華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Hoochie Coochie Man もしくはオリエンタリズムということ (1954. Muddy Waters)


Hoochie Coochie Man

(I'm Your) Hoochie Coochie Man

英語原詞はこちら


The gypsy woman told my mother
Before I was born
I got a boy child's comin'
He's gonna be a son of a gun
He gonna make pretty women's
Jump and shout
Then the world wanna know
What this all about
But you know I'm him
Everybody knows I'm him
Well you know I'm the hoochie coochie man
Everybody knows I'm him

I got a black cat bone
I got a mojo too
I got the Johnny Concheroo
I'm gonna mess with you
I'm gonna make you girls
Lead me by my hand
Then the world will know
The hoochie coochie man
But you know I'm him
Everybody knows I'm him
Oh you know I'm the hoochie coochie man
Everybody knows I'm him

On the seventh hours
On the seventh day
On the seventh month
The seven doctors say
He was born for good luck
And that you'll see
I got seven hundred dollars
Don't you mess with me
But you know I'm him
Everybody knows I'm him
Well you know I'm the hoochie coochie man
Everybody knows I'm him



このブログを始めて間もない頃、まだ2〜3人しか読者がいなかった時期に、私はマディ·ウォーターズの「Catfish Blues (Rollin' Stone)」という曲のことを取りあげ、60年代も70年代も直接には知らない若輩者として誠に僭越ではあるのだけれど、「ロックの歴史の源流に位置する曲である」といった趣旨のことを書いた。そのマディ·ウォーターズの代表曲であり、ロックの歴史においてもひときわ重要な位置づけを与えられているのが、今回とりあげる「Hoochie Coochie Man」である。

ポピュラー音楽の歴史を語る上でこの曲が避けて通れないとまで言われていることには、いくつもの理由がある。「デルタ」と呼ばれるミシシッピ川の河口地域で、アフリカ系の人々の「民謡」として歌い継がれてきた「ブルース」と呼ばれる音楽が、初めてアンプを通して鳴り響いたのは、シカゴという大都市の喧騒の中でのことだった。街に負けないくらいの大きな音。大きな声。電気の力でそれが可能になったことで、ギターという楽器と生身の人間の声は初めて「ドラムの音に張り合える力」を手に入れたことになる。ボーカリストとギタリストに、ベースとドラムスのリズム隊を加えたいわゆる「バンド形式」の音楽が誕生したのは、そこからだった。それを最初にやってのけた人たちの1人が、マディ·ウォーターズであり、またいま1人が彼のためにこの曲を書き下ろした元ヘビー級ボクサーのベーシスト兼ソングライター、ウィリー·ディクソンであったのだ。



4/4拍子の3拍目までドラムだけが静かにビートを刻み、4拍目と次の1拍目で全ての楽器が「だららららっ!」と吠えたてる「ストップ·タイム」と呼ばれる表現技法は、リズム隊の登場で初めて可能になったことだが、それを最初にやってみせたのもこの曲だったと言われている。メロディにおけるブルーノートと呼ばれる独特の音階の使用、間奏におけるギターソロなど、「Hoochie Coochie Man」という曲の中にはその後のバンド形式の音楽の中で一般的になってゆくあらゆるスタイルが凝縮されている。ストーンズやクラプトンといった超有名ミュージシャンをはじめ、現在でも数多くのアーティストから幅広くカバーされ続けている所以である。

それほどの重要曲であるにも関わらず、私はこの曲を取りあげるにあたり、いつものように「自分の試訳」を準備することができなかった。正直に言って今の時点では、どんな風に訳したらいいのか見当もつかないからである。今回の記事はどうしても長くなりそうなので、あらかじめ「目次」を作っておくことにしたい。

「フーチー·クーチー」って何やねん

この歌の歌詞には謎めいた言葉がたくさん組み込まれているのだが、一番ハッキリさせなければならないのは、タイトルにもなっている「フーチー·クーチー」って何やねん、という問題だと思う。重要曲であるだけに、ここでテキトーなことを書くのは許されない気がする。

当初は、しかし、今は昔と違ってネットの時代なのだから、ちょっと調べたらすぐに分かるだろうとタカをくくっていた。ところが、あにはからんや、この「フーチー·クーチー」という言葉に関しては、調べれば調べるほどわけが分からないことになってきた。こんなパターンは、珍しい。

「フーチー」は男性器、「クーチー」は女性器のことを指すスラングだ、といったような解説を時々耳にするし、事実そんな風に説明している日本語サイトもあるのだが、私が自分で調べてみた感触では、その解説自体がどうやら「都市伝説」くさい。本当にそういうスラングがあるのだとしたら、日本と同じかそれ以上に英語圏にもたくさんあるエロ小説やエロ情報を集めたサイトはそうした言葉で溢れ返っていなければおかしいはずなのだが、「フーチー·クーチー」という言葉の「生きた使用例」は、「歌の文句」以外の場所にはどこにも見つけることができないのである。

確かに「フーチー·クーチー」は、「えろい語感」を伴った言葉ではあるらしい。だがそのえろさというのは、あくまで私の感触だけど、たとえば日本語で「んぱんぱする」と言った時の「んぱんぱ」というその響きに対して日本語話者が感じる程度のえろさと大して変わらないものなのではないか、といった印象を受ける。それほどえげつない言葉でもなければ、即物的な言葉でもない。極めて情緒的と言うか、イメージ的な言葉だという感じなのだ。

だからと言って「フーチー·クーチー·マン」を「んぱんぱ男」と「翻訳」するのが適当であるかと言えば、全くそうは思えないし、何と言うか、このブログはそういうブログではない。嘉門達夫とかそういう人がやっているブログであれば、「ネタ」さえできればそこで考えるのをやめてしまっても、誰からも文句は出ないだろう。しかしウィリー·ディクソンは「ネタ」としてこの曲を書いたわけではないはずなのであって、だとしたらその翻訳が「ネタ」になってしまうようであれば、誤訳のそしりを免れまい。確かに、↓この歌の歌詞みたいな日本語に移すことができれば、とてもスッキリして分かりやすいなとも、一方では思っているのだけれど。


イェイイェイ女到来 Bingo Bongo

「ベリーダンス」と「フーチー·クーチー·ダンス」

「フーチー·クーチー」という言葉をめぐって確実に言えることがあるとすれば、20世紀初頭のアメリカで「そういう名前のダンス」が流行していたことがあったらしいということ。ほぼそれだけである。(実はこのブログでも「藁の中の七面鳥」という歌の翻訳記事で、すでに一度登場している)。アメリカのどこで流行していたのか。どんな人たちの間で流行していたのか。いろんな「まとめ」やら「豆知識」的なサイトでそこまで説明してくれている例は稀だし、本当に知りたいと思ったらかなり専門的な領域にまで踏み込まねばならないことになる。

日本語のサイトでも見つけることのできる「フーチー·クーチー·ダンス」の「説明」の例として、「当時の黒人の間で流行していた卑猥なダンス」というものがあり、私も長い間、そういうもんなんだろうという風に、思い込んでいた。だがこうした「説明」は何も「説明」になっていないばかりか、よく考えてみるとそれ自体がひとつの「偏見」の流布にしかなっていないことに、気づかされる。

この「説明」が「フーチー·クーチー·ダンス」について教えてくれるのは、それが「黒人のダンス」であるということ、そして「卑猥なダンス」であること。以上の二点だけである。しかしそれが「卑猥」だというのは、誰の立場から見て「卑猥」だと言うのだろうか。「卑猥」という言葉はそれ自体の中に強い嫌悪感や拒否感を含んだ「他者を評価するための言葉」だが、どんなダンスであれ、それを踊る人は「楽しいから」踊るのだし、他者に嫌悪感を抱かせることを「目的」にしてダンスを踊るような人間は、人にケンカを売る時を別とすれば、どこにもいないはずである。それに最初から「卑猥」というレッテルを貼りつけるようなことのできる人間は、要するに最初の段階からそのダンスに対して拒否感や嫌悪感を抱いているわけだし、もっと言うなら「黒人」という名で呼ばれている人たちの存在そのものに対してまで嫌悪感や拒否感を感じているのではないかと、疑わずにはいられない。

いいか悪いかは別として、人のやることにそういう「決めつけ方」をする人たちというのは、世の中にいっぱいいる。しかしそんなのはおよそ「客観的」な意見でもなければ、「公平」な意見でもありえないのである。プレスリーが腰を振る動きだって、当初は「卑猥」だと言われたのだ。「フーチー·クーチー·ダンス」というのがどんなダンスであったにせよ、その現物を見もしないで「卑猥」などという攻撃的な言葉を平気で使えるタイプの人間に、歴史は絶対に味方しないはずだと思う。何はともあれ我々自身、その「フーチー·クーチー·ダンス」が実際にはどんなダンスだったのかということを、まずはとにかく「知る」必要があるだろう。

そう考えて英語版Wikipediaの「Hoochie coochie」という見出しのついた記事を改めて読み直してみたら、そこにはこんなことが書かれてあった。

The hoochie coochie (/ˌhuːtʃi ˈkuːtʃi/) is a catch-all term to describe several sexually provocative belly dance-like dances.
「フーチー·クーチー」とは、ベリーダンスのように性的に扇情的ないくつかのダンスのことを包括的に描写した用語である。

…ベリーダンス?

