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読書人の雑誌「本」

「なぜ哲学が必要か」という問いに、哲学者はこう答える

自分を「超える」思考術

忘れるために学ぶ

哲学は、経験の弾力を拡張し、ときによっては経験の弾力を組み換えてしまうほどの踏み込みを行う試みである。

経験にとってのエクササイズが哲学の課題であり、それによって哲学の知識は内面化され解消される。このとき最も重要な経験の仕方は、哲学の知識を捨てて、忘れることである。

ある意味で、哲学は「忘れるために」学ぶのである。

忘れるときにもっとも多くのことを学ぶことができるのが、哲学である。

知識を獲得することによって経験を蓄積するのではなく、それを捨てることをつうじて多くを学び、経験を陶冶することができる。

哲学の立場や観点を身につけたものは、まさに経験の自在さを失う。

立場や観点やもろもろの知識には、実はこっそりと「自己正当化」が含まれている。多くの人にわずらわしさを感じさせてしまうのは、哲学的な用語や思考回路の晦渋さであるより、そこにこっそりと含まれた自己陶酔と自己正当化であることが多い。

哲学を捨てるというのは、実際に多くの人たちの課題にもなってきた。ヘーゲルの『論理学』(通称『大論理学』)は、存在、無、生成、定在……と概念そのものが生成し、世界の基本的な事柄を網羅できるように描かれている。

先行する概念が否定され、次の概念に内的に組み込まれて、概念は次々と内容を組み込むことで高次のものになっていく。

そして最後の段階に至って、この概念の生成史は出発点に戻ることになる。このときそれ以前の生成史とは、まったく別のことが起きてしまう。

個々の内容の区別が解消し、反省そのものも消滅して、経験は透明で、みずからそれとしてあることに戻っていく。

いくつかの理由からこの奇妙な生成は起きるのだが、ここにも忘れることが経験の内面化につながるような、ある種の経験の進行がある。

こうしたことが生成史の最後の段階だけで起きるのではなく、個々の概念の出現の場面でも起きているのだとしたら、知はひとつながりの緊密な体系(システム)とは別の姿になるように思える。

 

カメは何に勝ったのか

科学哲学者のカール・ポパーは初期の反証主義の段階では、新たで斬新な仮説を創造的に提起するためには、既存の理論仮説を捨てなければならないと考えていた。まさにみずからが作り出した愛すべき仮説であるがゆえに、捨てていくのである。

だが、ここにもどこか作為的な無理がある。

一般的には何か次の着想を得て、はじめて既存のものを捨てることができる。この捨てるさいに、実は多くのことを学んでいるはずである。

すると捨てることが、さらに豊かな経験の前進であるような仕組みがあるに違いない。おのずと捨てるという局面を通過しながら、一歩踏み出し、何か別の場面へと経験が進んでいくことができるような仕組みはありそうである。