名作でした。

が、1巻から11巻(最終巻)に至るまで、よく分からんところが多い。
キャラ同士がどう思っているのか、何故このような行動を起こしたのか。
特に、夏祭りで何故仲村さんが春日を突き飛ばしたのか、それを見て何故佐伯さんは泣いたのか、最後、常盤さんと仲村さんと春日の出会いに、何の意味があったのか等々エトセトラ。

それを指摘する人もこれまた多いのだけど、自分が納得出来るような解説はやはり見つからなかった。
だから、僕が書く。

さて、本題である心情の整理の前に、幾つかよく使われている言葉の解説をしたい。このままだと、彼らがどういう意図で特定の言葉をしゃべってるのか、良く分からないから。

①「悪の華」と「クソムシ

「悪の華 華」の画像検索結果

ご存知、ボードレールの詩集に書いてある、目が付いてる黒い花。
これは作中、悪の道に主人公が走ろうとした時に出てくる、悪の象徴である。
押見修造が書いていた「悪の華を書くに際して、影響受けまくったポッドキャスト」がこちらなのだが、そこから花の部分だけ要約しよう。

文学やら世界史の文脈だと、キリスト教的に人間は神様の分身という立場だから、結局自由意思などなく、人間の行動は全てキリスト様の想定内である、という背景がある。
だからこそ、悪を行うとは、人間が神様の分身などではない、一人ひとりの意思に基づく独立した存在であるということを証明する為の行為、ということになる。その時に、それを象徴するイメージが、この悪の華である。以上が要約。



つまり、キリスト教でも過去でもない現代日本における本作で、主人公たちが変態と称して悪いことをするのは、大衆や常識や綺麗事=クソムシ への反抗であると置き換えられる。
だから、その時に、自らの意思で生きる者の象徴としての悪の華が出てくる。そして、それを証明する手段が、彼らにとっては「変態」なのである。
そして、それをすることで、彼らはクソムシではない「特別」になることが出来、
「向こう側」と呼ばれる、特別なものだけが行くことの出来る境地に達することが可能になる。


②「皮かむり」「脱ぐ」「剥ぐ

「悪の華 クソムシ」の画像検索結果

皮=常識や世間体。


度々、仲村さんが春日に対し、「脱げ」とか「剥いてやる」とか「皮かむり野郎」とか言うが、それはエロ的な意味ではなく、「オメーのクソムシ(
大衆や常識や綺麗事)だらけの世間体を私が剥がしてやるから、中身であるドロドロの変態性をとっとと剥き出しにして、一緒に特別になろうぜ」という意味である。


さて、基本用語の解説はここまで。
心情の整理にいきましょう。

まずは【初期】(1〜5巻)におけるキャラごとの心情。
各キャラ目線で、他のキャラをどう思っているのか、それぞれ書いてみよう。

[春日高男]



⇒仲村さん

居場所がないこの街の中で、みんな馬鹿だと思ってた中で見つけた「同類」。
自分と同じように、どこにも属せない苦しみと衝動を抱えている。

そんな彼女が、見つけた、普通じゃないことが、変態だった。
そして、仲村さんはそれを、佐伯さんの体操着を盗んだ僕の中に見つけて、関心を持ってくれた。
とはいえ、実際に僕はそれを使ってオナニーしたりはしてない。
だから、変態ではないし、唯一の同類な気がする仲村さんを深くは理解出来ない。

それでも、ただ一人、この街や人々のおかしさに対する憤りで共感してくれる仲村さんを理解したいし、彼女となら、この町の外、ここじゃないどこか(向こう側)に行ける気がする。
それが自分を唯一「特別」にしてくれる道であり、同類を理解するための道なんだ。
だから、僕は変態を追求する。

⇒佐伯さん
女神。
しかし、あくまで女神であり理想であり、生身の人間として好きな訳じゃない。
つまり、自分に踏み込んでくるような人としてではなく、自分の妄想や都合を押し付けられる人(更に言えば女性の理想像)として愛していた。

だから、彼女が自分の中身に過度に期待することは重荷でしかない。本当は本の意味なんて分からない。それは、自分を「特別」だと思い込む為の道具でしかないのだから。
それを佐伯さんに悟られるのは、恥でしかない。


