2017年12月20日

池田思想は誤っている

わたしの仏教に関しての視点に変化をもたらしたのは、スマナサーラ長老の著書『心がスーッとなるブッダの言葉』を読んだことである。
「あれれ、これまで思ってきた仏教(というよりも創価で習ってきた仏法)とは相当違うな」とその本を読んで感じたわけだ。

しかし、そのときは混濁する精神状態にあり、なんとか創価の信心でもう一度立ち直ろうとして頑張ると決断した頃であり、凄まじい怒りと対峙していた頃のはずなので、その本をいつ頃読んだのかという記憶は少々曖昧だ。
だが、件の書でかなりの衝撃を受けたことだけは明確に憶えている。

そしてその後おこった大転換点が、唱題中における、いわば天啓のような内なる声だった。
もうこのことは何度もここに書いてきたが、突然心の中から「今はとにもかくにも哲学を学ばなければならない」という声を聞き、それを実行したということなんですがね。

たとえ一人になろうとも、全世界に立ち向かい給え。世界から血走った眼で睨まれようとも、君は真っ向から世界を見すえるのだ。恐れてはならない。君の心に響く、小さな声を信じ給え(マハトマ・ガンジー)

だが、こうした天啓ともいえる声を聞くことになったのは、『心がスーッとなるブッダの言葉』を読んで感じた「あれ? なんか違うな。これまで信じてきたものをそのまま信じていいのだろうか」という自分のなかで起こった動執生疑のスタート点であったのだろう。
そうしたことから、心身の調子が優れないなかで、それなりの数の本を読み、今日まで思索に思索を重ねてきたのだ。


しかし、そういう中で自分なりの価値観を作ってきたとはいえ、いまだ大きな悩みがあった。
それが、いかにして創価の信心を捨てきって、正しい姿勢で御本尊を拝していけばいいかという、信仰における命題ともいえるものだった。
つまり、どのようにして勤行・唱題をもって止観していけばいいかを自分に問うていたわけだ。
心情として、祈る、願う、誓願、ひいては縋るといった創価的姿勢をもって御本尊の前に座る気になれなかったということだ。

そのためには何かをどのよにかして思索して、揺るがない明確な答えが必要であることはわかっていたが、それが一体なんなのかと考えると、たちまち暗闇に閉ざされるような日々であったわけだ。
しかし、ここ数日その何をどのようにしてが見えてきた。

そう、答えは意外と簡単だった、創価で習ってきたこと、つまりは、池田大作氏の唱えてきた本尊義と本尊に対する信心の姿勢に完全な過ちを見つけだし、それを我が信仰に一切取り入れない形で止観行を行なえばいいと気づいたのだ。


わたしは二世ですからね。創価の教義やら云々が原体験のごとく身にしみついているわけで。
だったら、それを完全に否定でき、なおかつ本来の仏教(仏法)に照らして、池田思想が完全に仏教ではないとわたしが納得できることを探しだせばいいのだと気づいたのだ。
ありましたよ。池田思想には、完全な誤りが。

池田氏は『二十一世紀への対話』でこう豪語している。
この宇宙には“究極の実在”が存在する
、と。
そしてこれこそが、釈尊をはじめ龍樹、天台、伝教、そして日蓮へと流れてきた仏法に弓を引く思想であるわけだ。

無論、池田氏がここでいっている“究極の実在”というのは、南無妙法蓮華経という「法」のことを言っており、なおかつその法を認識できようが、できまいが、宇宙森羅万象を貫いており、実在しているのだという意味だ。

池田氏の本尊解釈はこうした「認識できようができまが、究極の実存はあると信じるか信じないかである」という思想が根本にあり、なおかつ基盤にあるわけだが、この思想こそが仏教を貶め誹謗する思想なわけだ。

そもそも、仏教というものは宗教ではない。仏教哲学であり、より正確にいえば「認識学」なのだ。
釈尊をはじめ龍樹云々、すべてのまともな仏弟子はみなそういう認識をしているんですからね。日蓮もそうだ。
それは『一生成仏抄』に明確だ。
というか、『一生成仏抄』をきちんと拝せば、池田思想が外道であることなど簡単に気がつけることだ。

