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ブラジルからの独立を図った9つの共和国

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 多様な人種と陰謀が渦巻く国ブラジル

 現在ヨーロッパで勢いを見せる分離主義ですが、南米の大国ブラジルにも昔から分離主義は根強く、現在も一部地域では独立運動が行われていたりします。

今回は日本ではあまり有名ではない、ブラジルからの独立を図った(または現在も図っている)地域をピックアップします。


1. 赤道連邦(1824年7月〜1825年4月)

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中央集権に反発する地方有産階級による反乱 

ポルトガルの植民地であったブラジルは、自分たちが高い経済的貢献をもたらしているにも関わらず、本国の貴族たちが自分たちを見下し、富を不当に搾取していると反発を強め独立への志向が高まっていきました。

1821年にポルトガル皇太子ドン・ペドロを国王に据えてブラジル帝国として独立を宣言。皇帝ペドロ一世は、広大な地域に住む多様な人をまとめるために中央集権色の強い政体を構築しようとしますが、地方の有産階級や地主は、ポルトガルに代わって今度はブラジル政府が自分たちを搾取しようとしていると反発を強めました

1824年7月に北東部のペルナンブーコ県のレシフェ市が共和制国家「赤道連邦」の設立を宣言。次いで近隣のマラニョン、バイーア、アラゴアス、パライーバ、リオ・グランデ・ド・ノルテ、セアラーといった地域が相次いで連邦に参画し、反乱が拡大していきました。

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Work by PedroLF93

ペドロ一世はイギリスからの借款で傭兵部隊を結成し、1824年9月に首都レシフェに向けて海から攻め込みました。約2,000いた赤道連邦の反乱軍は統制がなく、ブラジル帝国軍の攻撃になすすべなく、5日間であっけなく首都レシフェは陥落。

残党は別の地域に逃げて抵抗を続けますが、翌年4月までにすべて制圧されました。

 

2.リオ・グランデ共和国(1836年〜1845年)

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武装牧畜民ガウチョが政府の政策に反発し独立を宣言

ブラジル南部はパンパと呼ばれる草原が広がる地帯で、そこにはガウチョと呼ばれる先住民とポルトガル人の混血の牧畜民が暮らしていました。 ガウチョは言うなれば南米版のカウボーイで、極めて独立志向が高くよそ者を嫌い、戦いが好きな荒くれ野郎たちです。

彼らは牛を放牧して塩漬け肉にしてブラジル国内で売るのですが、政府が課す税金の高さに不満である上に、アルゼンチンやウルグアイから安価な塩漬け肉が流入して商品が売れず、政府による「誤った政策」に対する不満が高まっていました。

1835年9月、ガウチョの蜂起がリオ・グランデ・ド・スル州全土で広まり、将軍ベント・ゴンサルヴェスは寡頭軍を率いて州の首都ポルト・アレグレを攻撃し陥落させ、独自に州政府知事を擁立しました。州政府知事は南のリオ・グランデに逃れ、反乱軍への抵抗を呼びかけたため、ガウチョ政権の定着を目的に1836年9月、軍事指導者アントニオ・ソーザ・ネットがリオ・グランデ共和国の独立を宣言し、ベント・ゴンサルヴェス将軍を大統領に任命しました。

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Work by TUBS

帝国は当初、資金難により手をこまねいてましたが、イギリスからの借款により傭兵部隊を組織することが可能になり、反乱鎮圧のための軍を派遣。1845年に反乱軍は鎮圧しました。

ちなみに、 一連の戦いにはイタリア革命の蜂起に失敗したガリバルディが参加しており、彼はリオ・グランデ共和国側で戦いに参加し、リオ・グランデ・ド・スル州の北のサンタ・カタリーナ州にも反乱を飛び火させています。

この時に貴重な軍事経験を積んで祖国に戻り、イタリア統一戦争の英雄となりました。

 

3. ジュリアナ共和国(1839年7月〜11月)

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ガリバルディによって火がついたサンタ・カタリーナ州の独立運動 

反帝政・共和主義者のイタリア人活動家ガリバルディは、リオ・グランデ・ド・スル州で始まった共和主義革命をブラジル全土にもたらすべく、リオ・グランデの反乱軍を率いて隣接するサンタ・カタリーナ州に侵入。南半分を制圧し、港町ラグーナを首都として1839年7月にジュリアナ共和国の成立を宣言しました。

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ガリバルディはサンタ・カタリナ島にある帝国側の州都フロリアノポリスの制圧を目指しますが、 ブラジル帝国軍によりリオ・グランデ反乱軍が用意した海軍は破壊されてしまったため、サンタ・カタリナ島への遠征は実行できずに戦線は膠着。ジリ貧になった反乱軍は南へ撤退し、11月に首都ラグーナが陥落。ジュリアナ共和国はわずか5ヶ月で消滅しました。

