【書評】グランド・フィナーレ/阿部和重
阿部和重の描くロリコンは格好いい。前作『シンセミア』のロリコン警察官・中山正は、女子高生の彼女を足蹴にしながら美少女小学生をこよなく愛する男で、DQN軍団の目指した監視社会の実現にただ一人、正面から立ち向った切れ者だった(それはノーマルな既婚者でありながらうだつのあがらない田宮博徳とは対照的だ)。本作の主人公である沢見も37歳バツイチのオッサンとはいえ、しょっちゅう代官山のクラブでドラックキメてラリってるような遊び人で、おまけに美人Iとの仲を彼氏のYに疑われる程度にはモテる男らしい。
芥川賞の選考委員・宮本輝は、本作を阿部の以前の作品と比べて「小説の芯が太くなった」と評価したが、それはロリコンをテーマにしながら、ヒキコモリ系不細工キモヲタのグロテスクな生態という、ありがちなパターンに落とし込まない、複雑な内面や性癖を持ったキャラ作りの成功だろう。実はこの複雑な内面・性癖については、三島賞を取り逃がした前々作『ニッポニア・ニッポン』でも試みられていたが、このときは同賞の選考委員でもある宮本輝に一蹴されている。この明暗を分けたポイントは、やはり本作のテーマである「ロリコン」に尽きるのだろう。
『ニッポニア・ニッポン』の主人公・鴇谷春生のは自分の苗字に「鴇(トキ)」という言葉が含まれることから、トキに対して異常なシンパシーを抱き、佐渡島のトキの開放もしくは暗殺を企む。これは処女作『アメリカの夜』の主人公・中山唯夫が、フィリップ・K・ディックの小説『ヴァリス』から運命的な啓示を受けたと思い込み、物語世界に埋没してゆく構図を引き継いではいる。しかし、いかにトキが「天皇」や「日本」のメタファーであったとしても、それを世間のプチ右翼が自らに引き付けて問題意識を共有できたかは、はなはだ疑問である。ディックの小説に自分をなぞらえる『アメリカの夜』から、トキに自分をなぞらえる『ニッポニア・ニッポン』へ。主人公が依存する超越的存在を阿部は巧妙にすり替えたが、読者の興味の喚起力という点では、その試みは必ずしも成功したとは思えない。異常犯罪者とはいえ後者はあまりに読者の共感に欠けている。平たく言えば「トキヲタクなんて知らねえよw」って話だ。
そして、『グランド・フィナーレ』である。『ニッポニア・ニッポン』には、鴇谷が犯行に赴く際に少女のために犯行の決心を鈍らされるシーンがあるが、今にして思えば、これは『グランド・フィナーレ』の「兆候」だった。『ニッポニア・ニッポン』で鴇谷は少女とトキを天秤にかけトキを選択したが、『グランド・フィナーレ』の沢見は迷うことなく「少女」に突き進む。トキだ桜タンだと迷走していた変態野郎がその志向性をはっきりと少女に向けた「ロリコン文学」である本作は、神町サーガというだけでなくテーマにおいても、『ニッポニア・ニッポン』のアナザーストーリーであり、同時に全国ウン千万のロリコン予備軍のための物語である。
『ニッポニア・ニッポン』で鴇谷が、さまざまなメディアを見聞きしてトキの開放もしくは殺害の決意を固めていったように、本作の沢見も多彩なメディアを経由して少女たちを鑑賞している。カメラで撮影しストレージメディアに収められた少女たちの裸体。伊尻が携帯電話のカメラで撮影してきた8歳になったばかりの娘・千春に衣装を着せた画像。そして亜美と麻弥には、「お芝居」というメディアを通して沢見は接近してゆくのだ。
ディックの小説、メディアの中のトキ、HDDの中の少女。超越的存在はいつも虚構の向こう側から現れる。そしてこれらに心酔し、欲望のまま手を伸ばそうとするのも、やはり阿部作品の登場人物の常だ。『グランド・フィナーレ』の終盤、沢見は自らの手で美少女二人を、「舞台」という虚構の世界へ押し上げようとしている。この行為は沢見がかつて手を染めたロリコン写真の撮影と本質的には同義であり、巷で言われているような、沢見の「社会復帰」や「更正」などでは、明らかにない。
