タスマニア人を絶滅させた白人さま

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日本人よりもイルカが大事なシー・シェパードですが、白人はオーストラリアの原住民タスマニア人を絶滅させています。

1770年、イギリスがオーストラリアを発見したとき、タスマニア島には約20万人の原住民がいました。

のち、オーストラリアはイギリスの囚人を送る流刑地にされましたが、その囚人たちと当局によってタスマニア人はスポーツの一種として、または日曜日の行楽として捕らえられ、虐殺されました。

そしてとうとう、106年後の1876年、タスマニア人は絶滅してしまいました。


【タスマニア人】
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【赤い部分がタスマニア島】
goshu3.jpg【地図出典】・ウィキペディア-タスマニア州


最後のタスマニア人の遺骨は博物館に陳列



イギリスがオーストラリアに第一回の移民を送ったのは、オーストラリア大陸発見から17年後の1787年でした。

移民の人数は1044名、そのうち囚人が696名、自由移民が81名、その他は役人や守備隊員でした。

その後.5年間にわたってイギリスがオーストラリアに送った囚人の数は57600人あまりにのぼりました。これらの囚人は機会があれば原住民を遅い、部落ごとみな殺しにすることもあったそうです。

白人による虐殺はオーストラリアだけにとどまらず、当時、ニュージーランドに植民したイギリス人の最大多数が、マオリ人の絶滅を望んでいました。

白人の望みは褐色人種の排除でした。


【マオリ族】
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マオリ族の娘。
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白人の暴行はオーストラリア原住民の子どもにまでおよび、その罪状は

「土人の子供を不具にしたもの、その耳や鼻を斬り落したもの、又は土人の小指を斬ってパイプの栓にしたもの……」

といったものでした。これらの罪を犯しても、白人が受ける罰はムチ打ちだけだったそうです。

イギリスは他国からの非難をかわすため、人口統計を廃止し、原住民の虐殺を続けました。

そしてとうとう、1876年5月8日、この世界でたった一人になってしまった純血タスマニア人が息を引き取りました。

彼女は

「わたしが死んだら、山の陰に葬って」

と遺言したにもかかわらず、その遺骨は見せ物としてホバートの博物館に陳列されました。


日本人はこういう白人の残虐さと人を人とも思わぬ人種差別をよく知っていました。ですから、大東亜戦争を起こしたのです。

日本は自衛のためもありましたが、日本が白人と戦わねば絶滅という災いがアジア全体を襲っていたでしょう。

大東亜戦争で日本軍がまっ先に進軍していった所は、イギリスのアジア侵略の拠点ばかりです。


【香港】
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【上海】
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【シンガポール】
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投降するイギリス軍。
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【オーストラリア】
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濠州爆撃。
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白人が原住民から奪った土地に建設した都市アデレード。
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原住民のものだったはずの豊かな資源。写真はリーエル鉱山。
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【オーストラリアに割譲されたパプアカビエンの原住民と日本軍】
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【日本がカビエンに建設した学校】
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【カビエンの原住民】
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【すもうをとるパプアの子どもたちと日本軍】
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【韓国のあまっちょろい捏造歴史】



こうして大東亜戦争をふりかえると、日本の戦争は民族主義と言うよりも人種主義と言ってもよさそうです。

特ア三国がああなのは、大中華小中華そろって「夷(い)をもって夷を制する=外国を引きこんで敵と戦わせる」+「事大主義」という民族性なので、白人と戦いもせず、ソッコーで下僕になったからです。

