人間のミューズとしての理想化や礼賛は、人間が人間であることを剥ぎ取る ― KaoRiさんの手記を読んで。―
あなたが死んだクミコのお姉さんに何をしたかも、今では見当がついています。これは嘘じゃありません。あなたはこれまでにいろんな人を一貫して損ない続けてきたし、これからも損なっていくことでしょう。でもあなたは夢からは逃れられない。(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』より)
いま話題になっているKaoRiさんの手記を読んだ。
僕が関わっているのは、DSDsと呼ばれる女性・男性の体の状態のバリエーションを持つ人々の支援や正確な情報提供だ(DSDs:体の性の様々な発達については、こちらのページをご覧ください)。いわゆる性暴力や性被害については、仕事で関わることがあるが、直接専門で取り扱っているわけではない。だけど、DSDsを持つ子どもたちや人々も、社会一般や、ある種の力関係の不均衡の場で、KaoRiさんが指摘するような「モノ化」といった扱いを受けることがあった。とても人ごとではないような気がした。
「彼はその長い経歴、特に奥様を撮影し続けた経験から、年齢を重ねる中で生じる女性の心情の変化『もう撮られたくない。これ以上公に晒されたくない。』という気持ちを知っていたはずです。でも、自分の名前と行動がどのくらい世間的に影響力のあることで、どのように私を傷つけているかということには一切聞く耳を持とうとはせず、モノのように扱い続け、行動を改めようとすることはありませんでした」(▼note『その知識、本当に正しいですか?』)
これまでDSDsを持つ人々や子どもについての記事を書いてきたが、言えない話もたくさんある。インタヴューの際に、論文として引用する許可契約書を書いてもらったこともあった。だけど、彼ら彼女らの話が深いものになればなるほど、ありえないようなことを言われた話、人間の深いところを損なうようなつらい思いをした話であればあるほど、それを書いて公表すると、その人をまた、さらし者のような目線に遭わせるかもしれないという恐れを覚えた。つらい話ほど書けなかった(もちろん全員がそういう目に遭ってるわけではない)。
ただでさえそれぞれ稀な体の状態だ。何千人に1人と言われても、その人の体験としては「世界で唯ひとりという孤独と絶望と恐れ」になりうる。どれだけ個人情報を改変しても、最低でもその人は自分のことだと分かるだろう。そうすれば、自分の最も私的でセンシティブな身体(性器)の話が公の目線にさらされる恐怖を味あわせることになる。本当につらい話については、僕はできるだけ、海外の、しかも一定の時間がたった例を、日本語でしか出さないように努めている。
それでも声を届けなければ、このような体の状態を持つ人々は、またこれからも、それが社会学的「興味」であれ、医学的・心理学的「興味」であれ、芸術的「興味」であれ、あるいはフェティシズム的「興味」であれ、何かの理想や発展のためという享楽の対象として差し出され続けることになってしまう。
実際、神様の方が楽なのだ。それはもはや、当たり前の一個の心を持つ「人」ではないから。
KaoRiさんも正しく「神格化」という言葉を使っているが、ミューズ(女神)やハーマフロダイト(男でも女でもない存在)という神話的理想は、その人にとっての都合の良さでしか無い。ステレオタイプの投影と言うと、ネガティブなイメージばかりが問題とされがちだが、実際のところ「ポジティブ」とされるイメージの投影も十二分に問題なのだ。
たとえば「女性は優しい」というステレオタイプにしても、優しさという性質自体はポジティブなものだろう。だがもちろん、「女性ならば優しい」という決めつけ・押しつけは、現実に生活している個々の女性たちにとっては、個人の抑圧になる。そこで見られているのは現実の人間ではなく、「女性・女神」という神話的イメージに過ぎない。それ以前にそのようなステレオタイプは、「女性ならば、女神ならば自分に優しくしてくれるはずだ」という身勝手で個人的な願望に過ぎないのだろう。
なぜKaoRiさんは「写真ファンの皆さんの夢を壊してしまったら、ごめんなさい」と謝らなければならないのか? それは、いつの間にか女神や、何かの理想や理念、夢の対象にされてしまった人特有の声の挙げにくさを表しているだろう。花畑のような夢を見続けたい人は、まるでその夢を壊されたかのように感じるからだ。身勝手に押し付けられたイメージ・理想を、払うことに、よく分からない罪悪感や申し訳なさを感じさせられることになる。
