ストライクのレインボー案件ではないが、ジェンダー案件としては興味深いので言及する。
Twitterでキリンビバレッジ公式アカウントが投稿した「午後ティー」の広告が、主要購買層である女性を卑下・軽視しているとしてネットで大炎上し、キリンは該当tweetを削除、謝罪した。
不買運動を呼びかけるまで発展した批判の中には、「(男性から見た)女性蔑視」「中年男性の企画」「ゴーサインが出た理由がわからない」「なぜ、これが大企業の企画審査をパスするのか」「ミソジニー企画」など、企画の段階での意思決定のあり方、その過程における「女性」の不在の指摘を含意する声も数多くあったが、ネタをよく読めばその観察力と、突っ込みが「男性のただの思いつきではない」ではないことは推測出来そうだ。
事実、このアイデアとイラスト自体は「主婦の友社」のWebサイト「Tokyo Cawaii Media」で実に2015年から連載が続く「DJあおいの発酵女子カルテ」(DJあおい×illustratorツボユリの発行女子診療録」)を継承したもので、イラストを見てもアイデアの同一性は明らかだ。
「DJあおい」はTwitterフォロワー22万人「謎の人気ブロガー」で著作物を見る限り、主に女性から支持を受けていることは想像に容易い。
こうした文化人類学的なカリカチュア、風刺画は消費文化の発達と共にバブルの頃から度々目にするようになった。ぱっと思い浮かぶもので代表格は渡辺和博の「金魂巻」だろう。当時花形とされたカタカナ職業(コピーライター、イラストレーター、ミュージシャンなど)の金持ち「〇金」と貧乏「〇ビ」を類型化したイラストで「一億総中流化時代」「国民生活のナウ(※「なう」ではない)」の断面図を見事に切り取った。以後、類似するカリカチュアが一世を風靡したのである。
「発酵女子カルテ」はこうした「あるあるカリカチュア」の系譜に位置するように見えるが、渡辺のそれとDJあおい、ツボユリに決定的な違いがあるとしたら、強者によるものか、弱者によるものか、他者によるものか、自己によるものか、その「主体」のあり方だろう。つまり、それが「コキおろされる」「卑下される」としても、描かれる対象に対して、それを描く主体が「当事者性」を「帯びている/帯びていない」かの違いである。
「発酵女子」は「当事者による表現だ」と言うに十分であり、「女子」自身による「女子」への突っ込みであり、構造的には一種の「自虐ネタ」である。
(※「DJあおい」はあくまで「謎の人物」だが作風から「女子」当事者性がないとはとても言い切れない)
エンパワメントと自虐
「自虐ネタ」はマイノリティの表現には度々現れる。例えばトランスジェンダーMtFは毎日のように飽きることなく「自虐ネタ」を呟いている。やれ「女性のように子供が産めない」とか「トランスして完パスしてもゼロに戻るだけ」とか「自分パスが出来ない」とか、「肩幅が広い」「汚装」「無人島に行けばトランスが治る」「ちんこがある」「自分がモテてるのではなく、自分のちんこがモテている!」「完パスしても男はオトコ」「性同一性障害は迷信」「MtFの8割は猿」…などなど「自己否定」のオンパレードであり、ほとんど「自虐しか呟かないMtF」は「病みtF」「闇tF」などと呼ばれてすっかり定着している。
そして、こうした「病みtF」がコミュニティから排除されているかというと、決してそうではなく、一定程度の支持を得ているのが現状だ。
「自虐」「自己否定」と異なり、自尊心を否定されたマイノリティ集団にとって「自己肯定感」「アイデンティティ」を回復し、活動を活性化させる考え方が「エンパワメント」だ。黒人公民権運動における「ブラック・イズ・ビューティフル」は有名だが、「セクハラ告発」として知られる「#MeToo」も「あなたは一人ではない」という意味が込めれていることから、根は「エンパワメント」の一種だし、「LGBT」も広義の意味では「性的少数者のエンパワメント運動」である(例えばバラエティの「オカマ」「おネエ」の笑いをどう捉えるかLGBTコミュニティにおいても意見が分かれるが、「エンパワメント」の観点から見ると、「オカマ」「おネエ」の笑いは「自虐」であり「エンパワメント」を「阻害」する要因のひとつだ)。
しかし、本当に傷つき、自己肯定感の微塵もない者にとっては、まずエンパワメントより、自分が傷ついていること、弱いこと、辛いこと、自分が自分で認められないこと「そのありのまま」を肯定する場、過程が絶対的に必要であり、「自虐」はそのような人たちの「受け皿」になっている。
