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「藤沢飛行場」がありました (1943~1964年)
1943年 藤沢カントリー倶楽部を閉鎖し、同地周辺が、横須賀海軍航空隊の基地となり翌年藤沢海軍航空隊が置かれる。クラブハウス(グリーンハウス)は司令部として利用され、開隊当初は兵舎が完成していなかったため、クラブハウスが兵舎と調理場も兼ねていた。滑走路は、南北方向で離着陸の方向は北から南向きだった。
1945年藤沢海軍航空隊が解隊される。連合国軍550人が、本飛行場に進駐、連合国軍は、飛行場として十分利用できず、約1年で撤退した。

跡地はゴルフ場や元地主に返還され、聖園女学院高等学校、民間飛行場などになった。唐池の施設部宿舎は、戦災孤児の養護施設になった。1947年(昭和22年) - 通信学校跡に藤沢商業高等学校(現・藤沢翔陵高等学校)が移転。1948年(昭和23年) - 一部が、藤沢市営競技場となる。

1952年(昭和27年)6月 - 東洋航空工業設立。1953年東洋航空飛行場供用開始。純国産機として戦後2番目、曲技練習機としては戦 後初の飛行に成功してます。 東洋航空は設立当初より経営が思わしくなく、TT-10を2機とフレッ チャー数機を生産したところで、昭和28年12月には倒産。

1959年米軍偵察機ロッキードU-2が不時着。「黒いジェット機事件」として問題化した。1964年飛行場供用廃止、跡地に荏原製作所藤沢工場が新設される。

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