POPなポイントを3行で
- ゲームクリエイター・イラストレーターのたかくらかずきによる寄稿
- 傑作『レディ・プレイヤー1』で唯一腑に落ちないのは、その“語られ方”だという
- 古今東西の作品へのオマージュを消費するのではなく、文化を継承する方法とは?
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たかくらかずき作
スティーヴン・スピルバーグ監督の最新作『レディ・プレイヤー1』は確かに傑作だ。劇場での鑑賞が必須な映画体験であり、映画史に残る映画だと言いたい。仏教の世界観をとりいれたシューティング『摩尼遊戯TOKOYO』などを手がけるゲームクリエイター・ドットアーティストのたかくらかずき氏による寄稿。
ただ一つ、腑に落ちない点を挙げるなら、それはこの映画の“語られ方”にある。
いや、むしろそれら「過去のコンテンツへの懐古」や「未来描写」の否定にこそ、この映画のテーマが宿っているように感じたのだ。スピルバーグと原作者が、この映画で問いかけているのは、“消費”ではなく“継承”なのではないか?
※本稿ではネタバレを含みます
ドット絵・文:たかくらかずき 編集:新見直
変わらぬ欲望、進化できない人類
生活における食事やトイレ以外のほとんどの行為が可能なVR空間「オアシス」では様々な欲望を満たすことができるが、ひとたびHMD(ヘッドマウントディスプレイ)を外すと問題尽くしの絶望的な現実世界が目の前に広がっている。
そんな中、「オアシス」開発者の死後、ゲームの中に潜んでいるという「イースターエッグ」(裏技)を探すゲームが始まる。
エッグを見つけると「オアシス」の運営権をもらえるついでに億万長者になれるため、そのゲームは世界を巻き込んだ。ハリデーの残したエッグを手に入れるため、現実の豊かな生活を手に入れるためには、彼の心酔した80年代ポップカルチャーに精通する必要があった。
ひとことで言えば「全人類総オタク化」の世界だ。 「オアシス」でやることといえば、富・力・名声を得ること。いくら近未来で技術が進化していても、人間の欲望が変わることはない。映画の冒頭ではっきりと、「どこまでいっても人間の欲望はこの程度だ」という見解を突きつけられることになる。
そう、この物語はまず、いつまでも進化できない人類の物語として始まる。
大人帝国の野望 20世紀博は続く?
そしてその筋のオタクとしての自負がある人々にとっては、これほどまでにオタク魂をくすぐられる映画はないだろう。僕もオタク魂に着いた炎が抑えられずに語り続ける面々を何人か見た。それはそれで大変ほほえましいことだ。
でも、僕には『レディ・プレイヤー1』を見て思い出した一つのアニメ映画がある。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の野望』だ(関連記事)。 『オトナ帝国』において、しんのすけたちが迷い込んだ20世紀博では、大人たちが大好きな“懐かしい”ものだけを集めて、ひたすらに愛で、消費しつくすという空間が立ち上がっていた。
“「懐かしさ”」とは、ただひたすらに消費することができる代物だ。『オトナ帝国』で繰り広げられていた“懐かしい”だけの世界が、この「オアシス」にも広がっていた。 『レディ・プレイヤー1』ではこの“懐かしい”世界を永久に稼働させ、没入させ、消費させることを目指す「大企業」が主人公たちの前に立ちふさがる。実はこのとき、主人公たちはただ消費されてしまう「懐かしい」代物をいかに「歴史」に変換していくのか、という大きな問いと対面している。そしてそれこそが、本作に込められた重要なメッセージではないだろうか。
歴史への変換については後述するが、根っからのオタクである主人公たちも、永遠に懐かしさを消費し続けることは望んでいない。彼らは様々な作品へのただならぬ敬意をもって、それらを開発した人間のことを思い、データの裏側を紐解き、ルールの外側を探り当て、そして、最終的に「運営」していくことになる。
つまり、『レディ・プレイヤー1』とは何だったのかと言うと、「オアシス」の開発者であるジェームズ・ハリデー(監督であるスピルバーグともダブって見える)の仕掛けた、純粋な文化の継承者探しなのだ。
