佐々木さんの存在を知ったのは、2009年でした。特攻隊に関するある本の中で、ほんの数行「八度出撃して、八度帰ってきた佐々木友次」という記述を見つけたのです。僕は衝撃を受け、この人のことをずっと知りたいと思っていました。
毎年、春を過ぎる頃に、テレビ関係者から「鴻上さん、何か終戦特集の企画、ないですか?」と聞かれます。とにかくネタを集めるテレビマンの習性です。
僕はそのたびに、佐々木友次さんの名前を挙げました。番組になれば、佐々木さんについて詳しく分かると思ったのです。
テレビマン達は、みんな、「面白そうですね」と言いましたが、それだけでした。そこから、企画が動くことはありませんでした。
あまりにも今までの特攻のイメージと違っているからか、生き延びたということが何か問題があると思ったのか、とにかく、何も始まりませんでした。
2015年、また、僕はBS朝日の『熱中世代』という番組の上松プロデューサーに佐々木友次さんの話をしました。
僕自身が司会をしている番組で、上松プロデューサーはちょうど、終戦70年特集の企画を探していたのです。
「面白そうですね」と上松プロデューサーは興味深そうな顔をしました。けれど、僕は、いつものことだろうと期待しないままでした。
それが、4月の終り。5月の終りに、番組の収録のためにテレビ朝日に行きました。ロビーに上松プロデューサーがいました。佐々木さんのことを調べたと早口で話した後、僕の顔を見つめました。
「鴻上さん」
上松プロデューサーは真剣な表情で言いました。
「佐々木さん、生きてますよ」
僕は思わず、テレビ朝日のロビーで叫び声を上げていました。
佐々木さんは札幌の病院に入院していました。この時、91歳で、目は不自由になっていましたが、意識はしっかりしていました。
僕は、仕事をなんとかやりくりして、佐々木さんに会いに行きました。そして、いろいろとインタビューしました。
どうして、9回も出撃して、9回も帰ってこれたのですか。「次はどんな船でもいいからぶつかれ!」と叫ばれても、どうして、生きて帰ってこようという気持ちになれたのですか。
佐々木さんは、誠実に、丁寧に、記憶が薄れることなく僕の質問に答えてくれました。
結局、2ヵ月半の間に5回お会いして、いろんな話をうかがいました。
ノンキな話だと、飛行機にトイレは当然ないのでおしっこはしっぱなし。3時間も4時間も飛んでいるので、ズボンをはいたまま、おしっこするのはよくあったということ。しても、かわくから問題はないんだと仰っていました。大きい方はどうするんですか? と聞くと、食糧事情がそんなによくないから、心配するほど出なかったというお返事でした。
戦争中とは言え、空を飛ぶことの楽しさ。海軍のカミカゼは零戦ですが、陸軍の『万朶隊』は、九九式双発軽爆撃機という四人乗りの飛行機を一人で操縦して出撃しました。訓練を積めば、これを自分の羽のように操れると佐々木さんは仰いました。
真剣な話は、「どうして、挫けなかったのですか?」という根本の問いかけでした。佐々木さんの答えに僕は唸りました。