2006-01-16 時間ないので本格的に書くのは夕方
「ゲームは脳内を汚染する」・・・批判本が毎日新聞で高評価
(文藝春秋・1680円)
書評のルール違反は覚悟の上で、本書が大ベストセラーになって一人でも多くの人に読まれることを強く願いたい。なぜなら、本書は、日本が直面している社会現象、すなわち、キレやすい子供、不登校、学級崩壊、引きこもり、家庭内暴力、突発的殺人、動物虐待、大人の幼児化、ロリコンなど反社会的変態性欲者の増大、オタク、ニートなどあらゆるネガティヴな現象を作りだした犯人が誰であるかをかなりの精度で突き止めたと信じるからだ。
では、医療少年院勤務の精神科医という苛酷な現実の最前線に立つ著者が、犯人と名指ししたのは誰なのか? 結論から先に言おう、コンピューター・ゲームとインターネット(とりわけネット・ゲーム)である。
では、ゲームやネットのどこが広範な異常を引き起こしてしまったのか?
まず内容の問題がある。これは、小説、漫画、映画、テレビなどの既存大衆メディアすべてに言えることだが、享受者の自己愛を肥大化させるものほど人気を得るという法則がある。自分が全能の主人公になった気分を味わえるファンタジーが愛されてきた所以である。幼児のときから人間の心に残っている「良い存在」と「悪い存在」に二分する思考法をファンタジーが快く刺激してくれるからだ。
だが、これらのメディアは受動的なものであったがゆえに、受容者が現実とファンタジーを簡単に取り違えることはなかったし、人類の心にインプットされた暴力回避装置のピンが抜かれることもなかった。ところが、仮想現実への「参加」を可能にしたゲームは、受容者にこの敷居をいとも簡単に越えさせてしまったのである。
「攻撃を繰り出すためには、ボタンを押し続けなければならない。それは引き金を引く行為と同じである。(中略)破壊行為は、満足と報酬によってどんどん強化されることになる。暴力は、悪いことどころか、『楽しみ』になっていく。(中略)子どもや未熟な大人が、こうした暴力シーンになじむことは、『悪い敵』を攻撃してもいいという考えを強化し、それは、とりもなおさず、思い通りにならない存在は攻撃すべしという態度や考え方を強めてしまうのである」
しかし、著者がむしろ強く危惧するのは、じつは、ゲームのこうした内容そのものではない。一番恐ろしいのは、ゲームをしていると脳内にドーパミンが大量に放出されて快感が引き起こされ、麻薬と同じような効果がもたらされることだ。つまり、やめたくてもやめられなくなるのだ。「毎日長時間にわたってゲームをすることは、麻薬や覚醒剤などへの依存、ギャンブル依存と変わらない依存を生むのである」
とはいえ、ゲームが初歩的なとき、依存は深刻ではなかった。ところが近年、ゲームが飛躍的に進化して、現実とほとんど変わらなくなると、危険は増大する。
「ずっと飽きが来ないほどに、エキサイティングなものとなったゲームは、逆に極めて危険なものとなってしまったのである。なぜなら、ずっと飽きが来ないほどにわくわくし興奮するとき、脳で起きていることは、麻薬的な薬物を使用したときや、ギャンブルに熱中しているときと基本的に同じだからである。子どもにLSDやマリファナをクリスマス・プレゼントとして贈る親はいないだろう。だが、多くの親たちは、その危険性について正しく知らされずに、愛するわが子に、同じくらいか、それ以上に危険かもしれない麻薬的な作用を持つ『映像ドラッグ』をプレゼントしていたのかもしれない」
だから、ゲームも時間を決めてやればいいという議論は、麻薬でも少量ならかまわないという議論と同じく、成り立たないのである。しかも、戦慄すべきことに、ゲーム漬けになった脳は薬物中毒の脳と同じように破壊され、元には戻らなくなるという。
「依存や耽溺が起きるとき、脳のレベルで広く共通してみられることは、前頭前野の機能が低下していくことである。コカインやマリファナ、覚醒剤などの慢性使用は、前頭前野機能の低下を起こし、一層理性的判断を失わせ、危険に対して無頓着になっていく。(中略)その結果、『魂の抜け殻』になっていくのである」
また、長時間のゲーム耽溺で失われる時間の損失も深刻だ。家族や友人との接触の中で学習される人生体験がまったく積まれないことになるからだ。
「子どもの二度とない貴重な時間が、奪われていくのだ。(中略)だが、中毒状態になりかけの子どもは、もうそのことしか頭になく、いくら保護者が注意し言い聞かせても、自分で行動をコントロールすることは非常に困難なのである」
一時大騒ぎされたノストラダムスの大予言の解釈に地球崩壊は日本発だというのがあったが、アンゴルモアの大王というのがゲームだったとすれば、予言はまさに当たっていたことになる。子ども部屋からゲームやネットを取り除かない限り、亡国は必至である。
