いつもありがとうございます。
私は昔『御義口伝』をとても愛読していました。『御義口伝』の中に日蓮仏法の真髄があると勝手に思い込んでいたくらいです(笑)。
一心三観、空仮中の三諦論が哲学的に法の実有を否定する概念と解して、龍樹思想に近いものを『御義口伝』の中に読み解こうとしていました。
けれどそれらは私の虚しい幻想に過ぎなかったと思います。私自身がバカだったということです。
『御義口伝』が中古天台口伝の焼き直しであり、信憑性に乏しいことを知った時にはどこに真実があるのか煩悶したものです。
しかしその煩悶が必要なことだったのかもしれないなぁと今になってやっと思えるようになりました。
考えてみると「法有」への固執に陥る説一切有部、そして龍樹の徹底的な法有への批判、しかし龍樹さえも「法無」への固執が出てしまうわけで、世親はそれらへの固執、偏執に対していかにそれを回避するかを志向していました。
中古天台における一心三観は絶対的存在への複眼的視点を導入しますが、いまだ法有の立場を引きずっていると考えられます。それは円仁、円珍、安然以降の天台宗が教理として一念三千を実体化させ、法有の偏執に走ってしまったことの裏返しだと私は思います。
『三世諸仏総勘文教相廃立』は内容的にそのような法有の立場を転轍し得る御書かとも考えました。しかし実際は同抄への信憑性は低く、真蹟不存の天台口伝法門の内容ならば、そこに固執するべきではないと考えるように最近はなってきました。
まあそれは私の課題であって、それが難しいと思えば龍樹を根本としてもいいんだとは思いますね。
いつまでも『御義口伝』などに固執していないで、日蓮を乗り越えることが私たちに課された課題であるかと考えます。
じゃあ、それは成功だったのか失敗だったのかと言えば、大失敗だったんだと思いますよ。
その原因は日蓮思想そのものの限界性にあります。日蓮正宗に戻っても何もわかりませんよ。日蓮正宗みたいな天台口伝法門の借り物で何がわかるのでしょう。檀那流の七箇口伝とか学んだら日蓮正宗の七箇相承の教義なんてただの天台の盗用ってことが一発でわかるじゃないですか?
昔の私には『御義口伝』に対する絶対の信頼と戒壇本尊への絶対の信頼がありました。
しかしそれらへの信用性が低いと判断したら、それを捨て、より深い教理へと思想を深めていくべきです。自己を省みて総括するとはそういうことですよね。
私は悩みましたが、自分がやってきたことの一切を捨てることを決断しました。それこそが「浅きを去って深きにつく」ということなのだろうと思いますし、いつまでも偽物の教義で満足しているだけなら隷属された信徒で終わるだけでしょうからね。
追記:
私は非活メンバーになって、自分がいかに何も知らないかを思い知りました。
自分がいかに何も知らないかを知ることで初めて、本当に知っている人の素晴らしさを実感することができました。いろいろご教示いただき、いつもありがとうございます!
私の教学には課題がたくさんあります。ですから私は自分より知識の深い人、自分よりも多く研鑽している方を求めています。私の知らないことで他の方が学んで知っていることはたくさんあります。それについて私はただ真摯に学びたいだけです。
ですから教学に関心がない人は早く当ブログを読むのをやめた方がいいかと思います。一人一人の方がご自身で思索を深めていただければいいだけです。
誰もが日蓮を学ぶ必要などありませんし、誰もが大乗仏教について学ぶ必要などありません。むしろここで私が問題にしているのは、創価学会や日蓮正宗が仏教の正統を自称しながらも、その実、何も知ろうとしないという実態の方なのです。