北東アジアの中華セットがアジアで嫌われているのは、戦後の行状のみでなく、戦前、戦時中の白人に迎合した彼らの行為が軽蔑されているからです。


大東亜戦争では日本人も白人に残虐な殺され方をしましたが、ご先祖さま方は白人の残虐さをじゅうぶん承知した上での宣戦布告だったのだと思います。

日本人にしてみれば、

有色人種の一人種をまるごと絶滅に追いこんだ白人が「イルカやクジラを救う」と言う方がコワイ

といったところでしょうか。

「日本人よりもイルカやクジラの方が大事だ」 と彼らは言っているのですから。


TPPやら防衛やらで白人と組むのは気が進みませんが、日本政府はやる気満々のようですし、しかたないですね。


【金髪碧眼てのは、そんなにエライのか?】

反日色強めるワトソン容疑者 「日本は地球上で最も恐ろしい国家」 慰安婦問題や南京事件にも言及 
2015年7月17日 産経ニュース

 シー・シェパード(SS)創設者、ポール・ワトソン容疑者が最近、声明の反日プロパガンダ色を強めている。捕鯨やイルカ漁とは関係ない韓国との慰安婦問題や中国との南京事件問題に言及し、「日本の教科書はまるでそうした出来事がなかったかのように残虐行為の言い逃れを行っている」などと批判したり、昭和天皇の言葉を取り出し「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでいるのは鯨やイルカたち」と“こじつけ論”を展開する。さらに、「日本は地球上で最も恐ろしい国家」として福島第一原発事故の影響で多くのイルカが死んでいるとも述べ、状況をあおり、支持者に対して、鯨やイルカたちを救えるのはシー・シェパードだとアピールしている。

 国際刑事警察機構(ICPO)に国際手配されているワトソン容疑者は昨年7月にフランスに逃亡。以来、フェイスブック(FB)の公式ページで1日に4~5回、声明を発表している。 (後略)

【参考記事】
クジラ映画製作の日本人女性監督を“攻撃” 脅迫のメッセージも 「どんな妨害にも負けない」と意気込む監督 2015年7月12日 産経ニュース

豪州政府、野良猫200万匹の駆除に乗り出す 2015年7月19日 スプートニク



本記事の資料



(  )内は管理人による注釈です。

「土人」という言葉はそのまま掲載しています。

なぜなら、昭和の中ごろ、「カルピスのマークは黒人だ!差別だ!」、「ちびくろサンボのちびくろは差別だ!」というサヨクの言葉狩りの流れで、「土人」という言葉が狩られたからです。

「土人」という言葉も狩ってしまえば、歴史が知られることはありませんから。

白人は一種のスポーツとして日曜の行楽としてオーストラリア原住民をみな殺しにした


出典:1942(昭和17)年 五車貿易出版部 大神田軍治 「世紀の決戦:日本はどう発展するか」



⑷ 可憐なる濠州土人
 
 英国が濠州に第一回の移民を送ったのは一七八七年である。全員一千四十四名、其(そ)の中(うち)囚人が六百九十六名、自由移民が八十一名、其の他は官吏、守備隊員や其の家族であった。

 斯(か)くて濠州は流刑植民地として其の出発を遂げたのであるが、一七八八年から向う五ヶ年間にニュー・サウス・ウェールスに五万七千六百余人の流刑者は送られたのである。

 即(すなわ)ち陽気で、無邪気で、正直な濠州土人の中に十数万の兇暴な囚人が放たれたのであって、兎(うさぎ)の群(むれ)に餓(う)えた狼を放ったようなもので、機会ある毎(ごと)に土人を襲い、時に部落を鏖殺(おうさつ:みな殺しにする)する暴挙もあり、土人狩りを一種のスポーツとして日曜の行楽として公然行われるのであった。

 其の結果百万を数えられた土人も今日(いま)は二万人内外、雑種を加えて五万二千人に減じてしまった。

 ニュージーランドのマオリ族は数十万から四万人に、二十万人のタスマニヤ土人は陰惨苛烈(いんさんかれつ)な土人狩りによって、現在は全く絶滅してしまったのである。

 以上は単に有名な事実の一端を拾ったに過ぎないのであるが、太陽の没することなき英国の植民政策、多くこれ、かかる悪政の所産である。



最後のタスマニア人の遺骨は博物館に陳列された


出典:1941(昭和16)-1942(昭和17)年 日本拓殖協会 「拓殖叢書 第7集 濠洲」 七、原住民族



「眠れぬままに想い浮ぶ、先日ダーイン滞在中に州長官の好意で奥地へ四、五十哩(マイル)、野牛の悠々たる草野に車を駆ったとき、一陣の風とともに、草叢(ブッシュ)の蔭(かげ)から飛び出したカンガルーの群、そのあとから手槍を提げもって飛び出した凄(すご)い叢人(ブッシュマン)の姿。

