気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

日蓮の限界と有効性の再考。






いつもみなさん、ありがとうございます。



さて私が創価学会の非活メンバーであることは周知のことなのですが、日蓮を否定したり、日蓮の限界やらを指摘するのを見て驚かれる方がいます。


私としては日蓮の限界や間違いについて率直に認めるべきと考えているに過ぎないのです。
例えば薬王品に「広宣流布」は「宿王家菩薩」に付属するとあるのに、「広宣流布」が「上行菩薩に付属された」とするのは法華経の曲解であると思います。


広宣流布鳩摩羅什の造語」


また「即身成仏」についても空海の即身成仏と最澄の即身成仏を比べて「現証」の面から最澄法華経の即身成仏を説くあたりは論拠に乏しく、妙一女も手紙で二度にわたって「不審」の質問をしています。ここでの日蓮の説明は文証よりも現証面での真言批判に終始していまして、説得力のある説明をしているとは言い難いでしょう(この点については後日別稿を考えています)。


日蓮には論点を短絡化する点も感じます。例えば「一念三千」についてです。


「一念三千は即身成仏の種子ではない」


一念三千を湛然の理解から摂取し、湛然以降の中国天台宗の教義の固定化から一念三千を理解しても、それは龍樹から智顗へと続く大乗思想の固定化であり、歪曲であるとしか私には思えません。


その意味で真に日蓮説を現代に有効なものとして解釈するためには、本来の大乗の思想から一念三千説を捉えなおさなければいけません。だからこそ私は龍樹に着目しているんですね。


「龍樹の現代的意義」


龍樹の思想から真に日蓮の一念三千説を捉え直す時に、初めて諸教が包摂されているさまを曼荼羅に見ることができると私は思います。日蓮は本来、最澄の後継者を自認していました。日蓮曼荼羅に諸教の包摂性と龍樹の空観の再定義を見ることができれば、そこから日蓮思想の再評価も可能であると思うんですね。


つまり私が日蓮を批判するのは日蓮を真の意味で現代において救済するためです。
そのためには日蓮の教義で無効なところ、批判されるべきところを全て洗い出さなければならないでしょう。



大石寺はそんなことをやる気はありません。自己改革を放棄することで成り立っている教団と言えます。
創価学会はそうなりたいと願いながら、他宗と妥協することができず、内外をごまかし続けている団体です。
創価学会も所詮大石寺の鬼子であり、両者は本質的に大して変わらないのです。お互いに口汚くお互いを罵り合うだけの、仏教とは似ても似つかない団体です。



私は寺にも住職にも依拠しません。
組織にも幹部にも依拠しません。
教団には日蓮を再考する誠実さがありません。彼らは現実を見つめようとしません。
それなら屹立した信仰者が個々に思索すれば良いのです。
私がその役を担えるなど思ってはいませんが、その端緒になれば私はそれくらいでよいと思います。私なんかより普遍性の高い意見を述べる人などたくさんいるはずですし、そんな方が出てくれば自ずと評価されるでしょう。


どんな教団にも依らず、私は真摯に文献を読んで考えたいだけです。
仏教における「我見」とは「自分勝手に仏教を解釈する」という意味ではありません。「個々の実在」と「法の実在」に固執することを本来、人我見・法我見と言うのです。
私は何にも固執せず、実在説もとらず、自由に考えていきたいです。
何を思おうと自由です。私を批判するのも自由です。誰かのように考える必要などありません。自身で真摯に文献を読み、その法門に即して考えればよいのだと思います。それこそが『唱法華題目抄』の「法門をもて邪正をただすべし」という姿勢なのではないでしょうか。