[佐伯奈々子]
「悪の華 佐伯さん」の画像検索結果

⇒春日くん

誰も聞いたことがないような本の話を、人がなんと言おうと、これが好きなんだ!と言える人。
私は今まで、みんなの理想であることが好きだったし、はみ出さないように生きてきた。
そして、それが当たり前だと思っていた。

だけど、春日くんに会ってから、それが無理してたんだって分かった。そう思えるようになって、ああこれってやっぱりおかしかったんだってしっくり来た。そんな、私も知らないような、「本当の私」を見つけてくれた。
(「春日くんは石ころだった私を宝石にしてくれた」)
だから、自分にとって春日くんは特別。そんな春日くんを悪の道に誘惑する仲村さんは許せない。
(決して、仲村さんに、春日くんを取られた嫉妬なんかじゃない!)

それから、山での春日くんの語りを聞いて、春日くんは本の意味なんて分かっていなかったのだと知った。私が春日くんに深く期待したことで、彼は、そんな情けない自分を見せるまで追い込まれ、結果深く傷付いた。
でも、私にとって、本の意味がわからなかろうが、私を目覚めさせてくれたのは真実。
いま傷付いた彼は、「この街で生きる」「現実を生きる」ということを受け入れられなくなっている。だから、あるはずのない「向こう側」を探すなんて滅茶苦茶なことを主張して、仲村さんに逃避している。
だから、それを私が正して、許して、受け入れてあげればいい。
そうすれば大好きな彼は、私と一緒にこの街で、特別じゃなくても生きていける。

[仲村佐和]


⇒春日くん

どこにもいけないこの街で、何も考えずに本能を綺麗ごとで覆い隠して生きるクソムシだらけのこの街で、唯一出逢った変態同志。
でも、臆病者だから、その変態の皮を自分では剥げない。
だから、私が剥いてやるんだ。それでコイツを連れて、クソムシの海の向こう側に行くんだ。

…そしたら、山の一件で、「自分は本当は変態じゃない、空っぽなんだ」とか言い出した。失望した。
だけど、その後パンツを盗んできた。やっぱりコイツは変態だった。真の変態だ。

⇒佐伯
春日が憧れてる女。春日は変態で、選ばれた奴なのに、普通の道に連れて行こうとしてる。意味がわからない。何かあるはずだ。
と思ったら、春日とセックスして、秘密基地を燃やしやがった。
それで、春日くんを取られて悔しいだろう!? 私は取られて悔しかった!!と泣き叫んでいる。
なるほど、結局こいつの行動原理はただの嫉妬だ。ただの馬鹿、下らないクソムシだ。こいつなんかに、春日と私の中に渦巻く変態がわかってたまるか。



では次に、中期である6巻、夏祭りで自殺を図ろうとして失敗するまで。
ここで物語は一度大きく挫折する。とても大切なフェーズだ。

[春日高男]



⇒仲村さん
秘密基地が燃えてから、周囲が邪魔して仲村さんと会えない。自分は仲村さんが好きだ。仲村さんに会いたい。
でも、仲村さんと夏祭りでの計画を実行に移さなきゃ、向こう側にはいけない。特別にはなれない。佐伯さんは向こう側なんてないって言うけど、そんなことはない。向こう側は仲村さんの中にある。彼女が笑ってくれるその場所に、向こう側はあるんだ。

⇒佐伯さん
この人は現実を受け入れろ、向こう側なんてないんだと言う。
でも、それは嘘だ。佐伯さんは何も分かってない。


[佐伯奈々子



⇒春日くん

未だに変態をやれば特別になれると思っている。向こう側にいけると思ってる。可哀想。誰も、何も特別になんてなれない。みんな同じ。特別なんて思い込みだし、向こう側だってない。
間違った(春日を逆レイプしたり、放火したり)ことをしたその罪を、その現実を、ただ償って、真っ当に生きていくしかない。

