イタイイタイ病 50年 悲しい記憶 風化させぬ 地元農家語り部に 富山市・柞山八郎さん

あやさんの遺影を持ち「事実を語り継がねばならない」と話す柞山さん(富山市で)

 富山市の神通川流域で発生したイタイイタイ病(イ病)が国内初の公害病と認定されて、8日で50年。被害の歴史を風化させてはならないと、語り部として活動する農家がいる。患者遺族らでつくる「イタイイタイ病対策協議会」副会長で同市に住む柞山(ほうさやま)八郎さん(76)だ。1967年に亡くなったイ病認定患者の祖母の壮絶な闘病生活の様子を生々しく証言し、イ病の教訓を次世代へ伝える。(前田大介)
 

祖母の闘病、最期 次代見据え企業監視も


 「医師が往診に来ると、ばあちゃんは手を合わせ『先生、早く楽にしてくだはれ』と訴えた。その光景は50年以上たった今でも忘れることはできない」。語り部を始める原体験について、柞山さんはこう振り返る。

 語り部は2012年から始めた。活動拠点は同市の県立イタイイタイ病資料館で、主に小・中・高校生を対象に月2、3回行う。苦しみに耐えた祖母あやさんの様子を、朴訥(ぼくとつ)とした語り口で伝える。

 あやさんは働き者だった。19歳で嫁ぎ、農業をしながら子ども6人を育てた。農作業の合間には近くの小川で喉の渇きを潤すのが習慣だった。不調を訴えたのは50歳の頃。節々の痛みを訴え、あんまマッサージやおきゅうなど試したが、回復の兆しはなかった。

 痛みは壮絶だった。骨がもろくなり、わずかな動作でも体に激痛が走った。「痛い、痛い」と声を張り上げては、もだえ苦しんだ。歩行が困難になると、自宅から徒歩数分の距離にある病院まで、家族が農業用の一輪車に乗せ半日がかりで送迎した。

 自力で排せつができなくなる頃には「歩かれれば、背戸(家の裏手)の川に入って死ぬるがやけれど」との言葉が口癖になった。寝たきりの状態は4年続きイ病が公害病と認定される前年の67年、86歳で息を引き取った。

 二度と公害を発生させまいとする柞山さんの活動は、語り部だけではない。遺族の一人として、イ病の原因企業、神岡鉱業(旧三井金属鉱業神岡鉱業所、岐阜県飛騨市)での立ち入り調査に20年来、参加する。公害は富山だけの問題ではない。健全な社会や環境を保つためにも「遺族が参加する調査の意義は大きい」と話し、監視の目を光らせる。

 認定から半世紀たつ今、汚染土壌は復元され、農地は本来の姿を取り戻した。一方、記憶の風化は切実だ。イ病を伝える語り部は現在8人。平均年齢は70歳を超え、高齢化が進む。「残された時間はそう長くない。被害者やその家族に報いるためにも、事実を語り継がねばならない」。柞山さんの決意は揺るがない。

<ことば> イタイイタイ病 公害病 初の認定

 水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそくと並ぶ四大公害病の一つで、公害防止や環境保護の大きなきっかけとなった。

 神通川上流の神岡鉱山(岐阜県飛騨市)の排水に含まれたカドミウムが原因で発生した。カドミウムが体内に蓄積されると、骨軟化症などを引き起こす。容易に骨折しやすくなり、全身に激痛が伴う。厚生省(現厚生労働省)が68年5月、公害病と認定した。対策地域(約1500ヘクタール)の土壌復元は80年から開始。32年後の12年に完了した。

 13年、被害者団体と原因企業の三井金属鉱業が前段症状の発症者に一時金を支払うなどとした合意書を交わし、全面解決した。認定患者は累計200人で、うち生存者は5人。

 富山県は、50年に合わせて特別企画展「イタイイタイ病映像展」を開くなど、歴史と教訓を改めて心に刻む記念行事を実施している。

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