『A.I.』と『シャイニング』、文化のバトンパス
その一つの答えとして、作中の『シャイニング』のシーンは大変印象的だ。『レディ・プレイヤー1』の監督であるスピルバーグと『シャイニング』のスタンリー・キューブリックとの関係性を示す上で、重要な映画がある。
2001年に上映された『A.I.』は、キューブリックが長い時間をかけて温めていた企画だったが、企画段階でキューブリックが死去。キューブリックの生前の希望で、スピルバーグが監督を引き継ぐことになった。 今観ると、キューブリックの芸術性とスピルバーグの娯楽性が相まって、なんとも不思議なバランスの作品に仕上がっている。
注目すべきは、『A.I.』が、キューブリックからスピルバーグへのバトンとして、映画史の1ピースに刻まれた作品であるという点だ。
かつて1960から90年代にかけて数々の代表作を世におくり出したキューブリック、そしてスピルバーグも1970年代から現在に至るまで、世界に愛される作品を生み出し続けている。キューブリックの死から2年を経て公開された『A.I.』を中心に、2人の偉大な監督の歴史をつなげてみることができるのだ。
そして映画の原作となった『ゲームウォーズ』の著者であり劇場版の脚本も務めたアーネスト・クライン。彼の原作には、スピルバーグの過去作へのオマージュが多数登場しているという。これをスピルバーグ本人が監督を引き受けたとき、自身の作品へのオマージュを極力省き、映画版ではキューブリックの『シャイニング』のシーンを大々的に取り入れた。
キューブリックからスピルバーグへ、スピルバーグからクラインへ。この3人の見事なバトンパスからは、「映画」というコンテンツを主軸にゲームやアニメの方向へいくつも枝分かれし、そして現在をも串刺しにして未来へと導く大きな流れを見て取ることができる。
それは決して「懐古主義」などではなく、“過去を引き連れて未来へ導く”文化継承の流れだ。
ひたすら消費される“懐かしい”から決別するヒントは、ここにある。
巨大企業とオタク、ビジネスと作品との拮抗
すると、誰の懐が潤うのか。“懐かしい”を商材とする企業だ。
あらゆる企業は“懐かしい”をひたすらに掘り返し、何度もリサイクルして食料のように顧客に与えることができる。“新しい”も実は同じで、その時代の最新のものをチェックし──決して簡単なことではないが──常に新しいものを提供さえすれば顧客は喜んで消費する。それが「消費者」だ。
懐かしさや新しさを消費することは、人間だけに許された極上の快楽だといえる。
『レディ・プレイヤー1』では、そんな“懐かしい”と“新しい”を消費者が仮想空間「オアシス」内で消費し続け、その食べかすが現実世界にゴミとして積みあがってゆく。そんなディストピア的構造のようにも見える。 そして、映画に登場する大企業「IOI社」は、消費者をいかに消費させ続けるのかという点において、とても優れた企業として描かれている。この企業が目指しているのは、過去の様々な文化や最新技術から抽出した“懐かしさ”や“新しさ”のサイクルを稼働させ続け、終わらせないことだ。
消費者は、快楽が終わらないことを望む。それは一切悪いことではない。しかし、なぜこの物語では企業が悪者として描かれてしまっているのか? それは、「消費のサイクル」は「文化継承」と対立関係にならざるを得ないからだ。
その対立は、「オアシス」の創設者であるジェームズ・ハリデーと、その相棒であるマーケターのオグデン・モローの関係性にも表れている。ハリデーは「オアシス」をただのゲームとして終わらせたかったが、モローはオアシスを継続させて社会に接続した巨大なライフラインに仕立て上げた。この2人の関係性はどこかアップルコンピュータ―のウォズニアックとジョブズのことを思い起こさせる。
物語は終わりを迎えなければ“歴史”には刻まれない。皆の心に残ることもない。しかしその逆に、終わらせずに大きくすればするほど大衆に知れ渡り、雪だるま式に膨れ上がる巨大な名声と富を得ることができる。
多数の消費者を虜にする「オアシス」というコンテンツの構造を支えているソースコードである“ビジネス=商品”と“作品=文化”という2つの核となる思想の拮抗が、この映画ではしっかりと描かれている。
