「Vtuberの登場で、やっぱり顔はいいに越したことはない、って証明されたよね」
わたしたちはコメダ珈琲の新宿御苑前店で一服していた。いとうは爪で髪を掻きつつ続けた。
「ドゥルーズは『千のプラトー』で顔は記号だけど同時に身体でもあるから政治的なものだ、って言ったわけじゃない? で、顔の美醜を問うのはポリティカル・インコレクトだってことになった。けどこれは、まさに悪しき民主主義だよね。アリストテレスは『二コマコス倫理学』で、少なくとも顔の醜くないことを幸福の条件に挙げてるけど、古代ギリシャから現代までに民主主義が記号化してるんだよね」
他人がきけば白眼視するようなことを言う。そうした話ができるだけの知性を見積もられていることは心地いいが、いつもわたしがきき役だ。
いとうは神経質そうな険のある顔をしているが、ひとによっては美人とみるだろう。わたしは彼女の顔をみるたび、坂口安吾の『白痴』に書かれている、狂人の「風采堂々たる好男子で……常に万巻の読書に疲れたような憂わしげな顔をしている」という描写を思い出す。
「ひとの顔をじっとみないでよ。たいぼくちゃん、繊細そうにみえて、そういうところ図太いよね」
いとうは愁眉を寄せた。
「――お待たせ」
倫理がわたしたちに声をかける。黒のカットソーで、シースルーのレースが首周りから両腕を覆う洒落た服だ。それを着こなすだけの顔立ちをしていた。アップにした髪型が、服と調和している。彼女ほど顔立ちが整っていると、髪はまとめた方が素の魅力を出せていいのだろう。
倫理をみると、ときどき冷たくて薄い靄のような感情にかられる。
「遅い」
「セックスするとネコミミのとれるマンガ? 女子ゼロいいよね」
「アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の新作。失踪した息子を探す離婚協定中の両親のはなし。郊外が舞台なんだけど、途中から延々と廃墟の場面になって、それがいいんだ」
「証券って忙しい?」
いとうが尋ねる。遅刻への当てこすりではなく、ただ気になっただけだろう。
「営業はそうかもしれないけど、ディーリングは定休が決まってるからそうでもないよ。うちは外資でリテール部門がないしね」
待っているあいだ、何をはなしていたか尋ねられる。いとうが説明すると、倫理は笑った。
「たしかにダナ・ハラウェイのサイボーグ・フェミニズムはそういう論旨だね。ただそこまでいくと、むしろチャンの『顔の美醜について』みたいに、みる側の感情を操作する方が自然な気もするな。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の〈情調オルガン〉みたいにね」
倫理はいとうのはなしをすぐ理解して、気の利いた返しをした。そのことに体内が熱くなるような感覚をおぼえた。
店を出て、新宿御苑沿いに新宿駅に向けて歩く。二人が話しているため、わたしはその後ろをついていく形になった。他意はないとわかっていても疎外感をおぼえる。
「でも、Vtuberはアンドロイドでもただのキャラクターでもないでしょ。だからナマモノと同じようにあつかわなきゃいけないわけだし」
そう口を挟む。いとうは歩きつつふり向いた。
「カントは『純粋理性批判』で対象は物自体として存在していて、人間はそれを超越論的主観性において認識するのみだといった。で、ハイデガーは『存在と時間』で、そうした直観も主観性にすぎないと批判して、現象学でもって実存が存在者を存在させると定義しなおした。存在論的にいえば、ヴァーチャルYouTuberという架空の人格が存在する、あるいは存在しないというどちらの立場も幼稚すぎる。他人の人格ですら、無条件に存在するとはいえないんだから。まあ、未成熟なひとは自分の理想像を押しつけることで、他人の人格を所与のものとしてあつかうけどね。そういうひとが勝手に本人を代弁して、ナマモノはダメだとか言いだすわけ」
「常識の範疇なら、そういう代弁もいいと思うけどね。二次エロとか。ただ本人がナマモノを解禁してるのに頑なにナマモノを禁止するひととかは、そういう主観論に陥ってるんだろうね」
「だからVtuberについていえば、Vtuberとしてした百合営業に〈中の人〉が触発されて、それがまたVtuberとしての百合営業につながるというような、循環的な重層性があるわけじゃない。実在と非実在は二元論じゃないでしょ。ウンベルト・エーコの『ヌメロ・ゼロ』もそういうことを主題にしてるわけでしょ? 『存在と時間』では記号をただ指示するものでなく、それ自体がもろもろの記号の構造を暗示するものとしているけどね。でも、常識の範疇ってなに?」
いとうは苛立たしげに髪を掻いた。
「Vtuberを自然人としてあつかうとして、どうして身体に属人性を与える方向にいくかなぁ……、それなら自然人の身体を人格とは別個のものとする方向にいくべきでしょ。天与のものである身体を人格と同一視して自然権を認めるのは、明らかに不合理じゃん。だからグレゴリー・マンキューも皮肉で〈身長税〉を提唱したりするわけでしょ。……、え? マンキューくらい専門外でも知っておきなよ」