そしてまた、そのような神話的イメージは、KaoRiさんの体験のように、大抵の場合、同時にネガティブなイメージや、過剰に性的なイメージも投影される(あるいは「いかがわしさ」というイメージの投影故に、それが全く無いかのように取り捨てられる)。このポジティブな神話的イメージとネガティブな神話的イメージの分裂は、確かに矛盾はしているが、聖母マリアとマグダラのマリアのように、実はコインの裏表のようなものなのかもしれない。
ミューズとは、芸術家や学者にインスピレーションを与える存在だった。そしてインスピレーションとは、in-spirat-ionの語義通り、「魂(spirit)を入れる」、神から授かった魂を芸術作品や学問の進歩に込めるという意味だ。
しかし、KaoRiさんの話のように、神話的なイメージが人間に投影された場合、人間の魂が奪われる。芸術のため、学問のため、社会的理念のため。その象徴のように祀り上げられた人には、一個の人格であることを剥ぎ取られ、まるで自分の「モノ」のように扱われるのだ。そして「モノ」として流通させられた人は、KaoRiさんがストーカー被害に遭ったように、社会一般においても、まるでそれが当たり前であるかのように何の疑問もなく、自分の思い通りになる享楽の対象であるかのように扱われることになる。
DSDsを持つ人々も、昔は医学では、全裸や性器の写真を撮られたり、「ハーマフロダイト(男でも女でもない存在)という珍しい症例」として、患者家族の許可を得ることもなく論文化され、それがインターネット上に出回るということもあった。
さすがに今、日本のDSDs専門の医療機関ではこのようなことは行われていない。人を「症例」としてではなく、当たり前の心を持つ「人」として寄り添う医療が行われている。しかし逆に今では、社会のある種のポジティブな理念・理想を目指す運動で、DSDsのような体の状態が、その理念・理想の「証左」のように用いられている。中には、やはりそれが当たり前であるかのように何の疑問もなく、当事者や子どもの裸体や性器の写真が、「性の多様性」の文脈で使われることもあるような現状だ。そしてそれと同時に、分裂した形で、「ふたなり」といったような過剰に性的なイメージもアングラな世界に溢れている。
それが良い夢であれ悪い夢であれ、誰がその夢の本来の持ち主であれ、僕たちはたとえ知らない間であっても、そのような夢をいつの間にか共有しているのだろう。その夢のような花畑の地中に何が埋まっているか、その花畑が何を享楽することによって成り立っているのかも知らずに。僕はあの写真家にはほぼ興味はなかったが、まさかこんな事が起きていたとは全く思わなかった。そしてそういうことは、僕にもたくさん覚えがあるし、全く気づかずにいつの間にか享楽している。「何が何でも享楽」し,空っぽな穴を藁屑で埋めることを求められる現代社会だ。他にもたくさんのところで起きているのだろう。
まるで自分に罪悪感を押し付けられたような気分にもなった。美しく素朴な夢を壊されたかのように感じたこともあった。でも、罪悪感を恐れる必要はないのかもしれない。あるいは、それがただの一方的な享楽であったと気づく(傷つく)ことによる罪悪感だけが、人を人たらしめるのかもしれないからだ。イェーツの「夢の中から責任は始まる」との警句通り、自分と異なる他者に対する責任とは、いつも夢の中から始まるのだろう。
そして人は奪われた魂を奪い返すこともできる。前近代的な社会で行われていた生贄の儀式も、共同体に何かをもたらすために、何かの徴(しるし)を持つ人、持つとされた人が、神への供物としてその魂を捧げられた。生贄に選ばれることは実は光栄なことでさえあったのかもしれない。だって、それは自分が何者かになれそうなこと,神様に近づくこと,共同体が必要とするもの(偶像)になれることだったのだから。だけどきっと、ある日ひとりの生贄が突然何かに気づき,信じられないほどの勇気を持って言挙げしたのだ。「私は違う。私は嫌だ」と。きっと共同体の人々は驚いたに違いない。なぜそんなことを言うんだ,共同体が救われるのを邪魔するのか!? と憤慨したに違いない。でもその時、言挙げした生贄は、その魂を自分のものとして奪い返したのだろう。
KaoRiさんをまたこれ以上何かの象徴に仕立て上げることは本末転倒になるだろう。でも、手記の最後にあった、丘の上に立つKaoRiさんの姿は、どんな写真よりもとても素敵だった。
(参考資料)
浅利文子「『海辺のカフカ』責任と救済 ―複式夢幻能の影響」http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/12675/1/ibunkaronbun_17_asari.pdf
松本卓也著『享楽社会論 現代ラカン派の展開』http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b329916.html
(ネクスDSDジャパン:ヨ・ヘイル)