⇒仲村さん
私を抱きしめた時、彼女は震えてた。
仲村さんは口では悔しくも何ともないって感じだったけど、本当はショックで、悔しかったんだ。
仲村さんだって、変態とか向こう側とか言いながら、結局は私と同じ、ただの女の子なんだ。特別なんかじゃない。そんなのは春日くんの思い込み。
だから、春日くんが仲村さんに期待すればするほど、普通の女の子の彼女は追い込まれて、間違って、不幸になる。
「不幸にするのは、私だけにしたら?」


[仲村佐和



夏祭りまで、時間がない。変態を、見せつけなきゃいけない。
だから、春日を連れ出して裸にして、その世間体の皮を剥がして、変態を見せろ、と言った。コイツは本当はやれば出来る本物の変態の筈なんだ。
でも、結局コイツの行いはその変態性から行われたのではなく、自分に変態性を期待し、自分が喜ぶことをすることで、向こう側にいけると思っての行為だった。パンツを盗んできたのもそう。
詰まる所、向こう側なんてなかったのだ。
勿論、春日が期待するような向こう側は、私の中になんてない。
それどころか元々、世の中にはクソムシも変態もない。

春日も、自分も、ニセモノの変態で、特別ではなくて、所詮はみんなと同じクソムシで、向こう側なんてなくて。
ただ、この街で私たちは生きられなかった。
それだけが事実で、そんな自分達を受け入れられなかった。
だから、私たちは死ぬしかない。


⇒春日
春日は私にとって唯一の頼りの綱だった。春日の中にある世間体という皮を剥がして、真の変態をむき出しにすれば、私たちは向こう側にいけるはずだった。
だけど、剥がそうとしても、春日は私の中に向こう側はあるという。これ以上、彼の中には何もなかった。そして、私の中にも。

結局、私たちは二人とも、変態でも向こう側でもなかった。

こうして、二人は夏祭りでの自殺へと向かう。
それだけが、クソムシである自分たちに出来る、最後の反逆だったからだ。



ここで何故、佐伯奈々子がこの姿に訳も分からなく感動して泣いてしまったのか?

それは彼女もまたクソムシであり、自らを特別でもなんでもないと気付いてしまったが、彼女はそれを受け入れ、埋没することを選んだ。埋没とは即ち、自己を殺し、集団に合わせるという、ある意味、クソムシに対する「敗北」である。それを受け入れることが敗北なのだ。
けれども、二人はそれを受け入れなかった。自分たちはただのクソムシで、変態でも特別でもないと理解してもなお、それを受け入れず、大衆に迎合して自分を殺すことを選ばず、クソムシに反逆して死ぬことを選ぼうとした。それは自らの正義を凌辱されるくらいなら、自らの中で完結させようとする、高潔な「勝利」の姿だった。
だから、敗北者:佐伯奈々子は泣いたのだ。

そして、どうして仲村が春日を突き飛ばしたのかという理由。

順番が前後してしまうが、これは最終巻で春日が仲村に「どうしてあの時、僕を突き飛ばしたの?」と問い、「さぁ、忘れた」と不明瞭な回答をされた後、仲村に「貴方はふつうの人生を選んだんだね」と言われ、春日がそれに対し、「君はどうなの?」と聞いた回答で分かる。

彼女が悪の華の如く、目の玉を上に向けた表情をするからだ。



春日は、いまはクソムシであることを受け入れ、その人生の中に、常盤と生きる意味や喜びを知った。
対して、彼女は昔も今も、悪の華の如く、クソムシでありたくはないということだ。

実際、彼と彼女は似て異なる。
そもそも、彼女と春日の日々はかなり一方的だった。悪の道を進む仲村が、春日に勝手に期待をし、過度な要求をして、共に破滅した。そして、それが分かったのが、夏祭りの前夜だ。
つまり、春日にも自分にも、中身や変態は無かったと分かり、春日は自らの変態性ではなく、彼女を喜ばせる為に変態的な行為を行っていたと分かる。
彼と仲村は、クソムシではありたくない点では同じだったが、自分が契約とやらで脅し、春日を悪の道に無理やり引きずりこまなければ、こんなことにはならなかった。ほおっておいても仲村は悪の道を追及しただろうが、春日はそうではなかっただろう。
換言すれば、普通ではありたくないと思う点が同じでも、悪行を誰にも言われずともやる女と、その女を喜ばせる為にやる男では、根本の部分が異なっているということだ。
そこで仲村が感じたのは、「自分に付いてきてしまった春日」という姿であろう。
それに対する一種の罪悪感から、仲村は悪の道で共に死ぬことを、春日に許さなかったのだ。
だから、彼女は、夏祭りのあの夜、仲村は春日を突き飛ばしたのである。


さて、ラストの後期は春日と常盤、仲村の物語だ。しかし、ここはある程度、キャラごとの心情は分かりやすいので、春日の心情の中にまとめてしまおうと思う。

【後期】(7巻〜11巻)
「悪の華 僕が君の幽霊」の画像検索結果

[春日]
あれから仲村さんとは会ってなかったし、何処にいるのかも知らなかった。
そんな中で、常盤さん、彼女に惹かれた。
「悪の華 常磐」の画像検索結果

その理由は、3つほどあるだろう。
  1. 仲村さんに外見が似ている…。
  2. みんなの中で、自分が大好きなものをひた隠しにして、自分を殺して生きる。まるで幽霊のように。その姿には、共感を覚える。
  3. 読書の本当の面白さを教えてくれた。
でも、仲村さんの代わりに、依存先を彼女や彼女の作品にしようとしている自分も、否定できない。

仲村さんと自分は、かつて、自らが空っぽだったことに気付いてしまった。だからと言って、それを受け入れて、負けたまま生きるのは耐えられなかった。だから、死を選ぼうとした。

しかし失敗し、僕たちは引き離された。仲村さんを失った僕は、それでも仲村さんに縛られ続け、幽霊のように空っぽのままの人生を生きてきた。
それでも、常盤さんと出逢い、再度本と出会って、絆を深め、笑い合い、泣き合い、心の底から愛し、生きていることの喜びを知った。
だから、過去の傷である佐伯さんや木下さん、家族、あの街、そして仲村さんから逃げ続けるのではなく、向き合いたい。そして、常盤さんを、仲村さんの代わりとしてではなく、本気で愛しているのを確かめたい。
実際、仲村さんに会って、自分がどうしたいのかはわからない。抱きしめたいのか、殺されたいのか。でも、向き合うことでしか、常盤や、彼女の作品と向き合うことは多分出来ない。

そうして実際、常盤と春日の二人は仲村に会いに行く。



しかし、仲村は春日の前で、自分とも過去とも向き合おうとせず、ただ、暮れ行く夕日を見て、綺麗だと言うのみだった。
そして、君は何故あの時僕を突き飛ばしたのか、という質問には、手を遮るように春日に向けて伸ばし、「忘れた」と答える。
加えてその後、春日のことを「キミはその人(常盤のこと)と付き合ってるの?」と、距離を取って質問する。
(仲村は春日と再会してからここまで、一度も春日のことを「春日くん」と昔のように呼んでいない)
ここで行われているのは、まさしく一線を引くという行為だ。貴方と私は、もう同じじゃないですよ、と。
それに対し春日は負けじと手を伸ばし、二人の手が繋がる。ここで終わってはいけない。



しかし、仲村は「よかったね。そうやってみんなが行く道を選んだんだね」とそっけない。
「じゃあ仲村さんは?」という春日の質問に、上記の通り、例の悪の華のマネをして、立ち去ろうとする。もはや、仲村と春日に繋がりも共通点もない。もともと違う世界の住人と、話す必要はないからだ。
それに対して常盤は、貴方と春日が付き合えば、それが一番幸せじゃないのか、という。それも仲村は無視する。