ああ私は、何と面白い然(しか)し凄まじい土地に居(い)るのだろう。生き残った最後の純血タスマニア人、ツルカニが、 『妾(わたし)を山の蔭に葬って』 との言葉を残して一八七六年五月八日、哀れ呼吸をひきとった。その切なる願いにもかかわらず彼(か)の女の骨骸はいまホバートの博物館に陳列されている。そしてそれと同時に世界の原人タスマニア人は絶えた。

濠洲聯(連)邦および各州政府は濠洲の各地に強制収容地を作って、市の周囲に住む土人を収容している。然(しか)しそれは文字通り収容であって、その保護、教化は全く各種伝導団体に任せられている ── のみならず、中央濠洲、北濠洲にはまだ凶悪極まる土人も野犬のごとく彷徨している。」



・白人は濠洲原住民の子供を不具にし、耳や鼻を斬り落し、小指を斬ってパイプの栓にした
・白人最大の希望は褐色の土人を除くこと&マオリ族の絶滅
・英国は人口統計を廃止して最後のタスマニア人が死ぬまで「人口は増大しつつある」と主張した


出典:1940(昭和15)年 刀江書院 国際経済学会編 「英国植民政策史」 第二章 真理の否定



一、濠洲に於ける囚人政策

 ヴァンディメンスランドの流刑地に於ける土人は次第に滅亡して行った。

 現地の英国総督の命令をみれば、一八一〇年頃、英人が土人をどういう風に取り扱ったか、又(また)、英人の暴行にはどんな罰が課せられたかがはっきり判(わか)る。即ち、

「土人の子供を不具にしたもの、その耳や鼻を斬り落したもの、又は土人の小指を斬ってパイプの栓にしたもの……」

は笞(ムチ)刑によって罰せられるの程度である。

 当局の始めた獵(猟:か)り集めによって、タスマニア人は殺されたり、捕えられたりした。英国がこの島を占領した当時は未(いま)だ約二十万の土人がいた。この中(うち)、生き残った三百十人は一八三五年にファーノー群島のフリンダース島に移された。一八四八年にはこの島に男十三人、女二十二人、男児五人、女児五人を残すのみとなった。

 オーバーレンダーの報告によれば、

「一八五四年にはまだ十六人のタスマニア人がいた、数年後には最後の六、七名の土人をホバードタウンに連れて来た。一八六六年には四人のタスマニア人、即ち、女三人と二十七歳の男一人が生きていた。一八七六年には最後のタスマニア人の女、ララ・ルックが七十六歳で祖先の許(もと)に帰って行った」

 英国の学者、ケンブリッヂのトリニティー・カレッヂのバチェラー・オブーアーツ、男爵W・W・ストリックランド卿は一九〇六年に次の様(よう)に書いている。

「タスマニアや濠洲に就(つ)いて詳しく語るのは無駄である。タスマニアではその原住民は既に悉(ことごと)く英人のために虐殺されてしまった。濠洲のアリマン原住民も、同系統の人種の手によって、やがては同じ運命を辿(たど)るであろう……

 ニュー・ジーランドでは英人の最大多数が、密かに、だが熱心に、マオリ人の絶滅を望んでいる。

 濠洲では輸入された白い野獣が、褐色の人種、もっと正確に言えば、自分は除くが、同じ人種系統に属する濠洲の土人は除かず、全人種に対して憎悪を公言し、自分達の最大の希望は褐色の土人を除くことにありと主張して憚(はば)からない。……海峡植民地では土人の人口は急激に減少しつつある……」

更に、ストリックランドは彼の研究を次のごとく結論している。

「東半球に於けるかかる記録を見ると、未開の民族を指導し、彼等(かれら)に福祉と幸福とを与えることは、吾々(われわれ)のみが有する秘密であるという英人の言葉も、そのままに受(うけ)とれない。英国人は ── 問題が英国にとって有利に発展するような地方では、それは実際には、すべての土人にも有利なのである ── というが如(ごと)き仮定にもとづ)く無限の独裁力によって、その目的を達して来たのである。英国がもしかかる狡猾なる手段によらないでその目的を達したのであるとすれば、或(あるい)はそう言い得られるかも知れない。かかる自惚(うぬぼれ)がその程度を越して、遂には基礎的な人口統計も不必要だとして、廃止されるに至った。かくして土人を絶滅するための適当な手段が探られた。その最後の代表者がなくなるまで、人口は 『飛躍的に』 増大しつつあると主張していた。」