但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり、麤法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし

己心の外に法ありと思わばとは、認識できようができまいが、究極の実在はあると信じることですよ。
こう考えればわかりやすい。
未開人が携帯電話を見たとしても、それが何であり、それがどいう機能をもち、かつまた自分にとって価値的かは認識できない。しかし、未開人が携帯電話は自分を最高に幸せにする道具だと信じれば、必ず幸福になれる。池田思想とはそういう思想であり、自分が認識していない法に、つまり自分の外側にある法を信じても必ず幸福になれると言いきっている、仏教でも何でもないただの外道信仰に過ぎないということだ。

翻って正しい仏教とはどういうものかといえば、文明人が未開人に、携帯電話というものはこれこれこういうもので、こうやって使うととても価値がありますということを、身振り手振りや言葉をつかって教えることだ。しかし、未開人がじゃあこの電話の中はどうなっているんですか? と訊ねてきても、そこには深入りしない。そのことを知ったとてあなたは幸福にはなりません。中には電子機器が詰まっていて云々をしったところで、あなたは幸福ではない。そうではなく、わたしがあなたに教えてあげたいのは、この道具をどう使えばあなたが幸福になれるかということなんですよと語るのが正しい仏法でしょうが。
でも、池田思想は、この携帯の中には“究極の実在”があってそれを信じれば誰でも幸福になれるって言ってるわけだ。
もし未開人がそうした池田思想を受け入れたなら、携帯を分解して中がどうなっているか知りたがるだろう。
しかしそんなことをすれば、携帯は当然使い物にならなくなるってわけだ。
そういう実例が、ネットでもさんざん見かける本尊義に関する罵り合いってわけだ。

若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり(一生成仏抄)

して、そうした信仰をするとどうなるかを日蓮が説いているのが上に揚げた部分だ。
ようするに、池田思想とは、仏法を恥しめる外道思想だということだ。
もう少しいえば、池田思想とは所詮、仏教以前にあった誤った思想、アートマンとブラフマンの合一を目指すウパニシャット哲学みたいなものだということだ。
したがって仏教で否定されるべき思想であるということだ。


そもそも仏教は人間はいかにこの世界と自分を認識していけば幸福感を得られるかという認識学である。
つまり、仏教哲学とは認識学であり、純粋には哲学ですらないのだ。
そんなことはwikiを見ただけでもわかる。

wikiのしたのほうの部分、「釈迦」のところを見ても仏教が認識学であることはわかる。
自らの修行法と、その認知したことを弟子たちに説明をしながら、修行を補助していった。
つまり、仏教とはまずもって認識がベースにあることなど、一目瞭然であるわけだ。

その後に続く無分別、縁起、存在、そして空、唯識とつづいてゆくが、どの項目を読んでも、そこにはまず認識し、その認識したものについて考察し、それを教えとして残していこうとしていることが読みとれる。

しかし、池田思想はそれとは違う。
ゆえに創価の信心は仏教ではないし、いわんや日蓮仏法でもない。いなむしろ、それらを誹謗しているのが創価学会という存在であるということだ。

では戸田時代はどうだったのか?
おかしいだろう、間違っているだろう。
「仏とは生命なり」って全然間違ってるじゃないか。
そもそも仏教は生命論でも生命哲学でも何でもない、目の前で起こっている事象をどう認識し、どういった態度・行動をとれば、苦が滅するかを考えるための教えであるのだから。

まあ、生命現象を正しく認識していけば、そこで起こる苦を滅する方法を見出すことは出来なくはないだろうが、だからといって仏教が生命を説き明かしたものと言ってしまうのは、間違いだ。いわんや生命論などでは決してない。
だから戸田は「祈れば病気は必ず治る」とかいう嘘を指導しているわけだ。
そもそも現代においても、生命とはこういうものだという明確な科学的な定義はできていない。
ひと昔前までは、自分と同じ種を再生することができるものを生命(あるいは生物)と呼んできたが、ウイルスはそうした機能をもたないことがわかり、生命の定義が揺らいだのだ。
福岡伸一博士などは、そうしたことから、生命とは「動的平衡にある流れ」であると再定義し、これはこれで画期的な思想だと思うが、であるなら生命という定義から、生きているとか死んでいると立て分けて見ることを抹消されざるを得ないわけだ。
そう考えれば、仏法は生命論とか生命哲学だなどとは決して言えないわけだ。

生命が流れというならば、死んだら生命ではないと言えるんですか?
言えないでしょ。死んだあと肉体は腐り、やがて土に還る。これとても動的平衡の流れと言えませんか?
だとしたら、仏教はそこについては無記なのですから、仏法=生命論とかいうのは、トンデモ思考に他ならない。
そもそも仏教は、よりよく人間が生きていくための教えですからね。死んだあとのことなんて説いているものは仏教とはいいませんからね。

だから戸田の思想も間違いだ。病気についていえば、正しい仏教は、病気になり、それによってもたらされる苦悩をどうすれば軽減していけるかを考え、認識し、その正しい認識に基づいて行動していくための教えだからだ。
もしも、仏法で病気が治るなら、怪我も治るんじゃないですか?
だったら、大怪我した人を見つけたら、その人に向かって題目あげてあげればいいですよ。
でも、交通事故で瀕死になってる人に出合ったら、普通はそういうことをしないんですよ。
状況を認識し、救急車を呼んで、治療を受けさせるべきだと認識するのが普通であり、なおかつ道理なんですよ。
しかし、そうしたからといって、その人が生きながらえるかどうかは、誰にもわかりません。

日蓮もちゃんと御書のなかで言ってますよ、「このさい治る治らないには拘らず、これを機にあなたも成仏(苦を苦と見ない認識とそこから導きだされる態度・行動をとる生きかた)をする方向に歩みだしてみてはどうですか?」といった趣旨のことをね。
なのに、病気は治るとか断言しちゃう戸田ですからね。インチキだし、日蓮に違背してますからね。

そんなに題目が凄くて病気が治るというなら、怪我だって治せるんじゃないですか?
なら、怪我人見つけたら題目送ってあげたらどうですか?
そもそもこんなことは仏教説話にある「毒矢の譬え」で既に教えられてることでしょうが。

では牧口はどうだったのか?
これが残念ですが、彼の志はわからないとしか言えないでしょう。
なにしろ志なかばで獄死してしまいましたからね。
しかも、現在入手できる牧口の思想は、戸田による編纂が入っており、どこまでが牧口の思想かを正確に知れないのだから、彼を正当に認識し評価することさえ出来ないわけだ。

しかし牧口はこういう言葉を残している。
認識なくして評価なし。
いいんじゃないでしょうか。仏教にそってますからね。

つまり仏教、なかんずく止観とは、今自分と自分を囲んで起こっていることをありのままに見て、自分と自分の周囲(もちろん環境も含む)から一切の苦を滅するには、今ここで自分はいかなる態度・行動をとっていくかを思索する修行であるといっていいだろう。
無論、止観は意識層だけで行うものではなく、むしろ無意識層でおこなうものだが、ようするにこれは、理由は定かではないが、その時その時、起こった出来事を前にして自然にとってしまった行動となって現れたり、理由はわからないけど、どうしてもあるものに惹かれてしまうといった形で現れるのだろうが、こうした働きかけは注意して見ていかなければならない。
なぜかなら、その無意識の行動が習慣や慣れからであるならば、それは本来の無意識が智慧となって発露したのではなく、自分が作りだした習慣が現れたに過ぎないからだ。
子どもは小さな頃、ボタンをはめるのに1時間とかかかるわけだ。だが慣れてしまえば、何も考えずに無意識にできるようになる。
したがって、こうような無意識の行動は、真の無意識からの働きかけではなく、自分が作りあげたものであるから、真の無意識の行動と分別して見ることが必要だということだ。

無論、そのためには、常に自分を見つめて、今とった行動は真に無意識からだったのかを認識しようとし、点検していかなければならないわけだ。
そして、こうした認識をしていくことこそ、止観を通して行うべき重要な点であるといえるだろう。
もちろん、そうして止観したうえで、これは別に変える必要のない習慣だと確信できたなら、それを無理に変える必要はないんですがね。

