気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

他宗批判の根拠の無さ。







いつもみなさん、ありがとうございます。



さて私は、法華経を依拠にして他宗を批判することはもはや何の根拠もないと考えています。



日蓮の他宗批判は天台智顗の五時八教判を基にしています。
しかし漢訳経典のほとんど全てが釈迦の滅後に編纂されたものであり、その釈迦の直接の教えではないことが現代ではすでにわかっています。
釈迦の直接の言辞に比較的近いのは阿含経典部だけであって、法華経などの大乗仏典は釈迦の死後、数百年後に成立したものです。


ですから、そんな経典群に上下とか優劣があるはずがないんですね。
大乗経典には阿含の教えを継承したものも多く見られます。つまり大乗仏教とは形式化した仏教を超克しようと作られたものであることがわかります。


法華経の安楽行品を読めばよくわかるのですが、本来法華経は融和的な教えを説くものです。他宗を攻撃して非難するのではなく、むしろ全てを生かして、言い争いをしないことを説いているんですね。だからこそ日蓮系以外の各宗派でも法華経は尊重されています。曹洞宗道元などまさにそうで、彼の教えは法華経を根本にしています。



ところが、天台智顗の教えでは漢訳経典が全て釈迦の在世中に説かれたものであると誤解してしまい、五時八教判というものを経典の書かれた文字から考えてしまいました。
そもそも教相判釈というものは、仏教を説くものなら誰もが最初にやることで、智顗だけが特別というわけでもないのですが、日蓮はこれを一つの絶対的な基準としてしまったんですね。



そもそも「四十余年、未顕真実」の文は無量義経の言葉ですが、無量義経は中国で創作された偽経の疑いが強い経典です(無量義経サンスクリット原典は存在していません)。


法華経を至上とする考えは智顗の前には、南岳慧思に見られます。天台智顗の五時八教判は師である慧思の教えを受け、それを教相判釈として完成させたものなのでしょう。



私から言わせれば、創価学会大石寺が他宗を批判するのは、法華経の安楽行品の精神に違背していると思います。
それゆえ創価学会大石寺日蓮を本仏として釈迦を迹仏とするのは、釈迦を貶める行為であって、それは「仏教」とは言えないと思いますし、日蓮の心にも反していると私には思えてならないですね。