ベリーダンスという言葉には、覚えがある。確か小学生の時、ドラクエ3に出てくる「アッサラーム」という名前の、アラブ世界をイメージしたと思しき街で、「夜」に出会ったのである。ゲームの中で時間が経つと共に世界が夜になったり昼になったりするようなファミコンソフトは確かそれまでになかったはずで、ドラクエ3はそれを「売り」にしていた。それで「アッサラームの街」にはとりわけその設定を生かした形で、「昼の顔」と「夜の顔」が全然ちがう街であるという演出が施されていた。昼間に訪問してもこれといった特徴はない街なのだが、夜に訪問するとその時間にしか開いていない「いかがわしい店」があったり、「ぱふぱふ」をしないかと声をかけてくる女性が現れたりする。そして昼間は空っぽだった広い店に入ってみると、ステージらしき場所で三人の女性が体をゆらゆらさせている。それが私が「ベリーダンス」というものに出会った最初の経験だった。



「ベリーダンス」というカタカナの字面から、私はずっとそれを「Very Dance」なのだと思い込んでいて、「とっておきのダンス」とか「極めつけのダンス」という意味だろうと考えていたのだが、実際の綴りが「Belly Dance」だったことは、今回調べてみて初めて知った。直訳すると「腹踊り」である。割と、ショックだった。いくら何でも、踊っている人たちに対してあまりに失礼な呼称なのではないだろうか。

いやいやしかし、と私は思った。「腹踊り」という響きから、酔っ払いがヘソの周りにへのへのもへじを描いてステップを踏むような行儀の悪い宴会芸をどうしても連想してしまうのは、そのこと自体、私が日本語世界の住人であることから生じる、ひとつの偏見にすぎないのかもしれない。日本語の「腹踊り」にそういうイメージがくっついているからといって、それと「ベリーダンス」は全然「同じ踊り」ではない。だから例え直訳が「腹踊り」であっても、「ベリーダンス」という言葉自体には、それほど失礼な意味合いや軽蔑的な意味合いは、含まれていないのかもしれない。

…と思ったけれどやはり「Belly Dance」というのは「失礼な呼称」以外の何ものでもないと思う。「腹踊り」というのは明らかに「踊っている人間の自称」ではなく「それを見る側の人間からの他称」であり、しかもそれを「見ている人間」はその踊りに他のどんな要素があろうとも「腹」しか「見て」いないということが、この表現からは丸わかりなのである。大体、「ベリーダンス」というのはそもそもアラブ世界の踊りなはずなのに、それに最初から英語の名前が与えられているというのは、どういうことなのだ。要はその踊りを初めて見た英語圏の男たちが、自国の文化の中ではヘソを出して踊る女性の姿などというものには出会えないから、そこばっかりを眺めていてそのことしか残らなかった結果として、つけた名前が「腹踊り」という、それだけのことだったのではないだろうか。そこに「踊りを見せる人自身の気持ち」が含まれているようには、到底思えないのである。実際、いわゆる「ベリーダンス」は、アラビア語では「ラクス·シャルキー (東方の踊り)」と呼ばれているそうであり、ことさらに「腹」を強調するような言葉は原語の中には全く含まれていない。
ベリーダンス - Wikipedia

…そしてここまで書いてきて私はようやく自分が脱線しかかっていたことに気づくのだが、そうなのだ。「ベリーダンス」というのはそもそも「アラブの踊り」であり「中近東の踊り」なのである。それが「フーチー·クーチー」という言葉になると、どうして「黒人文化」と結びつけて語られることになるのだろう。私は今まで「フーチー·クーチー」という言葉は、マディ·ウォーターズが生まれ育ったミシシッピ·デルタのアフリカ系の人々の文化の中から生まれてきた言葉であり、かつ「部外者」には絶対に理解できないような「深み」みたいなものをたたえた言葉なのではないかと思い込んできた。そしてそんな風に説明している本やらライナーノーツやらにも無数に出会ってきた。だが、そうした「作られた先入観」に反し、「フーチー·クーチー」という言葉は存外に「新しくて人工的な言葉」なのではないだろうか。そしてそれが「黒人文化の中から生まれた言葉」であるという世間一般に流通する言説とは裏腹に、実は「フーチー·クーチー」という言葉は「ベリーダンス」という言葉がそうであったのと全く同様、その「黒人文化」の「部外者」によって作り出された言葉だったのではないだろうか。そんな疑問が、私の中に頭をもたげてきたのである。

1893年にシカゴで起こったこと

調べてゆく中で私が突き当たったのは、コロンブスによるアメリカ大陸「発見」の400周年を記念して開催されたという、1893年の「シカゴ万国博覧会」にまつわる記録だった。たかが歌一曲を翻訳するのにこんな歴史大冒険を繰り広げる予定は当初の私には全くなかったのだが、どうしてもこの19世紀的なイベントのことに触れておかねばならないと思わされたのは、アメリカで「ベリーダンス」というものが最初に公開された場所がこのシカゴ万博の会場だったという事実と、さらにこのイベントが半世紀後に「シカゴ·ブルース」という音楽を生み出すイリノイ州の工業都市に与えた歴史的な影響とを踏まえることなしに、「フーチー·クーチー」の謎は解けそうにないということが、分かってきたからである。

  • シカゴ万博の会場で撮影されたという、「ベリーダンス」を踊る女性の写真。1893年。

ネット上の記事から概観することのできるこの「シカゴ万国博覧会」の実態は、おおよそ以下の通りである。

1871年のシカゴ大火から目覚ましい復興を遂げたシカゴ市は、1890年にアメリカ政府から博覧会の開催都市として指名され、ミシガン湖畔の67万坪以上に渡るジャクソン公園付近を3年がかりで造成し、展示のためのCourt of Honor地区と娯楽のためのMidway地区からなる広大な会場に約200の建物が建造された。

メイン会場となるCourt of Honor地区には、美術館、連邦政府館、園芸館、工芸館、農業館、機械館、管理棟など、アメリカの繁栄を示すにふさわしいと考えられた豪華な新古典主義建築の建物が建てられ、アメリカを中心に、各国からの工芸、美術、機械などがテーマごとに展示された。建物が白一色に統一されていたことと白人文明に対する誇りから「ホワイト・シティ」と通称された。アメリカの技術力を誇示するため電気が多用された点と、女性の企画運営による「女性館」が設置された点が特徴的だった。一方、遊興を目的としたMidway地区には世界初の巨大観覧車「フェリスの車輪」など大型の遊具が設置されたほか、国際色豊かな店が並び、好評を得た。そのほか、コロンブスの航海に使われた帆船のレプリカ、ヤーキスの大望遠鏡、ニューヨークと結んだ長距離電話、動く歩道など、当時の最先端技術が披露された。

参加国は世界の独立国39と属国43を数え、(それ以前の万博同様)西洋文明の先進性と植民地政策の正当化が誇示された。19世紀にアメリカが開催した博覧会中最も規模が大きく、入場者数は当時のアメリカ国民の人口の約半数にのぼった。

アメリカの繁栄を誇示する華やかな博覧会の陰で、多くのものが排除・無視された。19世紀末のアメリカは急激な工業化により新興成金が台頭し、貧富の差が極端に拡大していた。万博に象徴される富裕層の並み外れた豪奢さに対し、労働者、先住民、有色人種は過酷な状況に置かれていた。シカゴにはスラム街が広がり、不衛生極まりない環境に暮らす庶民たちは貧困と伝染病に苦しんでいた。そうした中、万博会場だけが美しく整備され、「純粋な白人」のみで構成された万博委員会は人種差別を公とした。黒人団体が抗議したが、奴隷解放宣言から30年経ってなお、政府は委員会の判断を承認した。シカゴの不動産王の妻が委員長を務める女性館への黒人の参加も無視され、黒人女性活動家らが「万博に黒人のアメリカ人がいない理由(The Reason Why the Colored American Is Not in the World's Columbian Exposition)」という抗議の小冊子を作り、会場で販売した(当時Colored Americanはアフリカ系アメリカ人を指した)。先住民の展示は野蛮なインディアンを印象付けるような感傷的なものに限っており、そのことに抗議したスタッフは解雇された。


シカゴ万国博覧会 (1893年) - Wikipedia

コロンブスの新大陸発見400周年を記念して開かれたこの万国博には、ホワイト・シティとミッドウェイ・プレザンスという2つの会場があった。前者は文字通り「白い都市」、すなわち欧米の「文明」の優越性を見せつけるような産業や文化の展示から成っていた。後者には非西欧世界のパビリオンやアトラクション、植民地の展示が社会進化論的な人種イデオロギーを強烈に反映させる仕方で並んでいた。

学問のアルケオロジー

…読んでいて私はどんどん腹が立ってきたのだったが、こうした「博覧会」という「イベント」が当時の支配者たちのどのような「思想」にもとづいて企画されていたものだったのかということは、以下に引用させて頂いたリンク先の文章が端的に物語っていると思う。

1889年、フランスの首都パリで万国博覧会が開催されました。3240万人もの総入場者を集めたこの万国博覧会では、エッフェル塔が完成し、電気技術がパリの夜空を彩りました。大小様々なパビリオンでは、近代産業が生み出した圧倒的な量の商品や、蓄音機や電話などの最新のテクノロジーも紹介され、訪れた大衆は産業文明の結集に驚嘆し魅了されたと言われています。しかし、このパリ万博を有名にしたのは、エッフェル塔や近代産業を象徴するパビリオンだけではありませんでした。パリ万博では別な催しも開催され、それが後の西洋各国の万国博覧会に引き継がれていったことでも有名です。その催しとは、生きた「人間」をパビリオンとして展示して見せ物にすること。後に「人間動物園」と総称されることになるこの催しは、パリ万博から開始されました。

パリ万博の植民地パビリオンでは、セネガルやニュー・カレドニア、仏領西インド諸島、ジャワ島などフランスの植民地から、様々な民族集団がフランスに連行され、柵で囲われた模造の植民地集落で昼も夜も生活させられました。彼らは「未開人」として、本当は自分達に馴染みのない儀礼や振る舞いを観客の前で演じることを強要され、彼らの人種的・民族的な「劣等性」が訪問者の目に見えるかたちで強調されることになりました。このような演出は、例えばサーカスのように興行的な受けをねらったのではなく、当時の西洋の民族学や人類学の中で、そして当時の西洋の人々の心の中で、大きな位置を占めていた「社会進化論」の学術的な過程に、彼らを位置づけることが大きな目的とされていました。

社会進化論とは、ダーウィンの自然淘汰の考え方を社会へと応用させた人種差別的な学術的議論のことです。スペンサーらによって提唱され、帝国主義期の西洋社会で広く普及しました。社会進化論においては、人間の社会もまた自然界のように、「優れた人間」や「優れた社会」が「劣った人間」「劣った社会」を淘汰していくと考えらました。この考え方では、劣った未開人の社会から漸進的に人間社会の進歩が起こり、ついに最も優れた西洋社会が出現したと捉えられています。したがって、西洋人の人種的優位は決定的なものであり、ジャングルのほとりで暮らす黒人や黄色人種は白人に知能などの面で追いつくことはできないだろうと考えられました。

…この社会進化論の考え方は、帝国主義国によるアフリカやアジアへの侵略を正当化するイデオロギーとして、しだいに政治的な利用がはかられるようになります。「人間動物園」は、国家が「未開社会」のスペクタクル的な展示を担うことによって、そしてそのスペクタクルをエッフェル塔や電気技術などの文明の象徴と対置させることによって、社会進化論の一つの極限形態を表したのではないかと考えられます。

実際、この1889年のパリ万博を皮切りに、フランス・アメリカ合衆国・イギリス・イタリア・ベルギー・ポルトガル・デンマーク・オランダなどの西洋諸国、そして東洋の新興帝国・日本までもが、自国の博覧会や他国の博覧会のパビリオンに植民地の人間を「出品」しています。植民地の人間が出品された博覧会のうち代表的なものだけでも、1893年のシカゴ万博、1900年のパリ万博、1901年のバッファロー博覧会、1903年の内国勧業博覧会、1904年のセントルイス万博、1907年の東京勧業博覧会、1908年の仏英博覧会、1909年の大英帝国国際博覧会、1910年の日英博覧会、1911年の戴冠記念博覧会、1924年の大英帝国博覧会、1931年の国際植民地博覧会、1940年のリスボン植民地博覧会などが挙げられます。

…特に他国より群を抜いて大規模な人間動物園を開催したのは、アメリカ合衆国でした。1893年のシカゴ万博では、アメリカの原住民、アフリカの黒人とアメリカの黒人が展示され、彼らの「文明化」の程度を比較するという展示が行われています。さらにシカゴ万博では、開催地の中心地に近いところにゲルマンやケルトのパビリオンが、少し離れたところにトルコやアルジェリアの集落が、一番離れたところにアフリカの黒人やアメリカ原住民の集落が建てられ、「未開」から「文明」へという進歩観に立脚した配置が採用されました。1901年のバッファロー博覧会では、各パビリオンが「野蛮な暗い色」から「繊細な明るい色」へと徐々に変化していくという色彩の変化が採用され、赤褐色で黄土色な植民地集落のパビリオンでは、アメリカ・インディアンや黒人が展示され、さらに、キューバ人集落、エスキモー集落、ハワイ人集落、日本人集落なども設置されました。

…つまり、彼らを「文明度」に応じて階層分類化された序列に位置づけることによって、「アメリカの統治が彼らに文明化の機会を与えていること」を演出し、帝国主義的なイデオロギーの発揚がはかられたわけです。実際、当時の博覧会の様子を撮影した写真では、アメリカ人達が双眼鏡を使って、これらの「展示物」を「野蛮」と「優越感」のまなざしで見ていたことが写されています。


人間動物園 | 齊藤貴義の唯物論

…「フーチー·クーチー·ダンス」の「原型」をなしていると思われる「ベリーダンス」という踊りは、こうした文脈の中でアメリカの白人を対象とした「見世物」としてシカゴ万博の「呼び物」にされたわけだが、ありとあらゆる戦争や虐殺に関する記録を読まされた時以上に、こうした記録には、いっそうおぞましい読後感が残る。それはこうした「イベント」、それもそれを企画立案する人間たちの頭の中では「楽しいイベント」というものは、基本的に「平和な時代」に行われるものであり、ともすれば「平和の象徴」とさえ見なされているという事実によっているのだと思う。つまり我々の生きるこの世界において「平和」という言葉は「何」を意味しているのかということを、こうした歴史は告発しているように思えてならないのである。少なくともこうしたイベントを「楽しんで」きたヨーロッパやアメリカ、そして日本の人間たちにとって、「平和」とはすなわち「そういうもの」を意味していたわけだし、その人間たちが戦争を起こす時には常に「そういう平和」を「守るため」という大義名分が動員されたわけなのだ。付け加えて言うならば、2020年に予定されているという東京オリンピックなるものを私が絶対認める気持ちになれないのは、それを開催しようとしている人間たちの「動機」が、前世紀や前前世紀のこうしたイベントの開催者たちと何も変わらないところに存在しているからに他ならない。

「オリエンタリズム」ということ

「フーチー·クーチー」という言葉、「ベリーダンス」という言葉、それらのルーツをさぐる中で遭遇することになった1893年シカゴ万博の記録、これらを読み進める中で私の頭の中に浮かびあがってきたのは、「オリエンタリズム」という学術用語だった。「オリエンタリズム」とはもともと、西洋史や美術史の世界で「東方趣味」「東洋志向」という意味合いを持って使われてきた言葉なのだが、1978年にパレスチナ出身のアメリカの批評家、エドワード·サイードが「オリエンタリズム」という同名の本を出版し、この言葉に象徴されてきた西洋世界から東洋世界への「まなざし」のあり方を批判の対象として以来、今ではそのサイードが使った意味で、すなわち西洋文明と植民地主義への批判を込めた言葉として、使われることが多くなってきている。

Wikipediaの「オリエンタリズム」という項目は、サイードによる批判と考察の内容を、私が自分でやるよりもかなり上手に要約してくれている。引用が多くなりすぎていることにそろそろ気が引けだしているが、抜粋して紹介したい。

サイードによれば「オリエント(東方・東洋)」とは、二分法から生まれた、幻想・想像上の非現実的世界である。オリエントに対する見方や考え方を「オリエンタリズム」と言い、それは長期に渡って継承されてきた思考様式を指す。

伝統的に西欧で継承されてきた「オリエンタリズム」という概念は、東洋人のイメージとして、好色・怠惰、自分の言語や地理等を把握できず、独立国家を運営もできず、肉体的にも劣った存在というイメージを作る。こうしたオリエンタリズムはロマン的・異国情緒的・軽蔑的にすぎず、それは西欧(オクシデント)の文芸や絵画上の流れの一つだった。サイードはオリエンタリズムを、オリエントに対するヨーロッパの思考様式であると同時に、支配の様式でもあると見なす。すなわち「知」と「力」が結合して、オリエンタリズムは支配の様式にもなる。

サイードによればオリエンタリズムの根底には、オリエント(東方)とオクシデント(西方)との間に「本質」的な違いが存在するのではないか、という漠然とした見方がある。そうした曖昧な概念が、一定のイメージや図式等によって表現され続けるうちに、あたかもそれが「真実」であるかのように思い込まれ、それが長い間に人間の心理に深く浸透し強化されて、オリエントへの特定の見方や考え方が形成され、次第に独り歩きを始めるに至った。その結果、オリエンタリズムから自由に現実を見ることはできなくなる。

こうしたサイードの書物『オリエンタリズム』は、東方に対する見方を一変させる「事件」だった。その結果、一方では西洋式近代化への懐疑が起こり、他方では東洋と西洋の相違・類似に関する研究や異文化融合論、人類共生への模索等が議論されるに至った。

…オリエンタリズムの一種としては、「東洋」、あるいは自らよりも劣っていると認識される国や文化を、性的に搾取可能な女性として描く、といった傾向も指摘されている。具体例としては、イメージの一人歩きしているハレムや、ゲイシャ、そして、比較的最近の作品では『ミス・サイゴン』や、ディズニー映画の『ポカホンタス』などにもオリエンタリスティックな視点が見られる。またイスラム過激派の中には、非イスラム教徒の女性に対して同様の視線を向けることがあり、これはオクシデンタリズムと呼ばれる。

…サイードによるこうした批判を踏まえるならば、「ベリーダンス」がアメリカで初めて人々に知られる機会となったという1893年のシカゴ万博は、典型的な「オリエンタリズムの祭典」だったと言うことができるだろう。そして彼が「オリエンタリズム」という本を書いたのと同じ年に生まれた日本人である私自身が、子どもの頃から「世界」に対して作りあげてきたさまざまなイメージも、捉え返してみるならば、サイードの言うような「オリエンタリスティックな偏見」で満たされていたことに、気づかされずにはいられない。

私が子ども時代を過ごした1980年代は「平和な時代」だったと言われていたし、今でも言われているが、「第三世界」と呼ばれる地域で生きる人々に対するステレオタイプな偏見や見下しというものは、今よりももっと露骨な形で存在していた。私の親の世代が子どもの頃にテレビで見たという、白人がアメリカ先住民を虐殺する様子を「娯楽」として描いた西部劇などは、さすがに影を潜めていたように思う。しかしスピルバーグが監督した「インディ·ジョーンズ」シリーズなど、「白人の叡智と勇気」が「未開」を「征服」することをストーリーの骨格に据えた差別的な映画や娯楽作品は、それこそ大手を振ってまかり歩いていた。

上述した「ドラクエ3」に出てくる世界地図。「キン肉マン」の「超人オリンピック」に出てくる、世界各国の「イメージと特徴」を踏まえた無数の超人たち。「ジョジョの奇妙な冒険」の第3部で展開される、承太郎たちのエジプトへの旅。そうした物語に触れることを通して、子どもの頃の私は自分があたかも「世界を知った」かのような満足感を覚えていたものだったけど、今にして思えばそうした作品に描かれていた「世界」の姿というのは、ことごとくが「オリエンタリズムの色眼鏡」を通した「世界の姿」でしかなかったことに、さまざまな点で気づかされる。ともすれば、私がそれらの作品を通じて身につけたと信じ込んできた「世界」に対する知識やイメージの全ては、「偏見の体系」にすぎなかったのではないかとさえ、思えてくるぐらいである。そしておそらく、それは実際にもその通りなのだ。

サイード自身も書いているように、「オリエンタリズム」がまかり通っている世界において「オリエンタリズムから自由に現実を見ること」は、とても難しい。(「オリエンタリズム」というものが「非西洋的な世界に対する西洋人の偏見」であることを踏まえるならば、東洋人である私たち自身が「オリエンタリズム」という言葉を使うのは、用語法としてはおかしな話になるのかもしれない。しかし私がここでこの言葉をあえて使うのは、日本人の中に存在している「非日本的な世界」の人々に対する偏見というものが、それと「別種」のものであるとは到底思えないからである)。私が子どもの頃に好きだった「ふしぎの海のナディア」というNHKのアニメは、日本のアニメの歴史の中で初めて「黒人の少女」を主人公に据えた作品であり、子ども向けの文化の中に脈々と存在してきた人種差別や民族差別、さらに性差別をも打ち破ってゆきたいという「作った人たちの意図」があったことは、疑いえない。しかしそうした人たちの「良心的な意図」にも関わらず、あの作品に貫かれていたのはやはり「科学技術」による「未開」の征服というステレオタイプの「洗練された形」にすぎなかったように今となっては思うし、また主人公の組み合わせが「黒人の少年と白人の少女」ではなく「黒人の少女と白人の少年」でなければならなかったということも、オリエンタリズム批判の立場からするならば明らかに差別的な意味を持った「設定」なのである。そしてこの「ナディアとジャンの物語」は、奇しくも「1889年のパリ万博」の会場で2人が出会うシーンから始まることになっている。



それならば「差別的でない物語」というものには、一体どこに行けば出会えるというのだろうか。ひょっとしてそんなものは「ない」のかもしれない。私は最近とみに、そんな気持ちにとらわれつつある。我々を取り巻く世界はそれぐらい差別で溢れているし、我々自身の中に植えつけられた差別意識というのはそれぐらい根深いものだからである。(そしてこの「我々」という言葉の中に「誰から誰」を含ませればいいのかという問題にさえ、私は「自分の答え」を見出せずにいる)。それにも関わらず、差別の現実と命がけで戦い続けてきた人たちは、世界の歴史の中に常に無数に存在してきたし、また今もしているのであって、この世界に「希望」や「真実」と呼びうるものが存在するとするならば、その中にしかありえないのではないかと私は思う。サイードによるオリエンタリズム批判は「人類共生への模索」のためにこそ必要だったという趣旨のことが上述の引用の中には書かれていたが、もしも我々が本当に「世界の人々と共に生きる未来」を築きあげようとするならば、そのためには何よりも自分たち自身の中にある「オリエンタリズムの色眼鏡」を「外す努力」から始めてゆくことが必要なのではないだろうか。それだけは、間違いなく言えることだと思う。

上段で私は何の考えもなしに嘉門達夫という人の名前に触れたのだったが、大阪府吹田市で生まれ育ったこの人の「原風景」は1970年に開催された「万博」の中に存在したということを、昔ファンだった私は何度も耳にしてきた。「替え歌」などのギャグ音楽でばかり有名なこの人なのだけど、実は人をしんみりさせるようなシリアスな曲もけっこう書いていて、そのほとんどは「子どもの頃の思い出」をテーマにしている。私がそれを好きだったのは、そこに描かれている風景がある程度までは自分自身の子ども時代の風景と重なっていたからだと思うし、「万博」が歌いあげた「夢の未来」の展望というものが、一世代後になって生まれた関西人である私たちの中にも一定の「実感」を伴って息づいていたからなのではないかという気が、今ではする。「万博の思い出」を親や親戚から聞かされずに育った人間というのは、同世代の中にはほとんどいないのではないかとさえ思う。

けれども「美しくなつかしい時代」の象徴として語られるその「1970年大阪万博」も、その本質はパリ万博やシカゴ万博の系譜をそのまま引き継いだ「オリエンタリズムの祭典」に他ならなかったわけてあり、かつその当時の世界においても、ベトナムをはじめ至るところで戦争は継続していた。その矛盾を覆い隠すためのお祭り騒ぎが、「万博」だったわけだ。「人類の進歩と調和」というそのスローガンは、まやかし以外の何ものでもなかった。21世紀を生きる我々が「人類共生の未来」を本気で築いて行こうとするなら、そうしたまやかしの自己満足をこそ、かなぐり捨てる必要があるだろう。そして自分たちの生きてきた時代が「美しく平和な時代」だったという「物語」と、訣別する勇気を持たねばならないだろう。「自分の青春に決着をつける作業」として私がこのブログを書き続けているのは、取りも直さず自分自身が「未来を生きるため」に必要な作業だからに他ならない。子どもの頃にもう二度と見ることはできないと言われて育った「太陽の塔」の内部が48年ぶりに公開されたというニュースを、私はそんな気持ちで眺めている。あの頃あれほど中に入ってみたいと思いこがれた場所ではあるけれど、私が実際にそこに足を踏み入れることは、これから先もやはりないだろう。


明るい未来 嘉門達夫

「フーチー·クーチー·ダンス」再考

あまりに長い脱線になってしまったが、「フーチー·クーチー·ダンス」に話を戻さなければならない。海外サイトの語るところを要約するならば、シカゴ万博で「全米初公開」となった「ベリーダンス」は入場者の間で大変な評判を集め、シカゴを発信地に各地において、同様のダンスがショーの呼び物とされる現象が拡大してゆく。その中で万博閉幕から半年後には「Coochie Coochie(クーチー·クーチー)」と呼ばれるダンスが生まれ、一年後には「Hoochie Coochie(フーチー·クーチー)」と呼ばれるダンスが成立していたことが、文献資料からは確認されている。

その「クーチー·クーチー」という言葉がどこから生まれたのかという問題なのだが、そもそも「ベリーダンス (腹踊り)」というダンス名自体がシカゴ万博以降に定着した呼び名なのだそうで、「リトル·エジプト」という芸名の女性が万博会場で踊っていたとされるそのダンスには、当初は「決まった呼び方」がなかったらしい。だもんで万博開催中においては「muscle dance (筋肉踊り)」とか「stomach dance (胃袋踊り)」とかいった好き勝手な呼び方がされていたのだが、そうした「仮称」のひとつに「Kouta-Kouta (コウタ·コウタ)」という呼び方があったらしいのである。

この「コウタ·コウタ」は万博開催の前年あたりからニューヨークで一定の知名度を博していた同様のダンスの呼び名だったというのだが、それをアメリカに紹介したのはインドと極東でダンスを学んだという触れ込みの国籍不明の女性だったのだという。だとしたら「コウタ·コウタ」というのは日本語の「小唄·小唄」だったのではないかという可能性までが浮上してくるわけだが、我々が自ら知るごとく、日本の伝統文化の中に「ベリーダンス」みたいな踊りは存在しない。もっともそれを「見る側」の当時のアメリカ人(男性)にとっては「エキゾチック」でさえあれば「何でも良かった」わけだから、そのオリエンタリズム志向を刺激する「商品名」にどさくさに紛れて「変な日本語」が入り込むことは、可能性として排除できないことであるようにも思われる。

それはともかくとして「Kouta-Kouta」は「kutchy kutchy (クッチー·クッチー)」に転訛し、「クーチー·クーチー」を経て一年後には「フーチー·クーチー」に変わっていた。元々の語源が何であれ、その頃にはこの「不思議な響きの言葉」は、ダンサーの女性が身体を揺らす様子の擬態語的な表現として受け止められていたのが実態だったのではないかと思う。「Hooch (フーチ)」という言葉には「密造酒」という意味、そして「Cooch (クーチ)」という言葉には俗説通り「女性器」という意味が実際に存在しているらしいのだが、それらは飽くまで「音が偶然似ただけ」の話であって、「フーチー·クーチー」という言葉の「禍々しいイメージ」をかき立てるのに幾分の役割は果たしているのかもしれないが、そこから発生した言葉というわけでは明らかにない。

同時にこの頃には、万博会場で踊られていたという「ベリーダンス」から「アメリカ独自の発展」をとげた、「フーチー·クーチー·ダンス」の実体と呼ばれるべきものも形成されていたはずである。いくらそのルーツが中近東にある踊りだとはいえ、酒場で実際にそれを踊るのはアメリカ人女性なのだ。当然にもその内容は客のアメリカ人男性の「好み」に合わせて変化して行ったはずだし、その変化の方向性は「よりエロく」「より淫らに」「より派手に」「より大胆に」というものにしかなりようがなかったはずである。「ベリーダンス」がその原型もとどめないようなものにまで変質してゆくのに、大した時間はかからなかったに違いない。

さらにここにおいて「アメリカ人」という言葉は実に多くの要素を「隠蔽」する役割を果たしているのだが、「見る側」の男たちのオリエンタリズム的な興味や関心の指向性として、「フーチー·クーチー·ダンス」は「有色人種の女性」によって踊られるから「こそ」カネを払ってでも見ようと思う、あるいは興奮するという側面が、間違いなく存在したはずなのである。当時においてアラブ系の人たちはアメリカにほとんどいなかったから、その「需要」を満たすための「役割」は必然的に(西)アフリカにルーツを持つ黒人女性たちによって担わされることになっていった。かくして「フーチー·クーチー·ダンス」は「黒人文化」であるという「神話」が「実体」を伴って形成されてゆくことになるわけなのだが、ここまで見てきたようにそれはもともとアフリカ系アメリカ人の文化とは何の関係もないところから生まれた「新しい踊り」だったわけだし、むしろそれを生み出したのはアメリカの「支配者」としての立場をなしていた白人男性のオリエンタリズム趣味だったと言った方が、実態としては正確なはずである。

とまれそんな風にして「作り出された」フーチー·クーチー·ダンスは20世紀初頭に隆盛を極め、そのダンスの踊り手の女性は「Hoochie-Coocher」と呼ばれることになってゆく。大昔に翻訳した「Minnie The Moocher」という歌に出てくるミニーさんという女性の職業がこの「フーチー·クーチャー」だったわけだが、その実態は「ストリッパー」だったということが、英英辞典には露骨に書かれている。一方、そうした「夜の世界」から離れた領域でもこのダンスのイメージは日増しにポピュラーなものとなってゆき、1929年に公開された「ミッキーマウスのカーニバルキッド」という短いアニメ映画には、ミッキーのライバルと思しき移動サーカスの座長のオスネコのキャラクターが、ステージの上で「フーチー·クーチー·ダンス」を踊るシーンが登場する。注目すべきはロバート·ジョンソンが健在だったはずのこの年代において、そのシーンのバックに流れているのは明らかに「中近東の音楽」であり、「ブルース」を思わせる要素は一切見て取ることができないという事実である。



Hoochie Coochie Dance

そしてそれからさらに四半世紀を経て、アメリカ化された「ベリーダンス」の発祥地であるシカゴの街から、「(I'm Your) Hoochie Coochie Man」と銘打った「全く新しい音楽」が、黒人男性であるマディ·ウォーターズとウィリー·ディクソンの二人によって世に送り出されることになるわけなのだが、ここまで「フーチー·クーチー」という言葉の歴史を追ってきた我々には以下のような疑問が生じる。

  • 「フーチー·クーチー」はアフリカ系アメリカ人の伝統や文化とは全く無関係なところから作り出された人工的な英語であり、マディ·ウォーターズもウィリー·ディクソンも「そういうダンスがある」ということは知っていただろうが、白人が作り出したその言葉の「意味」などというものは、知ったことではなかったろうとしか思えない。だとしたら2人は「フーチー·クーチー」という言葉に、「どんな意味」を込めていたのだろうか。
  • 「フーチー·クーチー」と呼ばれるダンスと「ブルース」と呼ばれる音楽の間に、「共通点」は全く存在しない。その2つをあえて「結びつける」ことで、2人は「何」を表現しようとしたのだろうか。
  • 「フーチー·クーチー」はそもそも女性によって踊られてこそ「値打ち」があるとされてきたダンスのスタイルであり、広義にもこの言葉は「女性」を形容するための用語として使われてきた。そこにおいてマディ·ウォーターズという男性が自分のことを「フーチー·クーチー·マン」であると宣言しているこの歌は、一体どのようなことを主張しているのだろうか。

...結局我々は、「Mannish Boy」を翻訳した時にマディ·ウォーターズに対して発した同じ問いを、もう一度繰り返す以外にないようなのである。「おれはフーチー·クーチー·マンだ」と高らかに歌いあげるこの歌において、彼は最終的に自分のことを「何」だと言っているのだろうか?

「フーチー·クーチー·マン」とは何者か

オリエンタリズムの影響力が「オリエント」そのものにまでひろがっているという事実には、たしかに我々を慄然とさせざるをえないものがある。アラビア語(そして疑いもなく日本語やインド諸方言、その他の東洋語)で書かれた本や雑誌には、アラブの手になる「アラブの心」「イスラム」、その他もろもろの神話についての二流の分析が充満している。

...サイードの「オリエンタリズム」には、こんなくだりがある。オリエンタリズムとはもとより西洋世界の人間たちによる非西洋世界への「偏見の体系」であり、もっと言うならば「野蛮な人間どもはかく振る舞うべし」という「願望の様式」に他ならない。そして彼らが頭の中に思い描く「オリエント世界」の姿というのは、完全にそうした偏見や願望にもとづいた「空想の産物」であり、実際には地球の上のどこにも存在していない「虚構の世界」なのである。

それにも関わらず、そうした偏見や願望の対象とされる「オリエント世界」の側の人間が、逆に彼らのそうした偏見や願望に合わせて自らを形成してゆく「自己オリエント化」とも言うべき現象が、現実の世界では往々にして起こりうる。それは基本的には、パリ万博で「人間動物園」の「見世物」にされた人たちが「本当は自分達に馴染みのない儀礼や振る舞いを観客の前で演じることを強要された」のと同様に、「見る側」「支配する側」の人間たちから強制された結果として、起こるのである。だが自らを「オリエント化」させてゆく「オリエント世界」の側の人間の主観の中では、それは自分の意志と願望にもとづく選択なのだということが固く確信されている場合も、決して少なくはない。

...何だか小難しい言葉が並んでしまったが、日本人である我々が自分たち自身のありようを振り返ったなら必ず思い当たることが見つかるような、「極めてよくある話」を私はしている。例えばいつだったか、何かのインタビューの中で坂本龍一が喜多郎のシンセサイザー音楽のことを「オリエンタリズムに迎合しているような感じがして好きじゃない」と批判しているのを読んだことがあるのだけれど、要はそういう話である。西洋人受けしそうな「エキゾチックな日本のイメージ」をことさらに強調してみせる喜多郎の音楽の方向性が許せない坂本龍一の気持ちというものが私にはよく分かるし、一方で喜多郎が「戦略」という言葉でそれを自己合理化する気持ちも、「理解」することはできる。好きには絶対なれないけれど。

私の郷里にある東大寺の門前町では、今日も街の皆さんが一致団結して、「日本らしい風景」「奈良らしい風景」の演出に勤めているはずである。実際には「そんな日本」や「そんな奈良」は奈良県全域の中でもその一角にしか「成立」していないわけで、本当は「奈良」からも「日本」からも極めて「浮いた風景」であるわけなのだけど、何せ私の郷里は「街をあげてオリエンタリズムに迎合すること」を「伝統」として「選択」し続けてきた街なのだ。そしてその陰に隠れて様々な差別や暴力的な因習をも「変えてはならない伝統」であると主張する人間たちが、結局あの県では一貫して「力」を持っている。なつかしいけど、肯定する気持ちにはなれない。それが私が自分の郷里に対し、持ち続けている感情である。「誇る」気持ちには、どうしてもなれない。

「明治の知識人」と呼ばれる人間たちの多くは、西洋世界からのオリエンタリズムむき出しの東洋蔑視に対し、怒るのではなく「言われる通りだ」と落ち込み、返す刀で「無学無教養な日本の一般民衆」のことを、「お前らのせいで自分まで笑われる」とばかりに、激しく憎悪蔑視した。そして西洋人がするよりもいっそう強烈に他のアジア世界の人々のことをさげすみ、侵略と植民地支配の情熱的な推進者になっていった。こういうのは「自己オリエント化」の最も醜悪な例と言うことができるだろうが、100年経ってもそういう人間は全く数を減らしたわけではないらしく、今も日本の書店やネット世界にはサイードが描いてみせた風景そのままに"日本人の手になる「日本の心」「天皇制」、その他もろもろの神話についての二流の分析が充満している。"

「オリエンタリズム」とか「日本人論」みたいな言葉から入るから「大げさな話」をしている感じになるのかもしれないが、もっと「日常的」なことから言うなら、「相手の男の好みに合わせて自分をねじ曲げることを強要される感覚」というものは、世の中の女性の大多数が毎日のように経験させられている「苦痛」なのではないだろうか。一方で男の方に、「相手の好みに合わせて自分を変える」ことを「義務」であるかのように心得ている人間というものは、見つけることも難しい。男性である私自身、かつてはそういう「必要性」を感じることさえなく生きていたし、ともすれば「自分は何があろうと自分を曲げない」ということを「威張ったり」までしていたものだった。そういう態度をとっていた間じゅう自分はずーっと「だからお前が変われ」としか言っていなかったことには、結局その相手がいなくなるまで気づけなかったわけなのだけど、何しろそんな風に「女は相手に合わせて自分を変えるのが当たり前」みたいな感覚が世の中にまかり通っていること自体が、それこそどんな「大げさな」言葉を使っても言い表せないぐらいに「大変な矛盾」であるはずなのだ。

「カネと暴力」が支配する現在の人間社会においては、「売り手は買い手の欲望を満足させるために自分を曲げねばならない」という「決まり」が、あたかも神の定めた摂理のごとく、動かしがたいものとして存在している。現代社会の大多数の人間は何らかの形で「自分」を「切り売り」することでしか生きて行けない状況におかれているから、「誰でも同じようにガマンしている」といった言葉が割と平気で語られるし、そのシステムに疑問の声をあげる人の方が「叩かれる」ようなケースが、往々にして起こる。しかし決して「誰もが同じようにガマンしている」わけではないのである。「自分を曲げる必要」などこれっぽっちも感じずに生きることのできる人間がいる一方で、「常に自分を曲げること」でしか「買い手たち」から生きることを認められない人たちがおり、そして「どんなに自分を曲げても」排除されたり迫害されたりする人たちが世の中には存在する。それらのすべてが「カネと暴力の掟」によって、この世界では正当化されているわけだ。「人間は平等である」という言葉が法律の条文にいくら書き立てられたとしても、「売り手は買い手の欲望に従わなければならない」というこの暗黙の掟が世界を支配し続ける現実が存在する限り、差別がなくなることはないだろう。そしてその現実に支えられて、オリエンタリズムは「力」を持ってゆくのである。

だったらその現実を「壊す」以外にないではないかと、私は思っている。壊す方法については考え中だし、こうしたブログを書くこともどんなにささやかであれ私にとっては「壊す」作業の一環である。壊した後に何を築くのかといったようなことは、今はとりあえず、いい。まずはとにかく、壊さなければならない。

...なぜこんな、見出しとほとんど関係のないように思われることを延々と書き続けてしまったのかというと、こうした根本的な問題にさかのぼって考えることをしない限り、マディ·ウォーターズ (ウィリー·ディクソン) が自分のことを「フーチー·クーチー·マン」であると「宣言」したその気持ちというものには、到底せまれないのではないかという気がしたからである。ここまで膨大な文字数を使って概観してきたように、「フーチー·クーチー (ダンス)」というのは「白人によって作り出された黒人文化」とでも呼ぶべき代物であり、それを自らの「属性」として受け入れさせられることは、本来なら黒人の人たちにとって耐えがたい屈辱であるはずなのだ。その「フーチー·クーチー」を、黒人の側から「自分のアイデンティティ」として積極的に主張してゆくというのは、普通に考えるなら「おかしい」ことなのではないかとしか思えない。