物語を終わらせ、外に出る冒険者たち
例えば、ある特定のタイトルのゲームやアニメがヒットした場合、“ビジネス”としては続編をつくり続けるのが良策となる。一度その世界観に深く共感した層は太い顧客としてしばらくはそのマーケットを離れることはないだろうし、キャラクターといった財産も資源ストックされる。
さらに言えば現代のネットゲーム、ソーシャルゲームにおいてはその世界観を「サービス」として継続し続け、顧客を離さないことが一つのビジネスモデルとなりつつある。しかしながらそれらのコンテンツに終わりが来なければ、過去のコンテンツと対比して語ることができず、“作品”としての歴史的評価を下すことも容易ではない。
極論だが、物語は終わりがなければ、物語として評価することができない。ここに物語を「続けること」と「終わらせること」のジレンマがある。
そして、『レディ・プレイヤー1』には、この2つの考えを象徴するかのようなシーンがある。それは、「契約書」のくだりだ。
契約書社会として知られるアメリカのハリウッド業界。その映画の劇中で、契約書を破棄するシーンが描かれるのはなんとも爽快だ。
主人公のウェイドは最終試練をクリアし、「オアシス」のすべてを手に入れる契約書をハリデー(のアバター)から渡される。しかしその書類にはサインせず、破棄してしまう。
契約書は作品にとっても、ビジネスにとっても重要だ。だけど、「契約書にこの物語の一体何が宿るっていうんだ。」そんなスピルバーグとクラインの心の叫びが聞こえたような気がした。 ウェイドは自分ひとりだけで「オアシス」を所有する契約を破棄したあと、ともに冒険した仲間たちと一緒に「オアシス」を運営する側にまわる。それはまるで友人同士で企業したFacebook社や「ポケモン」のゲームフリーク社、「アングリーバード」のロビオ社の始まりのようだ(僕にとっては近しい友人たちがつくったKAI-YOUの始まりのことも思った)。
ハリデーとモローがウォズとジョブズであるならば、ウェイド達はまさに現代のベンチャー企業の始まり方にぴったりなのだ。オタクたちが集まって、ただの消費者であることをやめて好きな文化の未来のために運営を始めるなんて、まるっきし現代的じゃないか。彼らはきっと若者ながらの新しいやり方で文化を継承していく。ただ消費だけすることをやめたオタクは最強だ。
この映画は“懐かしい”映画でも“新しい”映画でもない。次から次へと懐かしくて新しいコンテンツが量産され、消費される“現代”からその先へ、文化の物語を継承するための映画なのではないだろうか。 スピルバーグとクラインは、観客から文化の“継承者”を選び抜くゲームそのものとして、この『レディ・プレイヤー1』を上映したのかもしれない。ここには、「本当の文化とは何か」という問いと、「みんな、もうすこし消費ばかりしていないで、受け継いでくれよ!」という願いが込められている。そんな映画に僕は見えた。
ゲームに隠された制作者の思い、コンテンツが巨大化してゆくときのトップの人間同士の関係、ソースコードの裏側、つくられた世界のルールの外側。主人公であるウェイド達はただ盲目的に「新しくて懐かしい」ものを消費する快楽から目を覚まし、徐々にその奥へ奥へと導かれ、物語を終わらせることで次の歴史を紡ぐ役目を担う。
この物語を「映画」という形で見事に描き切ったスピルバーグとクラインに心の底からの拍手喝采を送り感服して、僕はまた彼らの制作の裏側や人間生活について思いを馳せた。
映画の話
たかくらかずき // Takakura Kazuki
Illustrator/Gamecreator
1987生まれ。ドット絵やデジタル表現をベースとしたイラストや動画、ゲームやVR作品を制作。劇団『範宙遊泳』ではアートディレクターを担当。2016年より『スタジオ常世』の名でゲーム開発を開始、仏教の世界観からインスパイアされた2Dシューティングゲーム『摩尼遊戯TOKOYO』をsteamで発売中。
https://store.steampowered.com/app/756840/TOKOYO/
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