドル」の〈あり方〉
昨年あたりから女性アイドルを題材にした作品に注目が集まっている。
その流れの中で、今年1月には『Wake Up, Girls! 七人のアイドル』『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』と2本のアイドルアニメが劇場公開され、先日は『ラブライブ!』が完全新作劇場版を発表した。年末には『アイカツ!』の劇場版が控えている。この流れはまだしばらく続きそうだ。
近年の女性アイドルアニメの集中はいうまでもなく、現実に女性アイドルグループが人気を集めていることが大きな背景としてある。この市場に対してアニメ業界と近接する音楽業界からのアプローチが、こうした作品群となっているわけだ。
今回はこれら「アイドルアニメ」について考えたい。注目するのは、アイドルがどういう存在として描かれているかだ。
『アイカツ!』で描かれるアイドルは「憧れの対象」だ。同番組は未就学から小学校の女児をメインターゲットにしており、その視聴者たちが憧れるような存在として、アイドルを取り扱っている。
たとえば、主人公・星宮いちごの前には神崎美月という目標にすべき憧れの先輩が設定されている。これによって視聴者は、いちごに憧れを抱きつつ、同時にいちごに感情移入することができるのだ。
いちごたちが披露するパフォーマンスも、この「憧れ」の線上にある。いちごたちがパフォーマンスを披露するライブやオーディションは、アイカツシステムを使った一種の“変身”を経て、表現される。
ここで“変身”のギミックが(このプロジェクトのメインのアイテムであるアーケードゲームの筐体を登場させる必然性以外に)意味があるのは、幼い視聴者にとって「お姉さんのようなかわいい服を着る」ことが変身にほかならないからだ。ここではその「憧れ」を魅力的に描くことが目的になるので、オーディションの結果やコンテストの成績は、ドラマ上の決定的な意味を与えられない。
こうして『アイカツ!』は、女児の「憧れ」=「かわいい服を着たかわいいお姉さんと一体化したい」という思いを受け止める形で、アイドル像を描き出す。
ちなみに、アイドルという名称ではないが『アイカツ!』に先行する『プリティーリズム』シリーズの初期2作では、プリズムショーという独自のショーが舞台となっている。そしてシリーズの大目標として、その頂点であるプリズムクイーンが設定されている。そのため『プリティーリズム』シリーズでは『アイカツ!』よりも、勝負の行く末に大きな意味が持たされており、この勝負の要素は設定を仕切り直したシリーズ第3作目にも受け継がれた。『プリティーリズム』シリーズは『アイカツ!』より少しターゲットが上に定められており、「憧れ」だけではもの足りなくなった視聴者に、「ドラマチックな盛り上がり」を入れることでアピールしようとしているのだろう。
これがハイターゲット作品のアイドルものになるとまた異なってくる。想定される視聴者は男性ファンがメインになり、描かれるアイドルもまた「憧れ」の対象ではなくなる。
ここではアイドルは、主人公たちが選択した仕事=生き方であると位置づけられる。だから必然的に物語は、各キャラクターの自己実現の物語になる。
たとえば『THE IDOLM@STER』は765プロという弱小プロダクションに所属するアイドルたちの物語だが、物語と表現上の焦点は「彼女たちがいかに彼女たちらしくあるか」ということに集中している。
これは、ゲームで各キャラクターが既に人気を得ているから、キャラクター描写に気を遣っているということではない。ここでは「アイドルという仕事で十分に自己実現していること」こそがアイドルの魅力、いうなれば“キラキラ感”の源であるという価値観で世界が構成されているのである。
だから本作は、キャラクターたちに寄り添った視点で進行する。芸能界の様子が描かれてもそれは断片的だし、芸道ものの要素が前面に出ることもない。
そして「自己実現の物語」だからこそ、ファンはそのストーリーの見届け人として「応援/癒やし(元気をもらう)」という立ち位置で、その世界にコミットすることができるのである。
『Wake Up, Girls!』も、主人公たちの自己実現の物語である点は『THE IDOLM@STER』と共通だが、大きく違うのは、物語を追う視点が『THE IDOLM@STER』よりもずっと引いた位置にある点である。
そのため『Wake Up, Girls!』では、主人公たちのグループ「Wake Up, Girls!」を応援するファンの姿も具体的に入ってくるし、芸道ものの要素(たとえばメンバーが怪我をした時に、振り付けをどう変えるかといった段取りが描かれる)も盛り込まれる。
そして『Wake Up, Girls!』の引いた視点で浮かび上がるのは「アイドルとは何か」という本作が抱えた大きな問いかけで、その大きな問いかけが前面に出た分、物語を牽引している「自己実現」の物語が後景に退いているのが本作の特徴だ。
こうして見てくると、先日第2期最終回を迎えた『ラブライブ!』が一番、アイドルものとして変則的であることがわかる。
『ラブライブ!』の世界は、それぞれの学校にそこを代表するスクールアイドルが存在し、「ラブライブ!」というステージでその実力を競うという設定だ。つまり、はっきり部活とうたってはいないが、限りなく運動部の部活ものに近い要素で組み立てられているのである。
とするとドラマを駆動する大きな要素としては「仕事を通じた自己実現」ではなく、「なぜその部活を選んだか(動機)」と「部活を終える時(卒業)」が浮上するし、実際『ラブライブ!』はこの2つを物語のポイントに配置していた。
「アイドル」ものとして興味深いのは、スクールアイドルが「(メディアに出ている)アイドルのようなことをするからアイドルと名乗る」という循環的なロジックに基づいていることだ。
そもそも日本語の「アイドル」は、先行する「スター」という言葉に対して生まれた言葉だ。そのため、完成された魅力を誇る「スター」とは異なり、「アイドル」には未成熟なかわいらしさや、身近な親しみやすさといったニュアンスが含まれることになった。つまり「アイドル」は“本人のあり方=キャラクター”に寄るところが大きいのだ。そしてアイドルのその未完成な個性が、ファンの盛り上がりや周囲の人間関係など様々な環境とインタラクションしつつ変化していくところに現実のアイドル存在の妙味がある。つまりアイドルというのは、本来、瞬間的な存在なのだ。
その点で『ラブライブ』は、やがては卒業してしまう高校生というギミックを取り込むことで、ほかのアイドルアニメでは難しい、「瞬間のキラメキ」を大衆的な形で取り出すことに成功していた。“アイドルごっこ”だからこそ、アイドルのあり方の一端に迫れたという逆説が面白い。
女性アイドルアニメとひとくくりに言っても、「アイドル」というものをどう描くか、その回答の出し方はそれぞれなのだ。
文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota)