今回から番外編として、ニッカウヰスキー 宮城峡蒸溜所の見学について数回に分けてレポートしていきます。
宮城峡蒸溜所は、宮城県仙台市青葉区(建設当時は宮城郡宮城町)に1969年に建設された、ニッカウヰスキー第二の蒸溜所です。2019年には設立から50周年を迎える予定です。
1960年代に開かれたGATT(現在のWTOの前身となった協定)ケネディラウンドで、日本に対して洋酒の関税引き下げを求められ、当時の政府がそれに応じる事が決まり、より多くの輸入ウイスキーの値段が下げられて市販され、国産との競争が激しくなる恐れがありました。
また、戦後に起きたベビーブームで産まれた子供たち(団塊の世代)が成人を迎える時期に入り、ウイスキーの消費も大幅に上がる可能性もありました。
その動きに対し、当時のニッカ社長であった竹鶴政孝はそれに合わせ、新しい蒸溜所の建設を行ってより多くの販売に対応できる体制を取ろうと考えました。
その場所の選定は1967年に、息子である竹鶴威が行いました。
その候補地の一つとして、余市よりも温暖ながらも昼夜の寒暖差が大きく、広瀬川と新川川が合流して多湿になる宮城町の作並地区が挙げられました。
実際に政孝がその地を訪れ、新川川の水をくみ取り、持ってきたウイスキー(諸説あり。ニッカではブラックニッカと説明)をその水で割って飲んだところ、そのうまさを絶賛し、その地を新しい蒸溜所の場所と決めました。
その際、政孝が川の名前を聞いたところ、「新川(にっかわ)」だとわかり、名前の偶然性に驚いたと言われています。
1968年に着工され、翌1969年に宮城峡蒸溜所(当時は仙台工場)が完成しました。
完成の際、企業誘致に積極的だった当時の宮城県知事が、蒸溜所の地域の住所を「ニッカ」に変更するよう政治的に働きかけ、ニッカウヰスキーへプレゼントされました。
1999年には、西宮工場にあったカフェ式連続蒸留器が移設され、ニッカのアイデンティティーとも言えるカフェグレーンウイスキーの蒸溜のほか、近年ではジン、ウオッカの製造も行っています。
実際に訪れてみると、森や山に囲まれた土地に近代的な施設がそびえ立っているものの、所々に木々や緑地帯が設けられるなど、なるべく周辺の自然環境を壊さないような配慮がされていました。
次回は、実際に蒸溜所内の様子を作業工程を辿る形で見ていきます。
宮城峡蒸溜所は、宮城県仙台市青葉区(建設当時は宮城郡宮城町)に1969年に建設された、ニッカウヰスキー第二の蒸溜所です。2019年には設立から50周年を迎える予定です。
1960年代に開かれたGATT(現在のWTOの前身となった協定)ケネディラウンドで、日本に対して洋酒の関税引き下げを求められ、当時の政府がそれに応じる事が決まり、より多くの輸入ウイスキーの値段が下げられて市販され、国産との競争が激しくなる恐れがありました。
また、戦後に起きたベビーブームで産まれた子供たち(団塊の世代)が成人を迎える時期に入り、ウイスキーの消費も大幅に上がる可能性もありました。
その動きに対し、当時のニッカ社長であった竹鶴政孝はそれに合わせ、新しい蒸溜所の建設を行ってより多くの販売に対応できる体制を取ろうと考えました。
その場所の選定は1967年に、息子である竹鶴威が行いました。
その候補地の一つとして、余市よりも温暖ながらも昼夜の寒暖差が大きく、広瀬川と新川川が合流して多湿になる宮城町の作並地区が挙げられました。
実際に政孝がその地を訪れ、新川川の水をくみ取り、持ってきたウイスキー(諸説あり。ニッカではブラックニッカと説明)をその水で割って飲んだところ、そのうまさを絶賛し、その地を新しい蒸溜所の場所と決めました。
その際、政孝が川の名前を聞いたところ、「新川(にっかわ)」だとわかり、名前の偶然性に驚いたと言われています。
1968年に着工され、翌1969年に宮城峡蒸溜所(当時は仙台工場)が完成しました。
完成の際、企業誘致に積極的だった当時の宮城県知事が、蒸溜所の地域の住所を「ニッカ」に変更するよう政治的に働きかけ、ニッカウヰスキーへプレゼントされました。
1999年には、西宮工場にあったカフェ式連続蒸留器が移設され、ニッカのアイデンティティーとも言えるカフェグレーンウイスキーの蒸溜のほか、近年ではジン、ウオッカの製造も行っています。
実際に訪れてみると、森や山に囲まれた土地に近代的な施設がそびえ立っているものの、所々に木々や緑地帯が設けられるなど、なるべく周辺の自然環境を壊さないような配慮がされていました。
次回は、実際に蒸溜所内の様子を作業工程を辿る形で見ていきます。
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