由緒ある高級住宅街として知られる東京都文京区の本駒込。その一角に、昭和初期の建物が1棟残っている。かつての理化学研究所の研究棟37号館だ。この東隣にあった木造2階建ての49号館で戦時中、極秘の原爆研究が行われていた。

理化学研究所の仁科芳雄博士
(仁科記念財団提供)
 研究が始まったのは戦前の昭和16年4月。欧米で核分裂反応を利用した新型爆弾が開発される可能性が指摘されていたことを背景に、陸軍が理研に原爆の開発を依頼した。核物理学の世界的権威だった仁科芳雄博士に白羽の矢が立った。

 約1年後、ミッドウェー海戦で大敗した海軍も「画期的な新兵器の開発」を打診する。仁科は原爆開発の可能性を検討するため、物理学者による懇談会を組織。だが、懇談会は「理論的には可能だが、米国もこの戦争では開発できない」と結論付け、研究は進展しなかった。
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 本格化の契機になったのは仁科が18年6月に陸軍へ提出した報告書だ。核分裂のエネルギーを利用するには少なくともウラン10キロが必要で、「この量で黄色火薬約1万8千トン分の爆発エネルギーが得られる」と記した。後に広島に投下された原爆に相当する威力だ。これに陸軍が反応した。

 「米独では原爆開発が相当進んでいるようだ。遅れたら戦争に負ける」。東条英機首相兼陸軍大臣は研究開発の具体化を仁科研究室に命令。「ニシナ」の名前から、計画は「ニ号研究」と名付けられた。

実験失敗、焼失した「始終苦号館」


 ニ号研究は原爆に使うウラン濃縮技術の確立、濃縮の確認に使う大型の円形加速器「サイクロトロン」の開発、ウラン調達ルートの確保が3本柱だった。

 天然ウランには中性子の数が異なる同位体が複数存在する。核分裂するウラン235は全体のわずか0・7%で、残りは核分裂しないウラン238だ。

 原爆はウラン235の核分裂で出てきた中性子が、ほかのウラン235に衝突して瞬時に核分裂の連鎖反応が広がり、爆発的なエネルギーを放出する。ウラン238は中性子を吸収して連鎖反応を妨げるため、原爆開発にはウラン235の比率を10%に高める濃縮が必要だった。

 そこで、熱拡散法という方法でウラン235を分離し、その濃度を高めることにした。49号館には、分離筒と呼ばれる高さ5メートルの筒状の実験器具が立てられた。

 分離筒は二重構造で内側に外径3・5センチの筒があり、2つの筒の間には2ミリの隙間がある。この隙間の空気を抜いて真空にして、天然ウランをフッ素に反応させて作った六フッ化ウランのガスを注入。電熱線で内筒を350~400度、外筒を50度にして温度差を作ると、ガスが上下に対流し、筒の上側に軽いウラン235、下側に重いウラン238が集まる仕組みだ。

 分離筒は19年3月に完成し、7月から実験が始まった。理論的にはうまくいくはずだった。だが六フッ化ウランが筒と化学反応を起こして分離できない事態に陥る。筒には化学反応を起こしにくい金メッキをすべきだったが、戦時中の物資不足で銅を使ったことが落とし穴になった。

 実験は計6回行ったが、いずれもうまくいかない。20年1月、チームの1人は日誌に「行き詰まった感あり」と記す。分離筒を作製し、実験で悪戦苦闘した竹内柾(まさ)氏は戦後、49号館を「始終苦号館」と評した。

 仁科は大阪帝国大(現大阪大)に分室を設置。陸軍が同様の分離筒を設置したが、稼働しなかった。4月14日、本拠地の49号館は空襲で分離筒とともに焼失する。既存の小型サイクロトロンで中性子を当てた実験済みの試料がわずかに残っていたため、調べたところ、濃縮できていないことが判明。仁科はニ号研究の中止を決断した。

 仁科が中止の可否を陸軍に尋ねると、6月に届いた返答は「敵国側もウランの利用は当分できないと判明したので、中止を了承する」という楽観的なものだった。広島に原爆が投下されたのは、その2カ月後だった。