祈るのでもなく、願うのでもなく、誓うのでもなく、ひたぶるに自分と自分を囲む全ての人々と環境から苦を滅していける、今の自分にできることは何かを自分に問うことが止観であるといい換えても、おそらく間違いはないだろう。
蛇足していえば、そうして個人的に思索したときに自分の中から湧きあがる善後策が仏の智慧だ。
だから仏知というものは決して言語で完全に表現することはできないし、個人が個人の中でしか感受認識できない。
したがって、その善後策に基づいて行動した瞬間、それは菩薩行になるわけだ。
諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知。とはそういうことを指しているわけだ。
したがって、創価学会仏とかいう教義がいかにおかしいかなど一目瞭然なのだ。
仏智にしたがって行動してもそれは全て菩薩行になる、ようするに方便としてしか顕すことができないということだ。

道に落ちているゴミを拾う。そこに至るまでに思索した経緯はその人自身にしか知りえない。それが仏智。
もちろん仏とつくぐらいだから、その人は「今ここで自分がゴミを拾うことでこの世界の生きとしいけるものから苦を少しでも滅せるだろうか? またわたし自身にも苦が訪れないだろうか」と問うていても、ゴミを拾う姿を見た人からすれば、「あ、ゴミ拾ってるのね」としか見えないわけだ。
これが仏智(実教)と菩薩行(方便)の違いなわけだ。
して、釈尊が教えたいのは、本当は前者なわけだが、これまで述べてきたように、その仏智は個人の内面の働きなので、それをそのまま伝えることは絶対に不可能だということだ。
しかも、状況や場面は無数にあり、その時、その状況、その人物の思想の浅薄などによって、あらゆる生きとしいけるものから苦が軽減されるという善後策はそれこそ幾億種類もあるわけだ。
諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。
そりゃそうだ、となるんじゃないですか?

唱題していれば、絶対に間違いのない軌道にビシっとはまる。嘘です。
唱題していれば必ず守られる。嘘です。
こうした謳い文句の意味は、「そういっておけば信者を獲得できる」ということです。
池田思想で信心し勤行・唱題しているなら、仏教でも仏法でもありませんからね。
いなそれは、外道信仰ですからね。

それでも創価の中にも良識人がいて、会員の9割が外道信仰になっていると気づいて、真剣に悩み、何とかしてあげたいという心根で行動した人もいる。
でも結局、昭和30年代からつづく創価に蔓延る“究極の実在はある”といった戸田・池田思想を、一人一人が真剣に精査して打ち捨てない限り、焼石に水でしかないのですがね。

まあ、こういった創価の思想なんて、ふつうに考えてみれば、仰ごうが仰ぐまいが、神はこの宇宙のどこかに実存するというキリスト教となんの変わりもないわけですし、ようするに外道信仰の迷信なわけだ。
神という語句を法に変えただけですから。


近代文明をリードしてきたヨーロッパの思想の流れをあらあら俯瞰してみても、あるときは、プラトンのイデア論やキリスト教の霊魂不滅の流れをひく唯心論哲学が、隆盛をきわめておりました。19世紀中葉以降、それに代わるものとして、華々しく登場したのが、唯物論であることも、周知の事実であります。20世紀にあっても、第二次世界大戦後の一時、実存主義が、唯心論、唯物論に代わる“第三の哲学”として脚光を浴びたこともありました。それも束の間、現在では、実存主義から構造主義への移行ということがいわれはじめています。
まことに変転常ならね様相でありますが、結論的にいえば、私は、それらの思想は、いずれも「無量義」の一分を説いたものにすぎないと思うのであります。もとより先人の労苦を認めないわけでは毛頭ありません。


