喋りまくりのなんちゃって『白鯨』爆裂がっかり映画。
2015年。細田守監督。アニメーション作品。
人間界「渋谷」とバケモノ界「渋天街」は、交わることのない二つの世界。ある日、渋谷にいた少年が渋天街のバケモノ・熊徹に出会う。少年は強くなるために渋天街で熊徹の弟子となり、熊徹は少年を「九太」と命名。ある日、成長して渋谷へ戻った九太は、高校生の楓から新しい世界や価値観を吸収し、生きるべき世界を模索するように。そんな中、両世界を巻き込む事件が起こり…。
細田守の新作『未来のミライ』(18年)の公開が近づきつつある。まぁ、ぜんぜん興味ないんだけど、たまにはアニメも取り上げようと思ってレビューアーカイブを漁っていたら『バケモノの子』をコテンパンに酷評していた私が過去にいたので、なるべく手を加えずそのままアップしてみますね。
いつも元気な細田守さん。顔こわ。
ちなみに細田守に対する私の印象は「『時をかける少女』(06年)はすこぶる良かったけど、『サマーウォーズ』(09年)で大いに首を傾げ、かと思えば『おおかみこどもの雨と雪』(12年)で挽回した、若干ムラのあるアニメ作家」という感じです。
ちなみに『劇場版デジモンアドベンチャー』(99年)と『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』(05年)は知らん。観てないから知らん。
あと、個人的に守といえば選手権では押井守をおさえての1位です。おめでとうございました。
というわけで、『未来のミライ』の公開を記念して『バケモノの子』を貶すという、祝う気があるのかないのかよく分からないスタンスでお送りします。
いま読み返すと、言いたいことをガーッとまくし立てるみたいな感情疾走型の評になってますね。読みにくっ。配慮が足りてねえわ。
もうファーストシーンから説明台詞の多さにゲンナリ。
冒頭の長台詞で世界観のご説明を頂いたあと、止め絵同然で「蓮。母さんが突然いなくなって寂しいかもしれんが、交通事故だから仕方がない」だの「あなたはうちの家系唯一の男の子で、大事な跡取り。これから何不自由なく育ててあげるから」だのと、どう考えても不自然な台詞の連発で蓮くんの置かれた家庭環境がバカでも分かるように説明され、無口かと思われた蓮くんも「あれっ、今来た道がない!?」、「出口は!?」などと自分が置かれた状況を逐一実況しながらの異界入り。
異界の住人である猿と豚のコンビは狂言回しに徹し、JK楓は心ゆくまで本音をくっちゃべってスッキリしたり、攻撃してくる敵に長々とご高説を垂れたりと、登場人物たちがまあ喋る喋る。
「異界っていうか大阪でしょ。そこ」と思うぐらい無駄口が多い。かくいう私も関西人で無駄口の多さには定評があるが、シンパシーを感じている場合ではない。
蓮が武道を志す理由もわからなければ、もっぱら肉体的な強さだけに価値が置かれた異界の世界観もさっぱりわからんが、とにかく蓮は「九太」という源氏名をもらい、熊徹という師のもとで『ベスト・キッド』ごっこに8年ほど興じる。
そのあと、諸国の賢者に「あなたにとって強さとは?」とインタビューして回る旅がなんの生産性もなく徒労に終わったことが原因の一端だったのかは知る由もないが、とにかく九太は急に武道をやめて人間社会でJK楓と修学に励みだす。
『白鯨』とかも読んじゃう。
…釈然としない。
ふたつの世界に親を持つ九太が、異界と人間界を行き来しながら生き様とか死に様とか居場所とか将来を模索する本作は、終始釈然としないし、大混乱しました。
何なんだろう、このアニメ。
おそらく本作が釈然としない理由はストーリーラインの不在にある。