 濠洲及びその地方の諸島に於ける英国植民地政策の事実は、この地に於ける英国の支配が始って以来今日に至る迄(まで)、真理を無視した英国的良心 ── 而(しか)して(そして)かかる良心が決定的なポイントであるのだが ── とでも言い得るであろう。



白人の人種差別-タスマニア人をみな殺し、白濠主義をとなえて有色人種の移民は不許可


出典:1942(昭和17)年 軍事教育研究会 大倉要 「戦争と国際問題」 二、大東亜を組成する国家と地域



濠洲

 濠洲は英の自治植民地で、一七七〇年発見以来、英の流刑植民地として囚人のみを送られ、一八三六年メルボルン市建設、同五一年金鉱発見以来発達した。

面積七七〇万方粁(平方キロ)で、我国の十二倍もあるが、人口は九州より遥かに少く六百十万人である。英流の虐殺か、細菌主義か、土着人のオーストラリア族は減少し、タスマニア族は絶滅して、白濠主義を唱えて東洋人を移住せしめない(させない)

従って耕地は全土の一パーセントに過ぎず、然(しか)し小麦年産額は一億八千万ブッシェルに達し、英の穀倉となっている。其の他、綿花、米、煙草、砂糖等を産し、殊(こと)に羊毛は世界第一である。鉱産物は南阿(南アフリカ)米に次いで世界第三位の金を主とし、石炭、銀、鉛、銅、錫(すず)、鉄等を産する。 



戦後.抹消された白人の非人道的行為


出典:1942(昭和17)年 二見書房 中井良太郎 「史考大東亜戦争」 第四章 米国の対日挑戦を推進した老獪悪辣の英国



(二) 英国の罪悪

 濠洲を罪人の流島とし、濠洲土人を鏖殺(おうさつ:みな殺しにする)して今日残す所なきが如き(絶滅させてしまったように)非人道を敢(あえ)てするのが英人の本性である。

 理不尽なる阿片(あへん)輸入に依り、阿片戦争を挑発して支那蚕食(さんしょく:他の領域をじわじわと侵略すること)を初め、香港や九龍を奪い、上海を我物(わがもの)とし、支那各地に勢力を植え付けた歴史は周知の通りである。




出典:1928(昭和3)年-1932(昭和7)年 新光社編 「世界地理風俗体系 XXIII」



タスマニヤ土人

 濠洲大陸と一元帯水(いちげんたいすい)のタスマニヤ島に住んでいた土人は、オーストラリヤ人と並記されるのが常であるが、体質や文化からいうと、寧(むし)ろメラネシヤ人に近かった。

その言語は漆着語(しっちゃくご)で、接頭語と接尾語とをもっているが、メラネシヤ語とは縁が遠い。

その身長は一・六六メートルで、顔は斜顎(しゃがく)であり、頭形示数(とうけいじすう)は七六乃至(ないし)七七を示し、鼻は扁広(へんこう)である。毛髪は縮れている。この種族は絶滅した

 独(ひと)りタスマニヤ人のみならず、オーストラリヤ土人も年々人口減少し、一八五一年に五五、〇〇〇人あったものが、一八八一年には三一、七〇〇に減じた。南オーストラリヤのナリンイェリ族の如きは、一八四二年に三、二〇〇人の成員をもっていたのに、一八七五年には五一一人しかもっていなかった。

こうした現象は、文明的移住民との生存競争のために敗れてしまう結果である。




【写真出典】
1942(昭和17)年 大本営海軍報道部編纂 「大東亜戦争海軍作戦写真記録 1」
1943(昭和18)年 大本営海軍報道部編纂 「大東亜戦争海軍作戦写真記録 2」





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