これが池田氏の思想。
まあなんと浅薄でかつ、自己過信に満ちた傲慢な思想であろうか。
プラトンのイデア論はおいておくとしても、その後につづいたアリストテレスは認識と存在に関して、画期的な理論を展開し、認識と存在の関係を考える礎を作った人です。
サルトルで有名な実存主義もまた、認識と存在(実存)の関係性に深くメスを入れた思想であり、アリストテレス以上に画期的な思想だ。彼の実存主義は、人間の立場と、人間が見た物(道具)の立場が入れかわるというところまで解明した、それこそ画期的な思想ですよ。
つまり、人間の場合は「実存(認識することが)が本質(絶対的な法のようなもの)に先立つ」――人間がものを認識してはじめてそこにものが実存するという思想――になるが、これを物にあてはめると、物の場合、本質が実存に先立つ(道具であればその目的があってその後に、道具としての形態が決まる)と気づき、つまりは、実存と本質というのもまた相対的なものであるという論理であり、いわば本当のところどちらが先とは決められないという仏教の「空」の思想そのものに近づいたものと見ることもできるのに、池田氏はそういうものも所詮は南無妙法蓮華経の一部を説いた次元の低い思想だとか切って捨ててるわけだ。
いなむしろ、そういう傲慢な態度をとり、「空」さえ正しく理解できていなかったのが池田思想であるから、“究極の実存はある”とか言っちゃったんでしょうに。

御書のどこかにありますよ。
聖人は宇宙にある真理を見出し(認識し)、それに名前をつける、と。
ほうら、池田思想が日蓮に違背してることはこれだけでも明確だ。
認識していなくても、“究極の実在”はあると信じれば幸福になれる、なんて言ってませんからね。
日蓮は、まず認識し、概念に名前をつけることで、誰もがそれを認識できるって言ってるんですよ。
であれば、われわれの立場は、聖人がつけた名前から聖人がいかなる概念を認識したのかを止観していくということにあるわけだ。
だが池田思想は、そんなことしなくても、とにかく信じればいいのという「妄信」の勧めじゃないか。
科学性や論理性のへったくれもない。
そもそも仏教は、全て自分で確認して確かめていきなさいというのが釈尊の教えなんですがね。

蛇足だが、構造主義というのは、簡単に言うと、無意識こそがわれわれの本当の姿だという思想。
文明人であろうと未開人であろうと、無意識層には共通の言語があるから、文明人であるから素晴らしいとか未開人であるから稚拙だとは言えない。むしろ、そういう視点で見れば、人間は平等だという思想ですね。
創価の信心に弓ひく者は罰が当たって地獄行き。そういう思想とはまったく次元が違うわけだ。
しかし、池田思想というのは、そういう平等観(構造主義)さえ、所詮は妙法の一部を説いた次元の低いものと見下しているわけだ。傲慢極まりなし。

いやそもそも、純創価思想の人のやってる財務。
あれを見れば全てが偽物だなんてわかる。
本当にこの世の中から悲惨の二字をなくしたいというなら、自前の教団に寄付するとかおかしいだろ。
この世界には難民になって住む場所を無くしたり、今日の食事にさえ事欠く人々が沢山いるでしょ。だったらそういう人々の支援にでも寄付したほうがいいに決まってるでしょ。
でも創価はそういうことを奨励しない。
むしろ教団が金を集め、職員だとかの食い扶持にして、教団が発展するために使ってるんでしょ。
しまいには会長が財務こそ「大善」とか言いだす始末。

そういうことは創価系ブログにも顕著にあらわれてますがね。
創価万歳を叫んでる人って、苦しんでる人のブログにいって励ましのコメントとかしないんだな。
創価万歳をいいあって、互いが気持ちよくなるといった行動しかしないの。じゃなければ内輪喧嘩に似た罵り合いしかしないんだな。
そんなことしてて、口の先ではこの世から悲惨の二字をなくしたい云々言ってるんだな。

現世安穏 後生善処のことを書いたときに少し触れようかと思ったのだが、純創価の人のブログ見てご覧なさいな。
全然日蓮のいってる状態、つまり難に遭ってないじゃない。
毎日が楽しくて、平穏無事です。そんな記事何年も書き続けてるだけ。
本当に正しい信心をすれば必ず難が競う。究極的には命に及ぶ難に遭うんじゃないの?
少なくとも、ブログなんてやってれらなくなるんじゃないの?
創価の信心がいかに嘘かは、こういう部分からも読みとれるんですよ。

ipsilon at 10:18コメント(1) 

コメント一覧

1. Posted by 通りすがり   2018年01月10日 09:02
>純創価の人のブログ見てご覧なさいな。

ネットやブログでどれだけ本当の生き様が分かるというのかな。

もっと人の立場にたって考えられるようになろうぜ。

by正宗

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