世界人権宣言の採択から今年で七十年。すべての人の基本的人権を公に認めた宣言だ。だが差別や偏見は一向になくならない。私たちはその現実とどう向き合い、報道すべきか。改めて考えた。
二年ほど前、名古屋市近郊の町に、車いすユーザーの押富俊恵さん(36)を初めて訪ねたときもそうだった。
難病を患っても医療職で培った経験や知識を生かし、後に障害者支援のNPO法人を立ち上げた。その彼女の言葉だった。
「見下ろしたままで話す人がいるんです。何というか、心を開いて話しづらくて」
この思いがけぬひと言が、私たちがふだん思っている記者としての心構えを、力強く念押ししてくれたように聞こえたのだ。いつも忘れないでいて、と。
差別や人権にかかわる問題を取材する場合、私たちは、立場の弱い人の話を聞くことが多い。そんなときには、相手の目線で見て、聞いて、理解していくという心構えでありたい。
障害のある人や現に差別されている人は、心の内を自ら意思表示することがなかなか難しい。そうした小さな声、声なき声をいかにくみ取り、伝えていくかが、私たちには問われている。
世界人権宣言が採択されたのは一九四八年十二月十日。パリで開かれた第三回国連総会だった。
宣言そのものに法的拘束力はない。だが人種差別や女性差別の撤廃、子どもの権利条約など、その理想と精神は各種の国際条約、規約となって生み出された。
日本でなら、最近では一昨年の「人権三法」だろう。四月に障害者差別解消法、六月にヘイトスピーチ対策法、十二月に部落差別解消法が施行された。
むろん法の有無にかかわらず、いわれのない差別や偏見に対しては、これからも私たちは厳しく物申していかねばならない。差別を助長するような面もあるポピュリズムが世界に広まってきている現状を見れば、余計にである。
法ができても、差別は根深い。法の趣旨が、公的機関や人びとにどう浸透していくか。
繰り返しになるが、だからこそ私たちは小さな声に耳を澄ませ、伝え続ける必要がある。法が意味あるものになっていくためにも。
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