これも「自己肯定」の過程のひとつに過ぎないのだが、疲れ果てている人にとって「エンパワメント」は眩しい。「あなたも私たちと同じように立ち上がって戦うのです!」と迫る「エンパワメント」にとても付いて行けないのだ。そんなHPもMPもないのである。
正直、私自身はイラスト自体にあまり違和感を感じなかったひとりである。「発酵女子」には数多くの女子が登場し、決まって執拗なプロファイリングと「言わなくていい」ような突っ込みで無残にイジられる。そのどれもが、自分のようであり、あるいは「言いたくても言えない自分の代理」のようである。
「発酵女子」は「自虐」と言っても、当事者性を帯びている点で「自虐」と言えるのであって、「手法」としては女子による「女子いじり」だ。不快に感じる女子もきっといるだろうが、言ってくれてスカッとする人もきっといるだろう。
この「スカッと感」に言い及べば、女子は男子に対して物がはっきり言えないが、女子が女子に対してもやっぱり物が言い難いという理不尽な女子コミュニティの現実に突き当たる。
私は「女子」として生活するようになって気付いたことがある。あんなに心をときめかせたメイクもスカートも女子社会では「拘束着」に過ぎないこと(つまるところ、らしさや身嗜みに細かい突っ込みをして来るのは男子よりも女子なのだ)。男性上司の顔色を伺いながら、同時に女子の同僚や上司に対しては想像以上の気遣いとコミュニケーションを強いらること。本当にドロドロしていて魂が削られること。希望の性別で生きることは必ずしも「女子」として生きることとイコールではないと痛感したこと、などだ。
変な言い方だが私は「女子」として生きることが、「ありのままの女」として生きることにはならないと思い知ったのである。
次の投稿は元美術作家で文筆家「大野左紀子」さんのものだ。人物カリカチュアだが、こちらは「女性」による「女性」への「リスペクト」であり「エンパワメント」だ。とても分かり易い。これなら誰も嫌な気持ちにはならないだろう。「発酵女子」とは好対照だ。
続いて大野さんは、「発酵女子」のイラストについて次のような短い分析を加えている。
確かに「発酵女子」には私もスカッとする反面、意地悪な自分と出会ってしまったような罪悪感と、誰かにそう言われてもおかしくない自意識過剰な自分がない交ぜになったような、落ち着かない、主体と客体が乖離するような奇妙な分裂感を感じる。
「女性として生きる」ということは「女性」にとって何を意味しているのだろうか。
私には「発酵女子」や「DJあおい」「ツボユリ」のニーズがなぜ女性に生じているか判る気がする。
キリンは謝罪の中で企画段階から「しかるべき社内手続き」をしていたが、こうした炎上は予期できていなかったとコメントしている。既に女性に支持を得ている表現なのだから、これを広告に利用しても「炎上」するなど思いも寄らなかったのではないか。
しかし、キリンが予測出来なかったのは、「キリン」という大企業の看板を立てることで「弱者の自虐」が肯定されるに最低限必要な「当事者性」が切断されてしまうことだ。
エグい表現でも「女性のクリエーターが自身の表現活動として発表している」分には一定の支持が得られるが、その大前提が崩れ、「キリン」という大企業が「女性」を卑下しているように受け取れる。
事実、寄せられた批判の多くは「キリン」に対して「顧客を悪く描いて何が楽しいのか」というクレームであり、イラストレーターであるツボユリには「流れ弾」が飛ぶことはあっても、批判が集中することはなかった。ほとんどの人は表現の「主体」の在りかを「女性」ではなく「キリン」という大企業にあると見なしている。
ある限られた文脈の中でしか受け入れられることがない当事者の表現を「自分がやってもいい」と軽く考えてしまったことが「キリン」の失敗だった。そして、意思決定過程に女性がいたとしても、仮に作家が女性だったとしても、そう考えてしまったことが批判を受ける「キリン」という企業の「男性性」なのだろう。
そしてもうひとつ付け加えるならば、日本でも「#MeToo」ムーブメントが波及し、度重なるセクハラ告発があるも、その度に繰り返される被害者バッシングと唖然とするような司法、企業、政治家の対応が続いている社会背景だ。
弱者のアイデンティティ回復には「エンパワメント」と、すぐにそれに乗り切れない人たちの「逃げ場」も同時に必要だと思うが、そのバランスは現在とても取りにくい状況にある。