この戦役でガリバルディは、現地の羊飼いの娘アニータを見初めて結婚。ヨーロッパに共に渡り、イタリア統一戦争において彼女は身重でありながら軍を率いるなど大活躍しました。

 

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4. グアナイス連盟(1832年2月〜1833年3月)

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過激派共和主義者の反帝国の戦い

ブラジル南東部バイーア州では、ポルトガル植民地時代から共和主義者・自由主義者の力が強く、中央政府に強く抵抗を見せる地域でした。

というのも、かつてポルトガル植民地ブラジルの首都はバイーア州にあるサルバドールという街で、政治・商業・工業の中心地で元からリベラルだったのですが、首都がリオデジャネイロに移ってからというものの都市としての重要性を失い、経済低迷に喘ぐようになったことが背景にあります。

バイーアの共和主義者・自由主義者はリオデジャネイロが率いる帝政に反発し、1832年に共和主義者のグワナイス・ミネイロという人物が暴力を用いた共和国革命を主導。人々の支持を得て、暫定政権を樹立してしまいました。

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 Work by TUBS

しかしすぐに帝国軍が侵攻しサルバドールは陥落。グワナイス・ミネイロはサルバドール沖合にあるサンパウロ砦に逃げ、籠城戦を続けました。

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Photo by Portal da Copa/ME

籠城戦はそれから約1年続き、とうとう1843年4月にミネイロは降伏。軍に捕らえられてバイーア州の辺境地に追放されてしまいました。

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5. バイーア共和国(1837年11月〜1838年3月)

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 奴隷制度反対と土地の再分配を求める反乱

グワナイス・ミネイロの降伏から4年後、今度はフランシスコ・サビーノという軍事指導者が「奴隷制反対と土地の再分配」を掲げて蜂起。

1837年11月にバイーア州都サルバドールを攻略してバイーア共和国の樹立を宣言しました。

 反乱軍は魅力的な大義名分を掲げていたにも関わらず、奴隷を含む多くの民衆からの支持を得られませんでした。一般の人たちにとっては、彼らの言う共和主義や自由主義は高尚すぎて理解が及ばなかったのかもしれません。

1838年3月、サルバドールは帝国軍に包囲され陥落。戦闘で反乱軍の兵士約1,000人が死亡しました。

主だった指導者は処刑されて一部は辺境地に追放されたものの、一部は帝国軍の手から逃れてリオ・グランデ共和国まで逃亡し戦いを継続しました。

 

6.バンダ・オリエンタル

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 ウルグアイとして独立したブラジルとアルゼンチンの係争地

バンダ・オリエンタルはシスプラティーナ州とも言い、港町モンテビデオを有する南米でも屈指の経済的要地です。

ラプラタ連合(アルゼンチン)の有力都市ブエノスアイレスは、バンダ・オリエンタルを統合し自由貿易を推進する中心的港とする構想を持っていましたが、共和主義・自由主義者のホセ・アルティーガスは中央集権的なブエノスアイレスに反発し、「連邦同盟」を結成。現在のウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビアの領土を統合しアメリカ合衆国をモデルとした連邦国家の形成を目指しブエノスアイレスへの抵抗を続けていました。

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ところが1816年、ポルトガル王ジョアン6世が突如バンダ・オリエンタルに軍事侵攻をしてホセ・アルティーガスらを追い出し、ポルトガル領としていました。

それから9年後の1825年、ホセ・アルティーガスの副官だったフアン・アントニオ・ラバジェハが「ブラジル領シスプラティーナ州」で反ブラジルの独立運動を開始。

アルゼンチンは公然とこれを支援したため、ブラジルはアルゼンチンに宣戦布告し、ブラジル・アルゼンチン戦争が勃発しました。

この戦争はアルゼンチンが戦いを優位に進め、シスプラティーナ州全体をアルゼンチンが制圧する勢いだったため、警戒したイギリスが仲介に入り、シスプラティーナ州を「ウルグアイ東方共和国」として独立させることで和解が成立。両軍が撤兵したのでした。 

 

7. ペルナンブーコ共和国(1817年3月〜5月)

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無計画と内部対立で崩壊した共和主義者の反乱 

東部ペルナンブーコ州では綿花や砂糖のプランテーションが大規模に展開され、大農園を経営する白人支配層は経済的に豊かな生活を送っていました。

彼らは主にメイソン・ロッジなどの秘密結社を通じて啓蒙主義的な思想を持ち、自由主義・共和主義的な思想を保有していました。

しかし1816年の大干ばつは経営に大きなダメージを与えた他、プランテーションなどで働く貧困層を直撃。窮状を見かねたドミンゴス・ホセ・マルティンやフアン・ウバルド・リベリオらペルナンブーコ州の共和主義者たちは、1817年3月6日に軍事蜂起し、州都レシフェを陥落させ、翌日に暫定政権を発足させました。

