2016年09月27日
潮出版社『池田大作の軌跡�』からの抜き書き(2)
我ながら自分の底の浅さを思い知らされる読書になった。
わかったつもり。無知ほど恐ろしいものはない。これほど師匠の気持ちがわかっていない不甲斐ない弟子だったか……と恥ずかしくなった。
「夕張は、職場や生活の環境が、東京とまったく違う。どこまでも懇切丁寧に、二倍、三倍の気を遣っていかなければならない」言葉を強めた。
「そのうえで二倍、三倍、厳しく折伏していけ。強く悪を斬れ。そうじゃないと、夕張のような厳しい環境では、功徳は出ない」現地の状況を仔細に調べ上げていた。
「特殊な事情があるから、教学でいくんだ。どんな迫害が襲いっかっても、微動だにしない、信心の骨格を築いていけ」
当時の石炭産業は国のエネルギー政策の根幹であった。現在に置きかえれば、原発行政の闇に真正面から正々堂々と戦い、人間と地球環境にもたらされる悪を斬っていくということにあたろう。
そうした点から、炭労事件がいかに凄まじい戦いだったかを考えてみる必要があるのだろう。
(炭労問題が勃発したとき)
戸田会長の結論もまた明快であった。
「創価学会は“ケンカ学会”だ。売られたケンカは買おうじゃないか!」
矢面に立つ総大将は池田室長である。
わたしも、いつだったか「売られて喧嘩は買います!」とかいったタイトルの記事を書きました。
もっとも、先生とはあまりにも次元が違いすぎなんですがね。今は懐かしい思い出です。
「創価大学は、宗教活動ではない。ご供養のように学会員からお金を集める必要はない。また、集めてはならない」
「教育は私の事業である。必要な資金は言いなさい。私が作る」
一九六〇年代後半、小説『人間革命』をはじめ、執筆のスピードは一段と加速した。書きに書いた著作の売り上げは、創価学会本部経理局を通じて、大学側に寄付された。
こうした先生のお心、宗教と教育、また政治と宗教というものをきちんと立て分けるお心が、今わからなくなっているいるのが現執行部や公明党であろう。
なんでもかんでも信心=公明支援あるいは創価大学や学園のため、そういうひとくくりで見てしまう思想が今や蔓延しているのではないだろうか。
公明党は学会員の力を借りずとも、公明党として大衆から支持されなければ何の意味もない。
同様に、創価学園・創価大学も、世界の大学や教育機関から評価されなければ意味がないわけだ。
しかし、公明にしろ創価大学にしろ、信心してるんだから(学会員なら公明を)支援し、(創大や学園を)宣揚するのが当然といった事態になり果てているのが現状だろう。
先生が志された「自主自立」の精神を理解している良識人は、いまやかなり少ないのだろう。
創価大学の開学にあたって、先生が志されたことは――
「将来世界を舞台に、人類全体のために活躍する人物を輩出したい。この一点なんだ。一宗一派のためにやっているんじゃないんだ」
――なのであるから。
これを政治の世界におきかえるならば、
「将来世界を舞台に、人類全体のために活躍する政治家を輩出したい。そのために設立したのが公明党である」
になるんじゃないですか?
だが、その公明党は人類全体どころか、長年にわたって虐げられてきた沖縄の民衆にすら手を差し伸べていないではないか。いなむしろ、イスラエルとの兵器製造契約を結べるような政策を推進し、兵器によって民衆が殺害されていくことに手を貸している始末だ。なにがブレーキ役なんだ? どこがブレーキ役なんだ?
ブレーキだというなら、殺人ブレーキとでも名称を変更したほうがよろしい。
ともあれ、創大出身なんだから、学会を守るのが当たり前という甘えや、学会員だから公明を支援するのが当たり前といったお追従や功徳欲しさの浅ましい姿を、先生は決して望んではおられなかったのだ。
わかったつもり。無知ほど恐ろしいものはない。これほど師匠の気持ちがわかっていない不甲斐ない弟子だったか……と恥ずかしくなった。
「夕張は、職場や生活の環境が、東京とまったく違う。どこまでも懇切丁寧に、二倍、三倍の気を遣っていかなければならない」言葉を強めた。
「そのうえで二倍、三倍、厳しく折伏していけ。強く悪を斬れ。そうじゃないと、夕張のような厳しい環境では、功徳は出ない」現地の状況を仔細に調べ上げていた。
「特殊な事情があるから、教学でいくんだ。どんな迫害が襲いっかっても、微動だにしない、信心の骨格を築いていけ」
当時の石炭産業は国のエネルギー政策の根幹であった。現在に置きかえれば、原発行政の闇に真正面から正々堂々と戦い、人間と地球環境にもたらされる悪を斬っていくということにあたろう。
そうした点から、炭労事件がいかに凄まじい戦いだったかを考えてみる必要があるのだろう。
(炭労問題が勃発したとき)
戸田会長の結論もまた明快であった。
「創価学会は“ケンカ学会”だ。売られたケンカは買おうじゃないか!」
矢面に立つ総大将は池田室長である。
わたしも、いつだったか「売られて喧嘩は買います!」とかいったタイトルの記事を書きました。
もっとも、先生とはあまりにも次元が違いすぎなんですがね。今は懐かしい思い出です。
「創価大学は、宗教活動ではない。ご供養のように学会員からお金を集める必要はない。また、集めてはならない」
「教育は私の事業である。必要な資金は言いなさい。私が作る」
一九六〇年代後半、小説『人間革命』をはじめ、執筆のスピードは一段と加速した。書きに書いた著作の売り上げは、創価学会本部経理局を通じて、大学側に寄付された。
こうした先生のお心、宗教と教育、また政治と宗教というものをきちんと立て分けるお心が、今わからなくなっているいるのが現執行部や公明党であろう。
なんでもかんでも信心=公明支援あるいは創価大学や学園のため、そういうひとくくりで見てしまう思想が今や蔓延しているのではないだろうか。
公明党は学会員の力を借りずとも、公明党として大衆から支持されなければ何の意味もない。
同様に、創価学園・創価大学も、世界の大学や教育機関から評価されなければ意味がないわけだ。
しかし、公明にしろ創価大学にしろ、信心してるんだから(学会員なら公明を)支援し、(創大や学園を)宣揚するのが当然といった事態になり果てているのが現状だろう。
先生が志された「自主自立」の精神を理解している良識人は、いまやかなり少ないのだろう。
創価大学の開学にあたって、先生が志されたことは――
「将来世界を舞台に、人類全体のために活躍する人物を輩出したい。この一点なんだ。一宗一派のためにやっているんじゃないんだ」
――なのであるから。
これを政治の世界におきかえるならば、
「将来世界を舞台に、人類全体のために活躍する政治家を輩出したい。そのために設立したのが公明党である」
になるんじゃないですか?
だが、その公明党は人類全体どころか、長年にわたって虐げられてきた沖縄の民衆にすら手を差し伸べていないではないか。いなむしろ、イスラエルとの兵器製造契約を結べるような政策を推進し、兵器によって民衆が殺害されていくことに手を貸している始末だ。なにがブレーキ役なんだ? どこがブレーキ役なんだ?
ブレーキだというなら、殺人ブレーキとでも名称を変更したほうがよろしい。
ともあれ、創大出身なんだから、学会を守るのが当たり前という甘えや、学会員だから公明を支援するのが当たり前といったお追従や功徳欲しさの浅ましい姿を、先生は決して望んではおられなかったのだ。