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リベサヨとドロサヨまたはレフト2.0の2形態

852sub1先週いただいたブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう レフト3.0の政治経済学』(亜紀書房)については、金曜日に紹介したところですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-42b6.html(ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』)

その中で、松尾さんが私に言及しているところに、ちょっとコメントしたくなりました。

「補論1 来たるべきレフト3.0に向けて」のp141ですが、

松尾 そう、僕のいうレフト1.0と2.0というのは、労働研究の濱口桂一郎さんが、「オールド左翼」と「リベサヨ」と呼んでいらっしゃるものと近いところがあります。でも、この言い方だと、レフト2.0の中にもラディカルな武闘強硬派がいたりすることがうまくイメージできなくなってしまうと思うんですよね。

北田 かつての新左翼の流れにあるような急進派の人たちは「リベサヨ」をよく批判しますからね。

松尾 でも、この急進派と穏健派は、お互い一緒にされたくないでしょうけど、やはり共通のパラダイムの上に立っているということは言えると思うんですよね。

北田 どういうパラダイムを共有しているんですか。

・・・・・

松尾 はい、レフト2.0の急進派の方ではそうやって「第三世界」や地域コミューンの中での自律が志向されたりしたわけです。また、穏健派の方でも、国家行政主導の「大きな政府」は効率が悪く抑圧的だという反省があったと思います。

この松尾さんの議論はその通りだと思うのですが、そのレフト2.0急進派のことも、本ブログで何回か取り上げて、「リベサヨ」とはちょっと異なるある名前をつけていたことには、気づいていただけていなかったようです。

それは「ドロサヨ」。北田さんの言葉を引けば、

北田 従来型のマルクス=レーニン主義というよりは、「第三世界」との連帯とか、「辺境」の地域コミューンみたいなものを社会変革の根拠にしようとした人たちの流れですね。・・・

という流れで、確かに1968年以降の左翼の一つの軸として、細々と存在し続けていたようです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-9d19.html(「マージナル」とはちょっと違う)

労働問題研究のあり方の議論としては、ほとんど賛成なのですが、ブルーカラーを「マージナル」っていうのはだいぶ違和感がある。

話はまったく逆で、労働問題がブルーカラー中心だったり、社会政策が貧民中心だったりしたのは、それが数量的少数者という意味での「マージナル」ではなく、社会の中のパワー構造では弱者の側ではあるけれども、数量的にはむしろマジョリティであって、近代社会の民主主義的建前上無視することができない存在だったからではないか、と。古めかしい言い方をすれば「多数派にすべての権力を」てな感じでしょう。

そうじゃなく、数量的にも「マージナル」でしかない存在に目を付けてそのアイデンティティ・ポリティクスを強調するようになるのは、まさに「1968」以後の「1970年パラダイム」じゃないかという気がする。

ちょうど先日稲葉さんが紹介してくれた下田平裕身氏の回想録みたいなものを読むと、

・・・・・

下田平氏はちょうどその1970年パラダイムに見事にぶち当たってしまった世代だったんだなあ、と思うわけですが、・・・

それまでの多数派たる弱者だったメインストリームの労働者たちが多数派たる強者になってしまった。もうそんな奴らには興味はない。そこからこぼれ落ちた本当のマイノリティ、本当の「マージナル」にこそ、追究すべき真実はある・・・。

言葉の正確な意味における「マージナル」志向ってのは、やはりこの辺りから発しているんじゃなかろうか、と。とはいえ、何が何でも「マージナル」なほど正しいという思想を徹底していくと、しまいには訳のわからないゲテモノ風になっていくわけで。

それをいささかグロテスクなまでに演じて見せたのが、竹原阿久根市長も崇拝していたかの太田龍氏を初めとするゲバリスタな方々であったんだろうと思いますが、まあそれはともかくとして。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-aeb3.html(新左翼によって「創られた」「日本の心」神話)

9784334035907わたくしの観点から見て、本書が明らかにしたなかなか衝撃的な「隠された事実」とは、演歌を「日本の心」に仕立て上げた下手人が、実は60年代に噴出してきた泥臭系の新左翼だったということでしょうか。p290からそのあたりを要約したパラグラフを。

いいかえれば、やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正な下層プロレタリアート」であり、それゆえに見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人」なのだ、という、明確に反体制的・反市民社会的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが可能となった、ということです。

昭和30年代までの「進歩派」的な思想の枠組みでは否定され克服されるべきものであった「アウトロー」や「貧しさ」「不幸」にこそ、日本の庶民的・民衆的な真正性があるという1960年安保以降の反体制思潮を背景に、寺山修司や五木寛之のような文化人が、過去に商品として生産されたレコード歌謡に「流し」や「夜の蝶」といったアウトローとの連続性を見出し、そこに「下層」や「怨念」、あるいは「漂泊」や「疎外」といった意味を付与することで、現在「演歌」と呼ばれている音楽ジャンルが誕生し、「抑圧された日本の庶民の怨念」の反映という意味において「日本の心」となりえたのです。

この泥臭左翼(「ドロサヨ」とでも言いましょうか)が1960年代末以来、日本の観念構造を左右してきた度合いは結構大きなものがあったように思います。

そして、妙な話ですが、本ブログではもっぱら「リベサヨ」との関連で論じてきた近年のある種のポピュリズムのもう一つの源泉に、この手のドロサヨも結構効いているのかも知れません。

・・・・・・

(追記)

上で、「ドロサヨ」などという言葉を創って、自分では(「泥臭」と「左翼」という違和感のある観念連合を提示して)気の利いたことを言ってるつもりだったのですが、よくよく考えてみると、それはわたくしの年齢と知的背景からくるバイアスであって、世間一般の常識的感覚からすれば、むしろ、上で「ゲテモノ」とか「グロテスク」と形容した方のドロサヨこそが、サヨクの一般的イメージになっているのかも知れませんね。少なくとも、高度成長期以降に精神形成した人々にとっては、左翼というのは泥臭くみすぼらしく、みみっちいことに拘泥する情けないたぐいの人々と思われている可能性が大ですね。

このあたり、リベサヨについて生じている事態と並行的な現象ということができるかも知れません。

・・・・・

高度成長後の日本においては、「左翼」というのはこの上なく自由主義的で福祉国家を敵視するリベサヨか、辺境最深部に撤退して限りなく土俗の世界に漬り込むドロサヨか、いずれにしてもマクロ社会的なビジョンをもって何事かを提起していこうなどという発想とは対極にある人々を指す言葉に成りはてていたのかも知れません

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