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 Work by TUBS

勢いよく政権を発足させたはいいものの、彼らは政権をとった後のプランをまったく考えていなかったため、主だった連中の中で意見の対立が生じてすぐに混乱状態に陥ってしまいます。

そして独立宣言に対するリオデジャネイロからの回答は当然ながら「軍事侵攻」。あわてた彼らは帝国軍のロドリゴ・ロボと接触し交渉を行うもまとまらず、とうとう5月19日に首都レシフェを放棄し逃亡。

しかしすぐに帝国軍の追っ手に捕まり全員死刑となりました。

 

8. パンパ共和国

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復活した「リオ・グランデ共和国」の野望

ブラジルの政治家でジャーナリストのイートン・マルクスという男は、リオ・グランデ・ド・スル州とサンタ・カタリーナ州をブラジル連邦から独立させて「パンパ共和国」なる独立を作ることを主張していました。

彼の主張では、両州はポルトガル系住民よりドイツ系やイタリア系が多いため、ポルトガル系が支配層のブラジルからは独立をすべきであるというもので、公用語はポルトガル語の他にドイツ語とイタリア語を採用するとしていました。

イートン・マルクスは1997年に「パンパ共和国の夢を公式に諦めて」しまいましたが、南部諸州の独立運動は別にあって、1992年に設立されたNGO団体「The South is My Country(O Sul é o Meu País)」は、リオ・グランデ・ド・スル州、サンタ・カタリーナ州に加えパラナ州も加えた領域の地の独立を目指しています。

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 work by Raphael Lorenzeto de Abreu

1996年10月に非公式に「南部は独立をすべきか」の投票が行われ、有権者95%が回答しましたが独立に賛成と答えたのは3%にも満たない数字だったそうです。

 

9. サンパウロ共和国

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Work by Cidf60

ブラジル第一の州サンパウロ州の分離主義運動

伝統的にコーヒー園で栄え、現在は工業も発達しているサンパウロ州はブラジルで最も人口が多く都市化された地域です。なんでそんな地域で独立運動が起こっているかというと、サンパウロとリオデジャネイロの都市間の争いがその根底にあります。

20世紀初頭はブラジルの大統領はその大多数がサンパウロからの選出で、民主的・リベラルな思想の持ち主でした。しかし1929年の世界恐慌でサンパウロのコーヒー農園は壊滅し、危機の打開のために1930年にリオグランデ・ド・スル出身でリオデジャネイロを拠点にする政治家ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスがクーデターで大統領に就任。ファシズムの手法を用いた独裁体制を構築していきました。

サンパウロ州政府と共和党はヴァルガスによる独裁に反対し、1932年に護憲革命を起こし、共和主義の民衆も大勢これに参加するも、他の州はヴァルガスを支持しサンパウロは孤立し、革命は叩き潰されてしまいました。

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 Work by TUBS

そのような歴史があるので現在でもサンパウロはリベラルな雰囲気があり、首都ブラジリアから距離を置きたいという人が少なからず存在し、Sao Paulo LivreMovimento Sao Paulo Independenteなどいくつかの団体が現在も独立活動を行なっています。

彼らは新しく作る共和国は、「資源を生かし低税率」で「犯罪率が低く」、「私有財産を守り」、「権力を分化した」ものになると主張しています。

彼が何がブラジルの国に不満を持っているか、これだけでわかりますね。

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まとめ

 ブラジルは傍目から見たらまとまった国のようにも見えますが、実際のところ保守派・リベラル派の対立を軸とした中央と地方の争いが長年続いてきて、現在でもその火種は消えていません。

 ブラジル経済が順調に発展し、経済的恩恵を末端の人たちまで享受できるのだったら受け入れられるのかもしれませんが、格差が激しく犯罪が多発し、高圧的な政府に腐敗した役人がのさばる国でありつづけるのであれば、分離主義は加熱していくかもしれません。

 

 参考サイト

"Rio Grande Republic, 1836-1846 (Brazil) República Riograndense, República de Piratiny, Farroupilha Rebellion"

"Sabinada A História da Sabinada, causas, objetivos, revolta regencial, República Bahiense, como terminou" Sue Pesquisa.com

Ragamuffin War - Wikipedia

Federação do Guanais – Wikipédia, a enciclopédia livre

"Pernambucan Revolution (1817)" Encyclopedia

Irton Marx – Wikipédia, a enciclopédia livre