F91について、簡単にまとめておきたい。結論を先に書いてしまうと、F91とは「偽史同士の抗争」を描いた作品だ。そしてこの構図は、これ以降の富野作品の基底をなすことにもなる。富野作品をVガンダム前後、つまり鬱だの黒だの白だので分けるのは少し違うと思う。彼のターニングポイントは、このF91だ。
これは目指すべき、正しい未来が死に絶えた後の時代の物語だ。劇場公開が1991年だから、その頃の時代状況を反映しているのだろう。それは東ドイツやソ連をはじめとする、マルクス主義という正しい未来を奉じていた旧東側諸国の政体がつぎつぎと崩壊し、資本主義と西側諸国の勝利が明白になった時代。日本はバブル最後の年でもあり、昭和天皇が崩御して平成天皇へと代替わりしたころ。この時代を境目にして、日本では次のような言説が目立ち始める。おそらく、ジャパン・アズ・ナンバーワンとまで呼ばれた当時の日本の経済力と、昭和天皇の死が、日本人の素朴なナショナリズムを刺激したのだろう。また、東側諸国の崩壊によって、オルタナディヴな社会像が失われてしまったためかもしれない。
それは、後の小林よしのりあたりに代表される「日本の戦争には正当性があった」そして「アメリカ支配の基での、日本の繁栄は間違っていた」という、主に二つの主張だ。
これらを組み合わせて、ざっくり要約すると「日本の近現代史を見直そう」ということになる。言ってみれば、戦後長らく正史とされてきた物語を、それとは別の物語が浸食してきたわけだ。これが、このガンダムF91という物語の端緒となる。
F91の舞台は、連邦とジオン勢力との抗争が終結してから30年後のUC0123。人々は長い平和と、それにともなう経済的繁栄を享受していた。バブル当時の日本人のように。
マルクス共産主義とダイクンのとなえたニュータイプ論は、内部から自壊した。もう、革命も、目指すべき未来も、理想もない。ただ、永遠に続く今だけがある…。
だが、全ての人々が満足して暮らしていた訳ではなかった。ある日突然、ロナ家を統領とした軍隊=クロスボーン・バンガードがスペースコロニー・フロンティアⅣに強襲をかけてくる。彼らの主張は次のようなものだ。「現代は腐敗している。連邦の支配にも正当性はない。今、世界を正しく導けるのは正しい歴史を受けつぐ我々なのだ…!」。この「歴史を受け継いでいること」が、ある意味、彼らのすべてだ。それは彼らの「コスプレのようなファッション」を見ても分かる。
このクロスボーンがフロンティアⅣに強襲をかけてきたとき、主人公シーブック・アノーとその友人はロイ戦争博物館に逃げ込む。これは非常に面白いと思う。「なぜ、彼は普通のシェルターに逃げ込まなかったのか?」。その答えは、シーブックはクロスボーンの「暴力を恐れた訳ではない」からだ。彼が本当に恐れたのは、クロスボーンが掲げてきた「もうひとつの歴史」なのだ。だから、シーブックは、それまで「宇宙世紀の正史を守ってきた(はずの)戦争博物館」に逃げ込もうとする。
ところが、そこで歴史を守ってきたはずの大人たち=館長ロイ・ユングとそのスタッフは、あまりにも弱かった。旧式モビルスーツでクロスボーンに挑もうとするばかりか、その戦いに子供たちを巻き込もうとすらする。当然、ロイはあっさり撃退され、シーブックも戦争博物館に見切りをつけてフロンティアⅣを脱出する。この状況を一言で表現すれば「それまで信じられてきた宇宙世紀の正史が、それとは異なるロナ家の歴史に、あっさりと塗り替えられた」といったところだろう。実際、ロナ家は、自らの正当性を訴えるために、フロンティアⅣを自分たちの「歴史的アイコン」で埋め尽くそうとする。
しかし、物語が進むにつれてある事実が、ぼんやりとだが明らかになってくる。それは「ロナ家の掲げる歴史もまたフェイクにすきない」ということであり、また、ロナ家の次期党首カロッゾ=鉄仮面が「マイッツァーの義理の息子」であるということだ。ここには二重の裏切りがある。つまり、カロッゾとは「ロナ家という偽史を背負った、ニセモノ」なのだ。
さて、もう一方の、クロスボーンに反撃するはずの連邦側を見てみよう。細かいことは実際に作品を見てもらえるがわかるが、こちらはグダグダで、とてもじゃないがまともな抵抗運動を出来る感じではない。しかし、それはゼータガンダム以降のお約束でもあるため、そこまで重要ではない。このF91で特徴的なのは、それまでガンダムと呼ばれるモビルスーツを開発してきた「アナハイム・エレクトロニクスが衰退している」ということだ。その代わりに、この時代、モビルスーツを開発しているのはサナリィと呼ばれる新興企業だ。このサナリィは劇中でコードネームF91と呼ばれるガンダムそっくり(!)のモビルスーツを開発しており、さらにそれはスペース・アークの艦長代行レアリーによって、ガンダムと名づけられる。そして、このガンダムF91にはシーブックが乗り込み、彼の才能とモビルスーツの性能が組み合わされることにより、連邦の反抗運動は一時的に勢いを取り戻す。
知っての通り、ここまで進んだところで、この物語はいったん幕をとじる。だが、なにか変だ。何かがおかしい。
なぜなら「F91は、ガンダムではない」からだ。くりかえすが「F91とは、ガンダムのニセモノ=義理の息子」にすぎない。そしてこの「宇宙世紀の偽史を背負ったニセモノ」という意味において、「ガンダムF91というMSと、クロスボーンのカロッゾ・ロナは同じ存在」なのだ。ゆえに、このF91は、正史が偽史を撃退したという話ではないし、当然、正史と偽史の抗争を描いた話でもない。冒頭にも書いたとおり、これは「偽史と偽史が争い続ける世界についての物語」だ。そして、F91が原点回帰したのは他でもない、「F91という作品自体が、ファーストガンダムのニセモノ=義理の息子」であり、自身の前と後に生まれてくるであろう、他のガンダムシリーズとの争いを生き延びねばならないだからだ。
制作サイドの都合もあってこのF91には続編が作られなかったが、だが、それはある意味では正しくガンダムの未来を示していたのかもしれない。これ以後のガンダムシリーズは、富野由悠季自身、あるいは富野以外の人間の手によって、ガンダムという偽史、が永遠に制作されつづけるというフェーズに入ったのだから。
今、ガンダムF91のDVDが手元にある人は、それを見返してほしい。そして「なぜ、ラストカットで、カロッゾとF91が重なり合って一つになるのか」を、もう一度、考えてみてほしい。