不気味な動きと言えばVtuberに文化論が発生していることです。プリパラ新作がついにyoutuberやインスタグラマーをテーマにしてしまう昨今ですが、youtuber文化論はなく、なぜVtuberに限りいきなり文化論が登場してしまうのでしょうか。
ひとつの仮説はYouTuberは主要な客が小学生か中学生だから文化論を書いても誰も読まない。ヒカキンやはじめしゃちょーについて真剣に考えるひとがいないから。インスタグラマーはおしゃれなひとたちメインだから怖くて書けないから。(でも今年6月にインスタグラムを中心とした文化論は出版される模様です。)
ではvtuberで文化論が出てくるということは、書く側がそれが読まれるという確信を持っているということになるのですが、申し訳ないがそこが不気味です。
今テレビの面白いところを書くてれびのスキマさんや、インターネットやメディア論に強いばるぼらさんが書くヒカキンやYouTuber論って自分が見つけてないだけなのかなと思ってざっくり検索したのですが見当たりませんでした。
文化論的に論じる価値のないものという風になってるということなんですけど、メディア論的にもテレビ的にも(テレビ側は鈴木おさむさんがサイバーエージェントと組んでyoutubeでの方法論を語るというのがありました)黙殺されているというのがyoutuber。でもVtuberが語れるならまずyoutuberを文化論で書くというのはなぜ起きないのか。ローガン・ポール事件*1があったにもかかわらず、メディア論的な意味で語られないのはなぜか。(youtuberという職種を最初に定義した英語圏では文化論はあるのかもしれません。)
それがVtuberになったとたん語りが発生するのはなぜ?もしかして未だにSFみたいな「虚構の存在が現実化している」みたいなフックにやられているわけか?ぼくはもう虚構の現実化にSFを感じるということ自体が前世紀的な古い事柄に過ぎなくて、ぜんぜんSFの文脈ももたないような人たちが当然のようにスマートフォン経由で撮影し、自分でメディアを持っている現実そのものの方を切り取るべきと思ってるほうです。ヒカキンにSF感まったくないですよね。でもほんとはそっちでしょって思っています。
youtuberがメディア論のなかで黙殺されているのに対し、Vtuber論を聞き入れられる、文化論に需要があるとVtuberを消費している層が思われているということはすごいことです。オタク文化とかサブカル文化ってものすごく文化論なるものを欲しているってことになりますからね。
ぼくの体感的にアニメマンガゲームのオタク層はレビューの需要はあるけど文化論になるとちょっと待ってくれよ、くらいのイメージだったんですが、書いてる側にとってはVtuberはキャラクターということからそれらと繋がるのもあるのか、平然と文化論が生産されており、そしてオタク層やサブカル層の誰かがそれを欲しているという確信があるようなのです。少なくとも文化論を書く以上、書き手自身が欲しているのは確かです。
逆にyoutuberやインスタグラムのメディア論は誰一人需要がなく、書き手自身が文化論を欲するような内容でもないがために黙殺されているという状況が逆に気になってきました。この言葉使いたくないけど大衆文化(テレビ的)よりだから?
でもオタク文化もサブカル文化もある意味大衆文化的な位置に根性で押しとどめて、文化論を差し挟まないほうが豊饒なんだけどな…とも思います。表現を作る側がキレキレのことやるのは別ですよ。見た動画は履歴から消しましょう。でも培った検索と登録はそのままに、次回にお会いしましょう。
*1:アメリカの人気YouTuberのローガン・ポールが日本の富士の樹海に訪れたとき、現地の遺体を撮影。数多くの批判を集めた、その他にも日本国内で数多くの悪質な行為を行っている