大韓帝国時代の日刊紙・皇城新聞の社説「是日也放声大哭」は、その有名な見出しに比べ全体の内容を知る人が少ない。見出しは代々語られているが、全文は広く読まれていない。読んでいても見出しほどはよく知らない。前文の内容が当時の知識人でなければ理解しにくいためだ。
社説は、乙巳勒約(第二次韓日協約、1905年)に署名した朝廷の大臣を2回「豚犬不若(犬畜生にも劣る)」と激しく非難している。ところが、序論に登場する伊藤博文に対する3回にわたる呼称がおかしい。「伊藤侯」と侯爵の尊称を付けているのだ。内容も穏やかだ。伊藤侯が東洋平和を望んでいると考え、あらゆる人々(官民上下)が歓迎したのに、乙巳勒約が結ばれるとはどうしたことか、と恨んでいる。「あらゆる人々が伊藤侯を歓迎した」という時期は1年前の1904年3月。日本が日露戦争を起こし、韓半島(朝鮮半島)をのみ込んだ時のことだ。
当時の皇城新聞は民族言論の求心点で、識見に優れた知識人が集う場所だった。このような姿勢は報道機関だけではなかった。高宗はこの時、訪韓した伊藤博文に大韓帝国の最高勲章「大勲位金尺大綬章」を授与した。勲功をたたえながら、英国のビクトリア女王、ドイツのビスマルク、清の李鴻章と共に伊藤博文を「近世の4大人傑」と褒めたたえた。伊藤博文は高宗に「東洋平和に協力すれば韓国の山河が横暴な列強の所有にならないよう、韓国の痛みを日本の痛みと考えて共に対処する」と答えた。