議論めいてきて、倫理の口調も熱をおびてきた。自然とわたしは無言になる。
「そもそもVtuberは著作物と見なした方が簡単じゃない? 〈中の人〉はVtuberに演者としての著作隣接権をもつわけ。二次エロには著作隣接権を著作人格権に準用して対応すればいい」
「ちがうね。マッピングで体をリアルタイムに同期させてるVtuberはVRよりARの方が近い。もちろんARみたいに空間認知で人格を投射するわけじゃないけど、運動感覚でも同じことがいえるでしょ」
「身体を人格から分離するのが進歩的なのはわかったけど、テクノオプティミズムすぎるよ。こんなことをいうと、イーガンのSFに出てくる保守主義者みたいかな。けど一般論として、エロが一部のひとに不快感を与えるのは事実でしょ? 前から思ってたけど、自分に関わることだとすぐ感情的になるくせに、他人には正論を押しつけるよね」
「自分に関わることなら感情的になるのは当りまえじゃない? 正論を曲げる理由はないよ。倫理こそ、他人に配慮してるようだけど、等しく他人を見下してるだけでしょ? あと、テクノオプティミストでけっこう。わたし原発推進派だし」
「倫理のいうこともわかるよ。でも、制作者の意見もないのに他人を規制しようとするのはただの自治厨だと思うな。そういうファンは決まって創作をしない側だよね。創作ができないから、その代わりに自分でルールを考えて、それをコミュニティに強制しようとすることで存在を主張しようとするんだ。まあ、そういうファンはどこのコミュニティにもいるから、無視する以上のことはできないんだけどね」
いいながら、いとうは自分の言葉でふたたびイライラしてきたようだった。いとうは神経過敏だ。紙やすりのようだと思う。
いとうが自家中毒めいて、自分の言葉で気分を荒立てているのを察したらしく、倫理は優しくいった。
「自分と他人のあつかいに差があるのは当然だけど、いとうの場合、それが甚だしいってことをいったつもりだったんだけどな。あんたみたいなディスコミュニケーション女にもわかるようにいってあげると、誰もがあんたみたいにコテハン擬人化されて喜ぶ人間ばかりじゃないってことだよ」
「なるほど…」
「あ。いまのでわかるんだ」
「いとうの見方は個人主義的すぎるよ。後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲームも、そういう分析哲学に対する批判としてあるわけでしょ?」
それから、しばらく誰も話さなかった。黙々と歩く。倫理が雰囲気を変えるようにいった。
「そういえば、たいぼくってウケるんだよ。前に泊まりにいったとき料理をつくったんだけどね。カレーにするつもりで牛筋を煮込んでおいておいたら、朝にたいぼくがコンソメスープだと思って飲んでたんだよ」
いとうは爆笑した。
「たいぼくって本当に生活力ないよねー」
倫理に囃す。「それにしても、あんたマメだよね。よっ、家父長制」
「都庁って変なデザインだよね。すくなくとも都の庁舎じゃないでしょ」
「いや、あれは自生する秩序の象徴だから、都市の役所としてふさわしい建築だよ。エッフェル塔と同じ」
「ロラン・バルトの『エッフェル塔』だよ。『あらゆる時代、あらゆる映像、あらゆる意味に通じる純粋な表徴であり、拘束のない隠喩』ってね。具体的にどういうことかは、ルイ・マルの『地下鉄のザジ』をみればいいよ。『地下鉄のザジ』ではエッフェル塔の内外から、鉄塔の無機質な幾何学模様が無限に顔をもつところが撮影されているから。『地下鉄のザジ』の原作者が『文体練習』のレーモン・クノーっていえば、わかりやすいかな」
なんとなくおもしろくなく黙っていると、いとうがいった。
「でも、そういう意味をもたないことを意図した無機質なデザインなのに、結果として都市のランドマークになってるのは皮肉だよね。そうそう、ケヴィン・リンチは『都市のイメージ』で都市の認知地図における主体を〈パス〉、〈エッジ〉、〈ディストリクト〉、〈ノード〉、〈ランドマーク〉の五つに分類したけど、これはプロファイリングのGCT(犯罪地理探索モデル)に利用されているんだよ。〈犯人の標的捜索行動は居住地から離れるにつれて犯行に及ぶ確率が単調減少する〉、〈居住地の近隣に犯行の行われない地域が存在する〉、という二つの仮説のもとで距離を独立変数とする距離減衰関数を導出するんだ。もちろん、それだとただ犯行地点の二次元的な分布の平均を求めるだけだから、ここに認知地図を当てはめるわけ。たとえばエッジに近づくと距離が縮小するとかね。平山夢明の『独白するユニバーサル横メルカトル』は、これを種本にしているんだよ」
往来でプロファイリングと平山夢明について語るいとうは完全に異常者だった。
