だいたいにして天才という言葉を使うと「そんなの天才じゃなくて秀才だよ」みたいなことを言い出す輩が少なからず出てくる。いまそんなところから議論してられない。1時間ほどでこの記事を書き上げなくてはならんのだ。手っ取り早く賢くなる方法を教えてやるから、素直に耳を傾けやがれ。
まず、学校の授業がわからない、ついていけない人は何故ついていけないのかを考えてみる。
例えば、小学校で算数が出来ない、授業についていけない生徒が一定数存在いる。
「太郎君がりんごを2個持っていました。花子さんはりんごを3個持っていました。合わせてりんごは何個あったでしょう?」
こういう問題が解けない。2+3 = 5という計算は出来るのに、文章題になると解けない。そういう生徒が一定数いる。読者諸兄は、彼らの国語力の欠如を真っ先に指摘するかも知れない。
しかし、そうではないのだ。彼らは大抵、この文自体は読めているし、理解もしているのだ。
何故、この問題が解けないのかというと、
・太郎君はどこからりんごを持ってきたのか?
・何故花子さんのほうがりんごをたくさん持っているのか?
・どうして二人のりんごを合わせないといけないのか?
・太郎君と花子さんは付き合っているのか?
・このりんごはピクニックに持っていくのか?りんごはおやつに含まれるのか?
みたいなことを際限無く考えてしまうわけである。
かたや、算数が出来る連中というのは、そんなことは考えない。意識にも上らない。そんなことを考えても正解に辿りつけるわけではないことを体で知っているからである。いや、そんなことを考える想像力すらないのかも知れないし、考えたくもないのかも知れない。あらゆる忖度などしたくないのかも知れない。
だから、この問題を読んだ時、算数の出来る子供たちは、太郎君と花子さんを意識の向こう側に追いやるわけである。「太郎君」も「花子さん」も“あちら側”の世界に置きざりにしてくるのである。意味のない無機質な存在として、「太郎君」と「花子さん」を即座に頭のなかで殺すのである。
この意味において、算数の問題を解く過程というのはサイコパスの思考にも似ている。相手の心情などまったく考慮にも入れない。相手がどう思おうが意に介さない。決して忖度しない。注目している部分以外を関係ないと割り切り、全く取り沙汰しない。
アスペルガーや、サイコパスは往々にして高い知能を有することがある。その理由は私にはわかるような気がする。つまり、彼らは、物事を“あちら側”の世界に置きざりにしてくる技術に長けているのだ。つまり、高い知能を有したいならば、イマジネーションを意図的に排除できなければならないのである。
もう一つ例を出そう。これも算数の問題だ。
「浴槽に水を毎分5リットルずつ入れる。浴槽の栓が無くて、毎分3リットルずつ抜けていく。100リットルの浴槽が水でいっぱいになるのに何分かかるだろうか?」
狂ってる。この問題を作った奴は、間違いなく狂っている。浴槽に栓を何故しないのだ?栓をしてから水を入れろと誰もが言いたくなるだろう。しかし、この問題を解くにはそんなことは考えるだけ無駄である。考えてもいいけども、考える分だけ解くのが遅くなる。この問題を早く解ける奴は、そんなこと微塵も考えない。空想力ゼロなのである。私も小学生のころ、栓をしないことがおかしいとも考えなかった。おかしいこともわからなかった。ただただ問題文の状況をありのままに受け入れていた。だから私は算数の問題がすらすら解けたのだろう。
私の場合、この算数の問題を思い返して「おい!栓しろよ!」と思ったのは成人してからのことで、しかもそのときには、マンションなどで一度屋上にある貯水槽に水を汲み上げて、そこから各家庭に配水する場合など、栓がなく水が一定時間ごとに抜けていくという状況はわりと現実的にはありうるシチュエーションであることも知った。
賢い子供ならばこの問題から貯水槽のことを思い浮かべ、この問題が現実的にあり得る状況であることも把握するだろう。そういった子供のほうが本当は頭が良くて、想像力が豊かだし、理解もまた正しいのである。しかし、残念ながら、この問題を解くにはそのような想像力は邪魔でしかない。時間のロスでしかない。
だから、我々はそのような想像力を抑制し、イマジネーションを排除し、「太郎君」と「花子さん」を地平線の彼方に追いやり、他人の感情を理解できないマンに徹しなければならない。無論、そのままだと社会生活に差し支えるので、現代社会に生きる我々は、前者の状態と社会生活できるマンの状態と2つの状態をスイッチし続けなければならない。
結局のところ、天才になり健全な社会生活をしていくためにポイントは2つある。
・前者の状態になりきれるかどうか
・両者間のスイッチ(行き来)が出来るかどうか
ではないかと私は思うのだが、いかがであろうか。
なるほど
同歩!
この方法で英語が出来るようになりました
ありがとう