実際私はここまで調べてきて、「フーチー·クーチー」が黒人文化とは本来完全に無関係な概念だったのだという事実に驚愕したし、それにも関わらずそれが「黒人の間で流行した卑猥なダンス」であるといったような「ウソの説明」が、100年後の日本語世界のウェブ空間においてもまかり通っている現実を、心の底から恐ろしいと感じた。「卑猥なダンス」と言うけれど、それを面白がって黒人に「踊らせた」のは一体誰なのだ。「Minnie The Moocher」に出てきたミニーさんだって、踊る時には笑顔を振りまいていたことだろうし、踊るからには楽しく踊りたいと勤めてもいたことだろう。生きるためである。しかしそれだからと言って「さげすまれても自業自得」という話に、なるのだろうか。性暴力事件において「被害者の方が悪い」という主張がほとんど普遍的に存在している現実に端的なように、差別は実にしばしば差別された側の「自己責任」として「処理」される。しかし悪いのは絶対に「見るやつ」だし、「買うやつ」だし、「差別するやつ」の方なのだ。

差別される人たちの側に「自分」を「切り売り」することでしか生きて行けない現実が存在している以上、その人たちの選んだ生き方を「いい」とか「悪い」とかいった言葉で他人が軽々しく「評価」することが「正しい」ことであるとは私には思えない。「同じ日本人」のやることであるならば批判もするだろうけれど、例えば「フーチー·クーチャー」として生きる道を選んだアフリカ系アメリカ人のミニーさんのような生き方を「オリエンタリズムへの迎合」みたいな言葉で切って捨てるようなことは、私にはできない。何度でも言うけれど、悪いのはひたすら「見るやつ」だし、「買うやつ」だし、「差別するやつ」の方なのだ。

しかしながら、マディ·ウォーターズが自分のことを「フーチー·クーチー·マン」であると称したことには、ここまで見てきたような「オリエンタリズムへの迎合」というのとは、また違った意味が込められていたのではないかという気がする。むしろ歌を作ったウィリー·ディクソンの中には、「オリエンタリズムを逆手に取る」ことを通して-そういう言葉を使ったかどうかはともかく-白人社会にケンカを売る」といったような意識が、働いていたのではないかと思えてならない。例えて言うなら吉井和哉という人が自分のバンドに「あえて」イエローモンキーという名前をつけたのと同じような気持ちが、この歌のタイトルには込められているのではないかという感じがするのである。

「フーチー·クーチー」という言葉は、もともと「実体」を持たない概念だったわけであり、西洋世界の白人が「非西洋世界」の人間に対して抱く「恐怖」や「嫌悪感」に加え、それと裏腹の「憧れ」や「コンプレックス」までがないまぜになってアフリカ系アメリカ人の上に投影された、「お化け」のようなイメージであると言っていい。元来は日本語だった可能性さえある言葉なわけで、内容は「空っぽ」もいいところなのである。そんなデタラメなイメージを押しつけられて、「あえて否定しない」ということは、相手との関係において、どういう意味を持つだろう。「だったらどうした?」とマディ·ウォーターズは開き直っているように、私には思えるのだ。白人が自ら呼び出した有色人種に対する悪魔的なイメージを、「お望み通りに」俺が引き受けてやるよ、と、彼は言っているように思える。それは「迎合」ではない。「戦いの宣言」そのものである。

そしてそれを裏づけるように、近代合理主義の世界で生きている白人たちをすくみ上がらせるようなハッタリめかしたキーワードが、歌詞の中にはこれでもかとばかりに散りばめられている。ここまでの2万6千字を長い長い前置きとして、我々はようやくこの歌の歌詞に込められた意味を想像できるところにまで、たどり着いたと言えるのではないだろうか。

歌詞の内容をめぐって

The gypsy woman told my mother
Before I was born

「gypsy」という言葉の差別性については過去のこの記事で触れた通りだが、こちらの海外サイトではマディ·ウォーターズやウィリー·ディクソンの母親世代の人たちが、19世紀のミシシッピ州で実際に「ジプシーの女性」と出会えていた可能性はほとんどありえないのではないかということが、かなりの文字数を使って検証されていた。東ヨーロッパの人たちが戦乱や迫害を逃れて大規模にアメリカに移民してきたのは、1880年代から第一次世界大戦にかけてのことであり、「ジプシー」と呼ばれる人たちがまとまってアメリカに渡ってきたのは、この時が初めてであったらしい。

そのアメリカで「ジプシー占い」と呼ばれるものが一大ブームになったのは、これまた1893年のシカゴ万博がきっかけだったのだという。会場での「占いのアトラクション」が人気を集めたということが記録には書かれているが、つまるところ「ジプシー」の人たちもまた「ミッドウェイ」の「人間動物園」で「見世物」にされていたのである。

それなのにこんな歌詞を聞かされてみると、まるでアフリカ系アメリカ人と「ジプシー」との間には昔から「つきあい」でもあったのだろうかと思わされてしまうし、私もずっとそんなイメージを刷り込まれていたのだが、実際にはウィリー·ディクソン自身、万博以降に形成されたステレオタイプな偏見以上のことは、「ジプシー」について何も知らなかった可能性が極めて高い。

重要なのは、彼らと同じアフリカ系アメリカ人の聞き手にとっては、この歌に歌われていることが「ホラ」であることは自明のことだっただろうということだ。自分の母親が「ジプシー」の占い師から子どもの未来を予言されるという「映画みたいな出来事」など、自分たちの社会の現実の中ではおよそ起こりえない出来事だったことを、誰もが知っている。だから「でっかいホラを吹くものだ」と楽しく笑ってスッキリして終わるのが、この歌を聞いた時の反応だったと思う。

ところが、日頃からアフリカ系アメリカ人のことを差別している人間たちには、それが「ホラ」であることなど絶対に分からない。むしろ「これが自分たちの知らない黒人社会の生きた現実なのだ」等々と、「分かったようなカン違い」をするに違いない。かれらはもともと「オリエンタリスティックな興味の対象」としてしか「黒人」のことを見ていないし、この歌を「買う」のも「その興味」を満足させるためでしかないからだ。そしてこの歌を聞いた後には、黒人文化に対する「得体が知れない」というイメージ、「近寄りがたい」というイメージ、さらには「禍々しい」とか「神秘的だ」とかいったような、様々な「間違った思い込み」が一層強められることになる。歌を作ったウィリー·ディクソン自身は、むしろそうした効果を「狙って」いたのではないかという感じがする。

彼が「黒人以外の聞き手」のことをどれだけ想定してこの歌を作ったのかは、分からない。結果的にこの歌は「白人たちにも売れる」ことになったわけだが、初めから彼がそれを「当て込んで」いたのかどうかということについては、何とも言えない気がする。とはいえそんな風に考えてみると、「同じ黒人の聞き手」と「黒人に対する差別意識を持った聞き手」のそれぞれに対し、この歌は「全く違ったメッセージ」を持つように作られていることが分かる。そして「味方を元気づけ敵を恐怖させる」のが「戦いの歌」の目的であることを考え合わせるなら、この歌は「戦いの歌」としての特徴を完全に備えていることになる。

黒人差別が邪悪なことであるのと全く同様、オリエンタリスティックな偏見にもとづいて「ジプシー」の人たちのことを「ネタ」にするようなことは、白人のやることであれ黒人のやることであれ児島未散のやることであれ、「いいこと」では絶対にない。けれども黒人と「ジプシー」の両方に対して差別意識を持っている白人がこの歌詞に触れたなら、その両者が並んで登場していることにいっそう「あなどれない感じ」を覚えるはずだと思う。その意味では、黒人の歌い手が「ジプシー」の人たちからも「力を借りて」、白人社会に対抗するという構造が、ここには成立していると言えるだろう。

「フーチー·クーチー·マン」という歌において、その歌い手はある意味、白人社会からの黒人社会に対する偏見に満ちたイメージに「合わせて」自らを演出しているのであり、その「誤解」を解こうなどとは、微塵も考えていない。そして白人社会が自分たちに対して勝手に抱いている恐怖心を逆手に取り、黒人男性が「自分の力を誇示する言葉」が、歌詞の中には並んでいる。なぜそんなことをするのかと言えば、「差別があるから」なのだ。差別されている人間がそれをはね返して堂々と生きて行くために何よりも必要なのは、「誤解を解くこと」でも「理解してもらうこと」でもなく、「自分が負けないこと」なのである。この歌はそういう歌なのだと私は思うし、そのことを外して歌詞の中に散りばめられた「オリエンタリスティックなキーワード」の意味をあれこれ探ってみようとするのは全く無意味なことだと今では思う。「今では」と書いたのは私自身、この記事を書き始めた時点では、「オリエンタリスティックな興味の対象」としてしかこの歌のことを見ていなかったことに、気づかされているからである。