しかし、このままでは春日も常盤も、そして仲村も救われない。誰も本気の感情をぶつけていない。綺麗な現実を綺麗なままに風化させる。余りに中途半端だ。

だから春日はもう一度、仲村と同じ土俵に上がる為に、暴力を使う。
暴力とは理性の逆、悪の華、悪の道だ。

「悪の華 仲村さん 海」の画像検索結果

仲村を掴み、投げ倒し、起き上がる仲村をまたブン投げる。

そして泣きながら、今、君が生きていてくれたことは嬉しいと叫ぶ。



この言葉は、同じ土俵における攻撃の中での、春日渾身のタックルだ。綺麗事だらけ、クソムシだらけのこの世界における、ぐしゃぐしゃで熱を持った生の感情の塊だ。これも一種の、悪の華だ。
それに対し、これまで感情を露にせず、距離を引いてきた仲村も感情をむき出しにする。春日を倒し、蹴り、海に沈める。
ここで二人はようやく感情の攻防を、コミュニケーションを始めることが出来た。
春日も応戦し、さらに常盤まで巻き込む。
そして3人は、海の中、暴力をぶつけ合う。
ただ楽しい、嬉しい。そこには裏も表も無い。エゴのまま、手加減もなく衝突し、笑いあい、受け入れ合う。

ここで、この巻の最初の章のタイトルがヒントになる。
「海が果たして寛容で親切だかを知るがため」
彼らの行動の通り、夕暮れ時の海は彼女たちのぶつかり合いにその身を貸した。
海は全てを受け入れる母の象徴だ。
彼らの血のように熱く滾った限界点の感情を、ただそのままに受け入れた。
海は寛容であり、親切であり、彼らはこの場所であったからこそ、深く繋がれたのだ。

そして仲村はその後、春日のことを「キミ」ではなく、「春日くん」とこれまで通り呼ぶ。それは、彼をかつてのように、同志として認め直した証である。

しかし、それでも。
仲村は「二度とくんなよ、ふつうにんげん」と告げる。

二人はかつて共に逃避し、春日の中に彼女に対する恋心が生まれ、そして拒絶されて突き放された。
その不可解な出来事と仲村という人物を、常盤という人を好きになってもまだ、春日は引きずり続けた。
だから、会いに来た。
そして、二人が今一度出会った中で分かったことは、
春日と仲村は同じクソムシかもしれないが、本質は異なっていて、だから過去に突き飛ばされたということだった。二人は決定的に違う。それが答えだ。

だが、二人は今こうして通じ合い、笑い合うことも出来た。

「悪の華 二度とくんなよ」の画像検索結果

海岸で倒れて並ぶ春日の手と、仲村の手は、例え通じ合っても、もう繋がれることはない。昔のように
春日から、仲村に必死に手を伸ばすこともない。彼は彼女と自分の違いを知り、かつての恋心が現れることももうない。
仲村は確かに「二度とくんなよ、ふつうにんげん」と拒絶にも似た言葉を告げた。
しかし、その意味が僕には、「お前はお前で幸せになれ、二度とこっち側に来るなよ」という愛に満ちた言葉に聞こえた。
だから、春日も「ありがとう」と言ったのではないだろうか。

そして時は経ち、仲村に伸ばされなかった手は、東京のマンションの一室で、常盤に伸ばされ、握り合われた。
「悪の華 ふつうにんげん」の画像検索結果

「僕らは願うものなのだ」
その題の元、春日はその晩、夢を見る。


花畑の中、幼さの残る中学時代の春日は、悪の華を見つける。
その華の一部が彼に触れた時、春日の願いが流れ出す。

常盤は小説賞を取り、春日はそんな彼女を支え、結婚して、子供を愛する。
クソムシであることを敗北と受け取った佐伯さんも、二児の母となり、夫の腕に身を任せる。
そして、「置いてけぼりにされた」と感じた木下と、佐伯奈々子は再び出会い、抱き締め合う。
最後に、仲村はあの海沿いの街で時を過ごし、いつか父に会いに行く。
そんな幸せな光景を、春日は原稿用紙に小説として書き出している。

願いはそれぞれ結実し、悪の華の形を取る。
しかし、その悪の華の眼が開くことはない。悪は悪としてはもはや目覚めず、それでも、彼が辿った人生の道として、その形を取って咲いたのだ。

それが、彼の中にようやく生まれた、書くべきこと。
彼の人生の総括と、未来への願い。

目を醒ました春日は、現実の白紙のノートに、ようやくそれを書き始めるのだった。 



以上で解説は終わり。
長文に付き合って下さって、ありがとうございました。

押見先生の素晴らしい本作の、伝わりきらない魅力が、この文章を通して、少しでも伝わるお手伝いが出来たのなら本望です。


 
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