元監督と協会側。一致したふたつのキーワード
ハリルホジッチが日本を去っていきました。
ありふれた「嵐のように」という形容がはまります。8日間東京にいて、27日の会見では喋ること喋って、会うだろうと予想された人には表向きには会わず、今朝帰っていった。
知りたいことを知ることができたでしょうか。
27日の会見では、本人の感情吐露に長い時間が割かれました。解任理由、背景についてはあまり新情報は出てこず。そういったなかで、以下の発言が収穫のひとつと見ました。
(解任を告げられた際のくだり)
「会長に、なぜかおっしゃっていただけますかと伺いました。そしたら、つまりはコミュニケーション不足だと」
「それによって私はそこでもっと怒りというものが沸き立ってきたわけです。そこで、え、どの選手と、どの人と? そしたら、いや、全般的にというお答えで、そしてその部屋からは5分たって出ました」
日本サッカー協会の田嶋幸三会長の8日の会見での解任理由の証言と重なります。
「コミュニケーション」そして「全般的(総合的)」。
じゃあ、「全般的(総合的)」ってなんだ。そこが気になります。いったい誰がハリルホジッチに不満を持っていたのか。ホントのところは何があったのか。やっぱり、スポンサーの意向じゃないの? エトセトラ。ハリルホジッチの言う通り、「何かの試合に負けたから」という理由のほうがよっぽどスッキリする。
こういった場合、読者の知りたいことに応える方法はじつにシンプルです。当事者の周辺を取材する。そして本人に当てる。そういうことです。
しかし、はっきりと申し上げますと筆者には欧州や北中米カリブ海に行く資金やマンパワー、個人的なエネルギーもございません。そこのところはお詫びせねばなりません。読者のニーズに応えていない。
なのでコラムとして、「どう考えるべきか」という視点をひとつ。
自己主張の問題? 田嶋会長は「細かくは言えない」
筆者は日頃から外国語を使って仕事をしています。欧州やアジアでの生活経験がある。だから今回の「総合的」「コミュニケーション」のうち、後者についての話を。外国人とのコミュニケーション論に興味があるゆえ。その視点で見ると(つまりサッカースタイル論は抜きにして考えると)、今回の解任劇、一見こういう話にも見えます。
「”新しい上司がフランス人”となったために、ものすごい自己主張をされて、それが日本人には受け入れられず、我慢しようと思ったが、やっぱり好きにはなれず解任」
「欧州人の自己主張に、おとなしい日本人選手たちは我慢していたが、結局陰口がもとで解任へ。解任の前兆すら口にしなかった日本協会。喋らない日本人は”ガラバゴス”」
「日本人には厳しく意見するリーダータイプの監督のほうがあってるはずなんじゃないの? なんだかんだで厳しいトルシエのほうが自由なジーコより結果出たじゃん。なぜ途中であきらめるの?」
ここまではハリル、西野、田嶋三氏の会見から想像がつく話。あるいは別の記事を参考にするなら(重ね、当事者に裏取りできていません。あしからず)こういった構図も考えられます。
「ハリルホジッチは”喋れ””主張しろ”という。だから数人の選手が意見しにいったが、結局は言いに行った選手が外された。よく分からない」
要は、”自己主張の強いヨーロッパ人との摩擦”なのではないかと。
確かにハリルホジッチの「コミュニケーションはとってきた」「選手とは問題がなかった」といった発言は、ちょっとクエスチョンマークがつく。コミュニケーションとは相手がどう思うかでしょう、と。そもそもあんな会見までするほどの自己主張にびっくり、という向きもあるのではないでしょうか。
しかしこの点は、当面はブラックボックスのままでしょう。「総合的」としか言わない以上、「で、不満分子は誰だったの」などと詮索されるのは田嶋会長も承知のところで。
先週木曜日発売の「Number951号」で「監督と意見が合わない選手がマジョリティになりつつあった」とし、こう発言しています。
「チームの内情について、言えないことがあるのは事実です。それを一つ一つ話すつもりはありません。そのことで私への批判が高まるかもしれませんが、それは覚悟の上です」
じゃあ、事実を想像するしかない。多少、的外れであったとしても。
欧州を経験した選手はかなり激しい世界を生きている
ひとつ考えたいのは、選手はかなり多くの割合で「欧州出身監督の激しい主張にはある程度免疫力があるのではないか」ということです。
例えば、槙野智章。27日のハリルホジッチの会見でハリルへの感謝のメッセージを送ったことが明らかになったくらいなので、リスペクトしていたのは当然です。紹介したいのはその背景です。
彼にはドイツ・ケルンでのプレー経験がある。当時の経験から、監督の激しい主張を楽しんでいたフシがあります。
ケルン在籍時に現地で話をした際、こんなことを言っていました。
「ここでの練習初日から衝撃を受けたんですよ。ミニゲームをやったんですけど、DFが相手に抜かれてゴールを決められた。一人で運べるほどの小さなゴールを蹴飛ばして、元に戻そうともしないんですよ。えっ? 誰がゴールを戻すの? ゲーム、できないじゃん、って。でも、ドイツで生活していくなかで、悔しさを表現する重要性を知ったんです。試合に出ていない時、クラブの人たちから『おまえは今、自分の現状に魔族しているんじゃないか?』と聞かれて。『もちろんしていません』と答えましたが、そうは思われてなかったんですよ。一生懸命やっている。でもその感情を表現しなきゃダメなんだと」