「そういう自生する秩序の象徴をもそのうちに組みこむのが、自生する秩序なんじゃないの?」
「そもそも、新宿そのものが意味をもたない記号の都市なんだよ。大政奉還前は飯盛女のいる宿場、戦前は遊郭、戦後は闇市、復興期は赤線地帯。七一年の京王プラザ建設を皮切りに七〇年代に高層ビルが建設されて、九一年都庁が移転するまで、ここは周縁だったんだよ。都庁にふさわしい場所でしょ? ちなみに、いわゆる〈新宿二丁目〉は二丁目の北側だけで、二丁目と三丁目は御苑大通りで隔てられてて、歩行者天国と地下道もそこで途切れている。で、ご存じのとおり二丁目は都市から外れて住宅街とモザイクになってる。つまり、二丁目は周縁の周縁ってわけ」
そこまでいって、倫理は表情に翳を落とした。
「まあ、これは殊能将之が『キマイラの新しい城』で六本木についていったことを、新宿に転用しただけなんだけどね。〈キマイラの新しい城〉っていうのは復元された古城と同時に、六本木ヒルズのことも指してるんだ」
「いいじゃん。ロラン・バルトによれば日本そのものが『記号の帝国』らしいし」
倫理は頷いた。
「『黒い仏』だね。柔むげさんがさ、いつか『殊能将之読書日記』に感動してたじゃん。わたしはそれがわかるんだよね」
「『殊能将之読書日記』ではフリッツ・ライバーの長編への見方が顕著かな。殊能将之は〈ほとんどエロゲーの世界〉とか腐しながら読んでいるんだけどね……。その皮肉さがわかりやすいのが『A Spectre Is Haunting Texas』だよ。殊能将之は『幽霊テキサスに取り憑く』と訳しているけどね。月周回軌道ステーション生まれの主人公が、第三次世界大戦後のアメリカにきたら〈テキサス国〉になってたってはなし。日本でいうと〈「第3次世界大戦後、大阪が日本を支配するようになった時代、大阪人は全員きんきらきんの漫才師ルックで、『なんでやねん』『そんなアホな』などとしゃべっている」みたいな設定〉ってこと。テキサス国の首都はテキサス国テキサス州ダラスで、街にはケネディ暗殺を記念した黄金のモニュメントが建ってるの。教科書倉庫の窓から突きだす銃身とオープンカーのシャーシのやつ。で、テキサス国の政権交代は大統領暗殺でおこなうのが慣例なの。爆笑じゃない? で、まあギャグ小説なんだけど〈A nation nurtured on cowboy tales and the illusion of eternal righteousness perpetual victory. カウボーイ神話と永遠に正しくつねに勝利しつづけるという幻想に養われた国。〉とか書いてあって、痛烈にアメリカを批判しているわけ。だからアメリカでは出版できなくて、タイトルだけイギリス英語の〈spectre〉の綴りになってるんだけどね。ちなみに日記には追記があって、このタイトルは『共産党宣言』の〈ヨーロッパを共産主義という亡霊が徘徊している〉のパロディだと教えられたからってタイトルの仮訳を訂正してるんだけどね。教えたのは中村融なんだけど」
倫理はひと息ついた。
「世界にこういう視座をもっているひとは生きるのが辛いよね。そういうひとを理解してしまうひともね。ナボコフの『ロリータ』もそういうはなしだよね。嫌味で文学趣味のスイス人が、延々とアメリカを呪いながら一人の少女を愛するはなし。柔むげさんは、そういうところに感じたんじゃないかな。で、わたしもそういうひとたちに片足を踏みこんでいるからそれがわかるんだよね。だから、わたしは『程』では灯が好き」
「あ。そこにつながるんだ」
まったく予期しない展開だったためにおどろいた。が、いとうは思うところがあったらしく、無言で前を見つめていた。
「キリンをまとめ買いしておいたけど。あ、あとポテチとカップラーメンも買っておいた」
そういうと、いとうは爆笑した。
「大学生じゃん」
倫理も苦笑しながら言う。
「ここの成城石井でワインとチーズを買っていこう。あ、でも、それならクラッカーにスモークサーモンとハムを買っていって、ムースをつくった方がいいな。素材の味が出るから、いいものじゃないとおいしくないんだよね」
買物をしてからJRのコンコース階に移動する。倫理がカードで決済して、わたしがお金を使うことはなかった。
「ごめんね。一応、ホストなのに」
いとうは笑って「出世払いにしなよ」といった。
倫理は微笑していった。
「それにたいぼくちゃんからモラトリアムの気配をもらってるところがあるからね。わたしも……、わたしたちもこうして社会人の鋳型にはまってるけど、それが仮初めのものだってことを思い出させてくれる」
コンコースでは大勢のひとが行き来していた。天井からは各路線を案内する表示板が大量に下がっている。これらの記号が指示するもののなかに、わたしたちのいく先もあるのだな、と思った。
衒学的という言葉が頭をよぎったものの、ニュアンスだけで正確な意味は知らなかったのでこの際に調べてみたが、想定していたものとは違っていたのに使用する場面としてはおおよそ...