やっかいなのは、『ニッポニア・ニッポン』で鴇谷がトキを殺害/開放しようとする動機が、檻に囲われて生き恥をさらすトキへの同一化という、彼個人の特殊な思想であったのに対して、本作の沢見の場合、二人の可憐な少女のための思い出作りという普遍的な感情で動いてるところだ。沢見が代官山のクラブでアルコールとドラッグと風邪で朦朧としながら聞いていたアフリカの子供の話。過激派グループにより誘拐され兵士に仕立て上げられるウガンダの子供のこと。こういった、大人の都合による子どもたちの悲劇に、若いIやYたちは現実感を持てないながらも憤慨する。だが、これらのエピソードは、アホなトキ誘拐犯の兄貴のせいで村八分にされ、転校しなければならない少女の状況にそのまま引き写されているではないか。強い絆で陰惨なイジメを潜り抜けた亜美と麻弥が、逆らいがたい大人の事情によって離れ離れになる。そんな彼女らの、最後の思い出作りのお芝居に協力したいという沢見の想いは、ウガンダの子供たちの悲劇を許せないと感じるIやYの感覚と、そう隔たってはいない。なにしろこの少女らは、心中まで考えるほどに追い詰められているのだから。
沢見はクリスマスプレゼントとして、少女たちに小鳥を贈る決意をする。娘の千春の誕生日プレゼントに買い与えたのと同じ、白い雌のセキエイインコを。かつて千春はその鳥を「ドリー」と名付けた。世を騒がせたクローン羊と同じ名前。では、この白い雌のセキエイインコは何のコピーなのか。当然「トキ」である。これは『ニッポニア・ニッポン』における「トキ」が少女たちに仮託されたと解釈すべきだ。そして、「トキ」を買い与えられた千春は、沢見のヌードコレクションのモデルであり、やがて母親によって沢見から隔離され、沢見を怖がるようになった。
そう、やはりこの作品の結末を「ロリコンの社会復帰」と、肯定的にみなすことはできない。二人の少女に自分の娘と同じ小鳥を買い与え、私財を投げ打って二人の劇「勿忘草」をプロデュースした沢見が、過去と同じ過ちをふたたび繰り返すのはもはや避けがたいように思われる。写真の中からお芝居の舞台へ、沢見の前に少女は再び現れたのだ。その手にトキを携えて。そして、その結末もIによって暗示されている。成長しても少女時代のトラウマを払拭できなかったIの親友の自殺。大人の欲望により虐げられた子供の末路に、ハッピーエンドはない。
では、この作品が言わんとしていることは何なのか。ロリは死んでも直らない?それも良さげだが、もっと他に何かありそうだ。
この作品の恐るべき点は、誰もが持っている子どもへの愛情と、ロリコンのグロテスクな願望を、そのまま結びつけてしまったところにある。沢見は異常性癖のモンスターでなく、子どもへの好意がちょっと過剰なだけの一般人に過ぎないのではないのか? 後半の沢見の思考や行動から、読者がこう感じたとしても不思議はない。そこから「沢見更正説」を導き出すのは容易だ。しかし、この問いは沢見や世のロリコンたちの擁護にはならない。むしろ、自分をノーマルだと思いこんでいる、我々に向かって鋭く突きつけられた刃なのだ。
果たして、小学6年生の女の子に普通に好意を感じる僕らは、ロリコンなのだろうか。誰もが一度は考え、すぐに打ち消すであろう身近な疑念を、『グランド・フィナーレ』はまざまざと思い起こさせる。二人の少女のために尽力する沢見の微笑ましくも一途な想いが、あの忌まわしい倒錯した性癖と同一線上にあるとしたら……。僕たちは沢見の行動と想いに自分たちが共感できることの意味を、ちっとはマジメに考えてみるべきなのかもしれない。
ともあれ、全国ウン千万人のロリコン予備軍は、自らの代弁者が芥川賞という栄誉ある賞を受けたことについて、素直に喜ぶべきであろう(ついにロリコンの時代が来たんですよ、CCさくら板のみなさん!)。その一員である僕も、ここで高らかに阿部和重氏の芥川賞受賞をお祝いさせてもらうことにする。阿部っちオメーーーーーーーーー!!!
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