熊徹の弟子になるところから始まる物語は、九太が相手の動きをまねて一挙手一投足を先読みする能力を独自開発し、本格的に武道を極めるに至って、私、「あれ、これって九太が闘う話…?」となり(なのにあれほどできなかった「突風を起こす剣捌き」を習得したかどうかは結局ウヤムヤ)、JK楓と出会って勉強の虫と化す中盤では「あれ、これって九太が進学する話…?」となり、父と再会すれば「これって実の親子が和解する話?」となり、渋谷を炎に包んでゴジラみたいに街中バンバン大爆発させる(なのに死者ゼロ)激おこ一郎彦をどうにかすべく、九太が「最悪、刺し違える!」とか言いだす終盤では「そんな…、死を賭して激おこ一郎彦の大暴れをどうにかする話!?」と、その仰々しき事態に胸をざわつかせる。
そしてJK楓が異界入りを果たすラストシーンで「あ、異界で高認願書とか手渡しちゃうんだ、この娘…」と、俺の違和感はピークに達した。
この作品が描きたかったことは、九太の「異界での文武両道の会得」と「現実社会でのアイデンティファイ」だが、その狭間で埋め草のように色んな要素をギュウギュウに詰め込んだことで、枝葉末節と戯れる雑味だらけの薄ぼんやり感だけが残ってしまった。
観ている間はこの物語がどこに辿り着きたいのかが全然わからないが、結論として言いたいことはよく分かる…という歪なタイプの作品である。
メルヴィルの拙い引用も観ていて小っ恥ずかしい。モビィ・ディックをもう一人の自分としてそこに激おこ一郎彦を重ね合わせる九太はさながらエイハブ船長気取りだが、『白鯨』ってそんな話じゃないからね。
「『白鯨』だからクジラを出してみました」てな具合なのだろうが物語上の必然性はない。おそらくデイダラボッチがやりたかったんでしょうね。
それに人間だけが持つ心の闇とは、それほど忌むべきものだろうか。闇があるから細田守はアニメに執着できたのでは?
結局、激おこ一郎彦の心の闇も浄化ではなく力によって圧殺される。これ、めでたしか?
また、JK楓を冷やかす不良たちを九太がど突き回すドリーショットは、『おおかみこどもの雨と雪』で姉弟の性格を対比してみせた素晴らしい演出を思いだすまでもなく、ここではきわめて凡庸だ。
そして「これ作ったの、本当に細田守?」と、思わずギョッとしてしまうほどデザインセンスがひどい。
妙にマヌケな空間に見えてしまう異界のレイアウト。豚の僧侶は『ギャグマンガ日和』の住人みたいだし。動物モチーフなのにレパートリー狭隘。そしてモブキャラの異様なまでのメガネ率の高さ(少し笑う)。
九太とJK楓は細田作品の若者像の定型だし、魚釣りの賢者や二郎丸のデザインなど、やっつけ仕事としか思えない。
ファンタジーになると細田作品のデザイン設計の脆弱さが露呈してしまう。
『おおかみこどもの雨と雪』に於けるアキレスと亀のパラドックスのごとき「追う者と追われる者の構図」も、『サマーウォーズ』の「よろしくお願いしまぁぁす!」や「頼み方がダメ。もっと取引先にお願いするみたいな感じで」といったユニークな台詞回しも、『時をかける少女』の序盤で真琴がオバハンとぶつかり「どこ見てんだい!」と怒鳴られ、終盤で功介に「前見て走れよ!」と言われる反復技法、あるいは真琴の投球に始まり投球に終わる円環構造の気持ちよさも、ここにはない。
あるのはただ役所広司(熊徹役)のやかましい怒声のみ。
初めてだよ、映画を観てるときにテレビに向かって「静かにしてくれ」と言ったのは。
そんなわけで、喋りまくりのなんちゃって『白鯨』爆裂がっかり映画になってしまった。観終わったあとドッと疲れました。
最新作『未来のミライ』も観るつもりだが、もうそろそろ一皮むけてくれないとちょっとしんどいかもしれない。
がんばれ細田守。賛否両論の『おおかみこどもの雨と雪』は好きだぞ。少なくともスタジオポノックとかいうジブリスタッフ避難所で「ジブリらしきもの」を作った米林宏昌よりは遥かに高い自力を持ったアニメ作家だと思う。
まだやれるはず。守ってばかりじゃダメだ。攻めるんだ。
細田 攻(せめる)に改名したら運気が上がるかもしれないよ。
ぜひとも『未来のミライ』では攻めモードに転じた細田攻を見せてくれ!
顔こわ。
当ブログは細田攻を応援しています。