不振の阪神・鳥谷敬がそれでも連続試合出場を続けている。1日のDeNA戦では、サイクル安打の可能性(といっても必要なのは三塁打だったが)を持つ上本博紀に代わり7回に二塁の守備に就いて記録を1919試合に継続したことで議論を招いた。
現在の彼の成績は打率.140、出塁率.200、長打率.259。正直なところ記録が掛かっていなければ今季ここまで全試合出場はあり得なかったろう。このままでは、金本知憲監督同様に「全試合に出場しながら規定打席未満」という不名誉な記録を樹立する可能性が高い。
良く言われることだが、連続試合出場は純粋な実力だけなく首脳陣の理解や意思も伴わなければ実現できない。言い換えれば、実力が少々欠如していてもある程度は可能だ。
本来、この記録が称賛されるのは、連続出場を勝ち取るほどの戦力的必然性と、屈強な身体、強靭な意思、その全てを長年にわたり維持していることの証明だからだ。逆に言うと、そうでないなら価値が減じてしまう。先日、衣笠倖祥雄氏が逝去された際も、氏のスピリットを示すエピソードとして「死球骨折翌日の代打出場フルスイング三振」が美談として再三紹介されたが、これも記録へのリスペクト、選手の健康管理、全ての選手への公平な(実力本位な)機会の提供という現代的な価値観の観点からは結構微妙だと思う。
話を鳥谷に戻す。彼はプロ野球の歴史を語る際に欠くことのできない名選手だ。連続試合出場や通算安打数のみならず、その高い出塁率は特筆ものだと思う。しかし、来月には37歳になる現在の彼は、残念ながら「戦力」「健康体」「意思」のうち最初の部分が欠如していると言わざるを得ない。なのに、なぜ記録が延々と続くのか。理由を三つ挙げられると思う。
まずは監督の要因だ。ご存知の通り、金本監督自身が「連続試合出場の意味」の三要素の内、大きな故障により戦力的必然性と健康体を失っても記録のための途中出場を延々と続けた事実がある。記録のための出場を仮に「選手への監督の配慮」とするならば、自身がその恩恵に浴させてもらった以上、同様の対応を鳥谷に対し取らざるを得ない。
次は鳥谷本人の要因だ。メジャーリーグ記録の2632試合連続試合出場記録を持つカル・リプケン・ジュニアの場合は、自ら記録停止を申し出た。記録の最終期には衰えが否定できず、周囲から不協和音も出て来たからだ。鳥谷もそうしたい気持ちがあると思う。しかし、彼にはそうし難い事情があるのではないか。「記録のための連続出場を潔しとせず自ら辞退する」ことは、現役時代にそうしなかった監督の振る舞いを暗に否定することになるからだ。もっともこれは本人の要因と言うより、「他人は他人、自分は自分」という価値観が通り難い日本特有の師弟関係ゆえ、とすべきかもしれない。
三つめはメディアだ。この行為の愚かさを声高らかに指摘するジャーナリティックな視点を持つ媒体が残念ながら見当たらない。これは、球界においては取材する側とされる側の間に健全な関係が欠如している可能性を示唆している。また、記録の在り方に対する正しい理解やリスペクトも同様かも知れない。