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2018-05-06

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・あれが新しいとか、これが新しいとか、
 いやいやこっちのほうが新しいとか、
 そう言うけど実はこいつこそが新しいんだとか、
 それに比べてあれはもう古いよねだとか、
 そんなことばっかりを知ろうとしてたり、
 知っててばらまいたり、知らなくてあせったりって
 ‥‥けっこうムダなことだと思うなぁ。
 ムダってカタカナで書くとムダ毛を思い出すね。
 なんて付け足すのもムダなことだね。

 新しいと自慢しているものは、だいたい古くなる。
 これは若さを誇っても、やがて年をとるのと同じだ。

 おっぱいは かならずたれる たらちねの
 ははにしわよせ ばばになるよに

 新しさとか若さとかは花の咲く定めにも似てね、
 ハチやらアブやら飛んできてちやほやしてくれるけど、
 かならずちゃんと散るのです。

 でも、どうしてもある程度の年になるまでは、
 新しさというものを追いかけたくなるものだ。
 そのほうが世間さまが価値を認めてくれるからね。
 つまり新しさは商品になりやすいということだ。
 いちばん新しいものごとを知っていて提供するというのは
 当然のように人によろこばれることだろう。
 ただ、これには落し穴があって、
 ライバルとの「新しいもの競争」になってしまいやすい。
 こうなると、よろこんでくれるはずの人にも、
 理解されなくなって、人が寄りつかなくなったりもする。

 よく年寄りが言うようなことを、どうしていまごろ?
 と思われたかもしれないが、つくづくそう思ったからさ。
 京都にお寺とかいっぱいあるけれど、
 それぞれに、いろんな物語があるんだよね。
 寺社の世界では、新しさが不気味に見えるんだよ。
 「温故知新」って、ほんとにいいこと言うなぁと、
 しみじみ感じているゴールデンなウィークなのよ。
 古いとか新しいとか、正しいとか利口とかって、
 ほんとうに儚いものなんだと思って過ごしてるよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
新しいとか利口とかよりも、いい馬鹿はいいもんだねー。


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