毎日新聞の書評欄ではトップ扱い、評者もかなり知名度が高い鹿島茂氏である。
今後の反響も大きかろう。
さて、私見を申しますが、私は「ゲーム脳」騒ぎのとき、批判側の論理のほうに説得力を感じた一人だ。しかし、「ゲームが脳内麻薬を、ドーパミンをうんたらかんたら」という議論を、最初から排除する必要はないし、してはいけない。
なんだかんだでテレビゲームの歴史は浅い。個人的にはシューティング・ゲームはたいそうヘタだが、世代的にも偏見はないので、ゲームの社会的認知はあったほうが望ましい。
しかし、だからといってそれに反するような医学的、科学的知見を圧殺してはならない。
時に「医学的合理性」「科学的知見」は、社会の理想形、望ましいと思っていた社会の在り方に相反する結論を出す。それは織り込めねばいけないリスクなのだ。
だから、この本をめぐる「科学的論争」の盛り上がりに期待したい。
逆に言うと、科学的論争以外の何ものをも不要だ。このまえ、とくに「ゲーム脳」を批判した論者は、この本の主張と以前とどこが同じで、どこが違うかを分析してほしい。
実際のところ鹿島氏は、そういう任に堪えられる人ではあるまい。
- 265 http://blog.livedoor.jp/nhbnews/bloglink.html
- 60 http://kakutolog.cocolog-nifty.com/kakuto/
- 56 https://www.google.co.jp/
- 26 http://d.hatena.ne.jp/keyword/鹿島茂?kid=54868
- 19 http://cgi27.plala.or.jp/kudoking/nhbnews/NHBnews.cgi
- 17 http://list.myblog.jp/data/list.php
- 15 http://d.hatena.ne.jp/keyword/西島洋介山
- 14 http://d.hatena.ne.jp/frigidstar/
- 14 http://d.hatena.ne.jp/keyword/岡田尊司
- 13 http://search.yahoo.co.jp/search?p=見えない道場&fr=top&src=top
http://www.scei.co.jp/corporate/release/pdf/050603.pdf
http://www.quiter.jp/news/36/001400.html
日本に限定して社会の様々な事象や変化の原因をゲームに求めるのは、その前提が破綻しているので議論にならんのです。
学問的知見から考えれば、現実とファンタジーの区別云々なんかよりもゲーム内競争の過熱による日常生活の崩壊の方を指摘すべきだし、指摘しているはずなんです。依存して長時間プレイしなければ勝利できない構造のゲーム(ネットゲームや一部のアーケードゲーム)に問題があって、一日のプレイ時間に制限をかけるべきだと僕は思っていますが、偏見でとまってしまってそういう議論をしようとする気配もない。論理的思考がないということは悲しいことです。
ゲーム以外のものの検証をせず、ゲームに全てを押し付けるだけのために成されてると感じます。
あと最近のゲームがおもしろいかどうかについては、ゲーム自体のデキ以外に、自分自身の変化、
これもかなり大きいのではないかと思います。食べ物の好みが変わっていくようなもので。
とりあえず、ゲーム側が大きく反論しなければ。とりあえずCESAあたりがそのへん頑張ってほしい。
もの凄い売上げになってるNintendoDSを牽引してる川島隆太教授の脳トレとか
一応プラスイメージのものもあるんで。
gryphonさんならもう読んでるかもしれませんが、「反社会学講座」というHPと書籍があります。大半はメディアリテラシーの話です。
http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson2.html
久々の、ニセ外国人(らしいよ)による本だしね。
ゲーム脳の話。
むつかしいコトはよくわからんが、「バカになるからゲームしちゃダメ!」と言われたらやだなぁ。「バカって言うほうがバカなんだぞー!」と抵抗します。
紹介お待ちしてます。
テトリスと大戦略と弟切草のそれぞれの場合で、脳を使い方は違うってのは誰でも容易に想像できると思います。ゲームに熱中している時の脳の働きをジャンル別に整理できたら、悪影響が排除できる以上によい方向でのゲーム利用を導けるはずなんですよ。すでにゲームをリハビリなどで医療にいかそうとの動きもあります。
ここであえて問題提起するならば、幼児期から小学校低学年の脳の発育途中におけるゲームによる刺激の是非(ジャンルにもよりますが)は、謙虚に考えないといけないかなと思います。