「文字通り腹を切る時が来た」


 焼失を免れた37号館の2階には、仁科の執務室が当時のまま残っている。まるで時間が止まったかのような空間だ。仁科記念財団の矢野安重常務理事(67)は、この部屋で今も遺品の整理を続けている。「濃縮実験の状況から、仁科は本当に原爆を開発できるとは思っていなかっただろう」と心中を推測する。
焼失を免れた旧理化学研究所37号館に当時のまま残されている仁科芳雄博士の執務室=東京都文京区本駒込
 仁科は米国も太平洋戦争中には開発できないと考えていた。それだけに広島の原爆には計り知れないショックを受けた。現地調査に赴く直前、研究員にあてた手紙にこう書き残した。

 「ニ号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来た。米英の研究者は理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである」

 科学者としての敗北感と自責の念がにじむ。

 次男の浩二郎氏(83)は現地調査から帰宅したときの仁科の様子を覚えている。「悲惨な状況を目の当たりにして、大きな衝撃を受けていた」

 仁科は原爆だけでなく、原子力のエネルギー利用にも関心を持っていたとされる。戦後は原子力の安全利用のための国際的な枠組みづくりを訴えた。

 「原爆開発には失敗したが、あれ以上に戦禍を拡大せずに済んだという意味で、父はほっとしていたかもしれない」。浩二郎氏は静かに語った。

ニ号研究に参加した福井崇時氏「証拠、川に捨てた」


 --原爆研究のニ号研究に関わったきっかけは

福井祟時・名古屋大名誉教授
 「大阪帝国大の1年生だった昭和19年春、理学部物理学教室の助教授だった奥田毅先生から『(ウラン濃縮に使う)分離筒の世話をしろ』と言われた。理研が空襲で危なくなったので、阪大に分室を作ったと後で聞いた」
 --どんなことをしたか

 「分離筒をポンプで真空にする作業をした。停電するとポンプが止まって油が逆流するので、そのための世話をした。問題は、分離筒は当時の日本の製作技術としては無理な構造だったこと。溶接が不完全で漏れがひどく、真空にならないので全然だめだった。20年春、理研から六フッ化ウランが持ち込まれたが、分離筒の真空度が悪く、入れても意味がないので注入しなかった」

 --原爆を開発できると思っていたか

 「こんなもので、できるはずはないと思っていた。原爆を作ろうにもウランがない。ウラン235も分離できていない。原爆の卵のもっと向こうの、よちよち歩きの状態だった。原爆を作るなら、きちんとシステムや組織を作らなくてはいけないのに、日本は米国と比べて方針がなく、バラバラだった。われわれ学生に分離筒をやれというのも、むちゃくちゃだった」
 --終戦後はどうしたか

 「進駐軍が来て分離筒を見つけると、えらいことになると思った。阪大が理研の出店(でみせ)であることは隠していたからだ。詳しく調べられると、先生方に累が及ぶ。証拠は隠せと思った。川に捨てれば分からなくなるので終戦の数日後、誰にも相談せず同期生と2人で、理学部のすぐ隣にある筑前橋から土佐堀川に3本の分離筒をばっと捨てた。もう70年もたっているので、さびて腐っているだろう」

 --仁科芳雄博士はなぜ原爆研究に取り組んだと思うか

 「軍の研究に参加すれば兵隊に行かなくて済むので、周囲の研究者や学生を温存するため参加したのが本心。後に先生がおっしゃっていた。それと研究を守りたいということ。われわれは守ってもらったわけです。だから僕は戦争の被害者とはいえない」

仁科芳雄(にしな・よしお) 明治23年、岡山県里庄町生まれ。大正7年、東京帝国大電気工学科を卒業し理化学研究所入所。10年から昭和3年まで渡欧し量子力学を研究。6年、仁科研究室創設。21年、理研所長、戦後初の文化勲章。24年、日本学術会議副会長。26年1月死去。