I got a black cat bone
I got a mojo too
I got the Johnny Concheroo

「black cat bone (黒猫の骨)」は、西アフリカの民間信仰とキリスト教とが混淆して成立した「ヴードゥー」」と呼ばれる黒人文化において、「幸運のお守り」にされていたアイテムなのだという。「Johnny Concheroo (征服者ジョニー)」が同様に「ギャンブルのお守り」とされていた植物の根っこであることは、「Mannish Boy」の記事で触れた通り。「mojo」についても詳しく調べようと思ったら今回の記事と同じくらいの文章を書かねばならないことになると思うが、平たく言うならそれらのアイテムを身につけておくための「お守り袋」のことであるらしい。

マディ·ウォーターズもウィリー·ディクソンもこうした文化が息づいていたミシシッピ州の出身ではあるわけだが、彼らがホームグラウンドとしていたシカゴという大都会の黒人社会において、これらのキーワードがどの程度「生活に根ざしたリアルな言葉」として受け止められていたのかは、何とも言えない気がする。むしろこうした「ヴードゥー」の「おどろおどろしいイメージ」を並べ立てることで、白人社会にハッタリをかますための歌詞であるという側面の方が強いのではないかと思う。

On the seventh hours
On the seventh day
On the seventh month
The seven doctors say

こんな風に「7という数字」を並べることに神秘的な意味づけが行われることは、むしろ聖書の世界やキリスト教の伝統の中から出てきたイメージなのであって、黒人文化の中にそのルーツがあるわけではない。何度も書いてきたようにこの歌は「ハッタリをかますこと」が全てになっているような歌なのであって、そのためにありとあらゆる「オリエンタリスティックなキーワード」が総動員されている。その意味では「デタラメな歌詞」なのだけど、「ハッタリ」として成立していれば、それでOKになっているのだと思う。

I'm the hoochie coochie man

上述のように「フーチー·クーチー·ダンス」とは女性が踊る踊り、より正確には女性が踊らされていた踊りであるわけで、それなら「hoochie coochie man」とはどういう「男」のことなのだということが、この歌をめぐる最後の疑問として残る。海外サイトによるならば、英語話者がこの文字列から受け取るのは「ストリップ小屋の常連客」あるいは「ストリップ小屋の経営者」の「男性」というイメージなのだという。そして「Hooch」が「密造酒」、「Cooch」が「女性器」という「響き」を併せ持っていることから、「酒とオンナが人生の全てである男性」という印象も、同時に受け取るらしい。

この歌は「差別される側の黒人男性」が「差別する側の白人社会」に対して「差別を投げ返す」歌であり、「力を誇示する」歌であると私は感じるし、そこにおいては「痛快」な歌になっていると思う。けれどもその黒人男性による「力の誇示」は、この歌の中においては明らかに「黒人女性」に対しても、同時に向けられている。上の文章の中で私は「フーチー·クーチー·ダンス」という踊りが「白人社会の側のオリエンタリズム趣味」によって黒人の上に押しつけられていった差別の歴史を後追いしてきたわけだが、「男性と女性の関係」からするならば黒人男性もまた、そこにおいて明らかに「見る側」「搾取する側」に立っていたのである。この歌の主人公はそのことを全然悪びれることなく、むしろ「自慢のタネ」にしている。その側面においては、この歌はやっぱり「ひどい歌」だとしか言いようがないと私は思う。この歌はただ単に「黒人文化の中から生まれた歌」ではなく、白人が何百年にもわたって黒人のことを差別し支配してきた歴史の中から生まれた歌なのであり、軽々しく「評論」できる資格が自分にあるとは思えない。まして私自身は西洋世界の白人たちがやってきたのと全く同じようにアジアの他地域の人々のことを支配し、征服することに情熱を傾けてきた、「日本人」の子として生まれた一人なのである。けれどもそのことについてだけは、「同じ男性の立場から」最後に自分の感想を述べておかねばならないと思った。そうでなければ本当に、差別はいつまでたっても無くならないからである。

というわけでここまで書いてきたことの全てを踏まえ、私自身にとっても長年の「謎」であり「課題」であった「Hoochie Coochie Man」の日本語への試訳を掲載することで、今回の長い記事を締めくくることにしたい。

(日本語訳) Hoochie Coochie Man

The gypsy woman told my mother
Before I was born
I got a boy child's comin'
He's gonna be a son of a gun
He gonna make pretty women's
Jump and shout
Then the world wanna know
What this all about
But you know I'm him
Everybody knows I'm him
Well you know I'm the hoochie coochie man
Everybody knows I'm him

俺が生まれる前のこと
ジプシーの女が
俺の母親にこう言った。
男の子が生まれてくるのが見えるよ。
その子はとんでもない子になるよ。
かわいい女たちを
飛んだり跳ねたり
ヒーヒー言わせるような子になるよ。
そして世界中が
何が起こってるのかを
知りたいと思うようになるだろう。
だがいいか。
俺がまさにその男なんだ。
誰もがそのことを知っている。
俺はフーチー·クーチー·マン。
すなわち俺がその男よ。


I got a black cat bone
I got a mojo too
I got the Johnny Concheroo
I'm gonna mess with you
I'm gonna make you girls
Lead me by my hand
Then the world will know
The hoochie coochie man
But you know I'm him
Everybody knows I'm him
Oh you know I'm the hoochie coochie man
Everybody knows I'm him

黒猫の骨を持ってる。
それを入れるモージョーも持ってる。
征服者ジョニーの根っこも持ってる。
俺はお前を
めちゃめちゃにしてやるぜ。
お前ら姉ちゃんたちが争って
俺の手を引っ張るようにしてやるぜ。
フーチー·クーチー·マンのことを
世界が知ることになるだろう。
だがいいか。
俺がまさにその男なんだ。
誰もがそのことを知っている。
俺はフーチー·クーチー·マン。
すなわち俺がその男よ。


On the seventh hours
On the seventh day
On the seventh month
The seven doctors say
He was born for good luck
And that you'll see
I got seven hundred dollars
Don't you mess with me
But you know I'm him
Everybody knows I'm him
Well you know I'm the hoochie coochie man
Everybody knows I'm him

七番目の月
七番目の日
七番目の時に
七人の博士が言うだろう。
「彼は幸運のもとに生まれてきた」
そして俺はしっかり
700ドルを手にするんだ。
俺にちょっかい出すんじゃねえぜ。
だがいいか。
俺がまさにその男なんだ。
誰もがそのことを知っている。
俺はフーチー·クーチー·マン。
すなわち俺がその男よ。


東京の空

...最後の「すなわち俺がその男よ」というフレーズは、エレファントカシマシの「東京の空」というアルバムのライナーノートに宮本浩次が綴っていた言葉からの借用になっている。「Everybody knows I'm him」という「イキった台詞」が、少年時代の私には宮本浩次の「イキり方」とずっと重なって響いていた。その歴史があるから、このフレーズは今でも「違った言葉」にはどうしても聞こえない。

「エレカシとオリエンタリズム」みたいなテーマで記事を書くことがあるとしたら、私が自分の人生でそのことについて考えたり悩んだりしてきた時間の長さに鑑みて、今回の三倍ぐらいの分量は、簡単に書けると思う。でも今になってみれば、そんなことをするのはひたすら「時間とエネルギーの無駄」であるとしか思えない。今の私に言うべきことがあるとすれば「エレカシなんて大嫌いだ」ということだけだ。それもただ嫌いということにとどまらず、もしも私と宮本浩次が出会うことがあったとすればその時はどちらかが死ぬ時だというぐらいのレベルで、真剣な「愛情」を込めて、「大嫌いだ」ということだ。

そのことぐらいについては、いずれ書くこともあるかもしれない。

ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released 1954
Recorded Chicago, January 7, 1954
Key: A

Hoochie Coochie Man

Hoochie Coochie Man