また、2012年に浦和レッズ加入後に話を聞いた際にはこうも。
「日本の選手と海外の選手、何が違うのか。よく聞かれます。僕はこう答えていますよ。『自分の感情を表に出せるか』。負けたくない気持ち、悔しい気持ちを表現しろと。出せないやつは、『納得している』と思われるので」
また、本田圭佑もオランダのフェンロ在籍時に日本でインタビューしたことがあるが、「練習時にはいつもチームメイトとケンカです。主張しないと存在していないことと同じなので。『おまえなんか、日本に帰ってもいい給料もらえるんだろ』というふうに」と話していた。
何が言いたいかというと、「多少エキセントリックに見える自己主張でもまあ、許容範囲と思えるのでは」ということです。欧州でプレー経験のある選手は、そういう場面に相当数遭遇しているはず。
意外と他では触れられない! 田嶋会長の著書の内容
もうひとつ、ここで強調したいのは、田嶋会長のことです。古河電工で現役を引退後、1980年から2年間、ドイツに留学した。ケルンの体育大学です。日本人も多い。筆者も05年に10ヶ月ほどその近くに暮らしたことがあります(留学ではありませんが。雑誌の体験取材のため現地10部リーグでプレーしました)。
今回の騒動でこの書籍の話がもっと出るかと思ったのですが、意外と触れられません。
07年10月に「『言語技術』が日本のサッカーを変える」という新書を刊行しています。そこでドイツ時代の経験や、自らアンダーカテゴリーの日本代表を監督として率いていた話が出ている。
タイトルにある通り、「言語技術=自分の考えを言う」ということをむしろ強く推奨する立場にある。
書のなかには留学中に現地でドイツの少年チームを指導していた際、「ことばとコミュニケ ーションについての問題」について気付かされたという下りがあります。
話の内容が十分に伝わらない相手にサッカーを教えていくためには、どんな課題を克服する必要があるのか 。いったいどうやって自分の考え方や意志を伝達したらいいのかという、未知の、貴重な経験について考えさせられたのです 。ドイツの子どもたちは、どちらかといえば一方的に、自分の意志を表明する傾向が目立ちます 。たとえばベンチにいる子が 「どうしてオレを、試合に出してくれないのか 」と主張します 。ドイツのクラブは2歳刻みでチームを編成しているので、「年下の場合は、出場は難しい」と彼に話します
また「来年になれば年上になるから、出場の機会はある」と説得します 。しかし、次の試合から他のクラブに移ってしまったりします。「どうしても出場させてもらえるクラブでサッカーをしたかったから 」と彼は移籍の理由をいう 。日本の子どもたちを教えていたのでは味わうことのできない、初めての経験に出会うことになりました。「試合に出場させてくれ 」といったことだけではなく、いろいろな問題について子どもたちは主張します 。それらの主張や意見に対して、指導者の私は、納得させるための答えを持っていなければなりません。それができなければ、チームを維持していくことはできないのです 。私が、なぜこれほどまでに言語教育にこだわるのか、その原点はドイツでの経験にあります 。
そういう経験がある田嶋会長のことですから、主張にかかわる多少の摩擦など、たいしたことではないでしょう。むしろ「言うことは言え」という立場であることは想像に難くありません。
キーワードは「自己決定力」!?
じゃあ、いったい何を問題にしたのか。田嶋会長が10日の解任会見で語った「最終的にコミュニケーションや信頼関係の問題がマリ戦、ウクライナ戦のあとに出た。それが最終的な解任のきっかけになったのは事実」を探るヒントが同著にあります。
「はじめに」のなかで、ドイツワールドカップ準決勝イタリア―ドイツ戦でイタリアの選手が一人退場になった際のエピソードを紹介しているのです。「選手の誰一人として、ベンチを見なかった」と。この出来事を、こう評しています。
つまり、「ベンチを見ない」ということは、ピッチ上で発生した出来事をどう処理していくのか、そのために分析力と判断力を発揮して決定する「力」を持っていたことの「証」でした。
究極の状況下で、自らが考えて判断を下す「自己決定力」。その力を備えていない限り、世界で通用するサッカー選手になることはできない、という事実を明確に示している――そうした出来事だろうと、私には思えたのでした。
ハリルホジッチ解任会見で口にした「コミュニケーション」「信頼関係」とは、つまり選手の「自己決定力」が守られていない状況にあった。そこで判断したのではないか…… 監督が主張するのはよいが、介入しすぎ。そういう判断。「選手にもうちょっと任せろ」と。
結論までが長くなりました。両戦を通じて、メディアからも話が出たでしょう。「選手は時間帯によってはポゼッションをしたがっていたが、ハリルはとにかく前に蹴ることを要求した」あるいは「最終エントリー当確ラインギリギリの選手がミスを恐れるあまり、消極的なプレーに終始した」という話。
これが「自己決定力」を侵害している。我慢していたが、最後の最後でそれは許せなかった。そういうことではないかと。
専権で解任した会長も、解任された元監督もあまりはっきりと「理由」を口にしてくれない。それゆえ、想像してみました。自著の冒頭部分で強調するほどの内容、かなり重要視していると想像します。まあ、ハリルホジッチの「なぜ解任の兆候があるのなら言ってくれなかったのか」という言葉はちょっと気にかかりますが……。