(4/26追記:↓より明快な修正版の記事を書きました。よろしければこちらの方をお読み下さい)
しばしば、「私は真面目に生きているのに、報われない。世の中理不尽!」という悲痛な声を耳にすることがあります。真面目に生きているのだから幸せになりたい。せめて報われてほしい。そう思うのは当然ですよね。
でも実際、「真面目であること」で得することができるわけじゃなかったりしますよね。でもどうしたらいいのでしょうか?
よく言う「真面目」とは、ルールや道徳を守ること
そもそもよく「真面目に生きているのに...」というときの「真面目」とは大抵、社会のルールや道徳、つまり法律や「人の道」に外れないことを指しています。それであれば、世間的には、真面目に生きることは立派なことですよね。
そして、立派なことなのだから、当然本来であれば真面目に生きる人が賞賛されて幸せになるべきであるべきですよね。しかし、ここに一つの困難があります。
「真面目に生きれば幸せになれる」という言葉の本当の意味
人類が長い時間をかけて社会を形成し、文化や学問が発展した現代ではなかなか意識に上ることはありませんが、本来自然というのは自然法則に従うものです。
そんな本来は無秩序な世界に、人間たちの行動の中からルールや道徳が生まれて、少しずつその網目が紡がれていって形成されたのが現代社会です。
そして、ルールや道徳がある程度世界に秩序を与えてくれることで、我々は相手の行動が予測できるし、ある程度安心して人々と交流し生きていけるようになりました。
しかし、時には悪人が出てきてルールを破り、利益を得ることもあるでしょう(万引きや詐欺や窃盗などを想像してみるとわかりますが、中には警察が捕まえきれないこともありますよね。泣き寝入りとか)。
だから、ルールを守りたい人たちは、悪人が出てこないように、ルールを破ったら非難されたり、罰を受けたりするようにするわけです。
反対に、ルールを守る人=真面目な人たちは賞賛され、罰を受けずに幸福に生きられるようにする。このように、真面目な人達はルールの維持に都合がいいので、優遇されることが多かったんですね。
これが「真面目に頑張れば幸せになれる」ということの本当の意味です。これは学校でも国家でも同じことです。先生に従う真面目な生徒は都合がいいから優遇されることが多いですが、荒れた学校では正直者が馬鹿を見たりしますよね。
だから、真面目自体は善いことだとしても、報われないのが「自然」
ところが多くの人たちは、真面目であることが人間として素晴らしいことだから、真面目な自分が報われて幸せになるのが当然だと思われたりします。それは残念ながら絶対に間違いです。
ルールなんてものは人間が自然の上に無理やり造った不完全なもので、完全に誰もが確実にルールに従うようにするのは難しい。治安の良い日本でも、真面目に生きている人が、詐欺にあって大金を巻き上げられたりしてしまうことだってあるでしょう。
しかも、ルールを維持したい側も、いつも真面目側を優遇するとは限りません。だって彼らはルールさえ守られていれば、そして自分にとって都合が良ければいいわけですから、ルールに逆らう側が強すぎるときなどは、平気で真面目側は裏切られます。
例えばいじめっ子にちゃんと制裁を課せる学校なんてどれだけあるでしょうか。
結局、真面目は報われません。それ、無秩序こそが自然本来のあり方だからです。それが良いか悪いかは別として、そして報われることが絶対にないとは言えないとはいえ、少なくとも正直者がバカをみることがある世の中であることは、ある程度は否定しようもない事実なんですから。
でも、真面目に生きることは価値があります。僕自身真面目に生きようと思っています。どうして、報われないのに真面目に生きる価値があるのでしょうか。
あなたは得がしたいのか、善行がしたいのか
そもそも真面目に生きて理不尽に嘆く人たちは、どうして「真面目」を貫くのでしょう。
思うに、<1:真面目に生きれば良いことがあるから>か、<2:真面目に生きること自体が良いことだから>の2通りがあり得るでしょう。
一つ目の「真面目に生きれば良いことがあるから」というのは残念ながら、そして上に書いたとおり、必ずしも報われることはありません。幸福に生きたいのであれば、時として「不真面目」な選択をとる勇気も必要です。
二つ目の「真面目に生きること自体が良いことだから」というのは信念の問題であり多くの場合肯定されることですが、コレを選ぶのであれば、報われないことに理不尽だと憤るのは筋が通らないですよね。
幸福になれるかどうかにかかわらず、善行が素晴らしいから善行を行うわけであるから、それに見返りを求めるのはちょっと贅沢すぎるのかもしれない。
もっとも、善人が虐げられるような世の中が間違っているという意味であれば、その不満は正しいかもしれません。
しかし、世の中はすぐには変わらないのだから、そして少なくとも今の世の中で真面目に生きても見返りが多くない以上、幸福になりたいなら不真面目さも併せ呑み、善人でありたいなら不幸も甘んじて受け入れる他ない。二つに一つ、どちらかを選んぶしかないトレードオフ的なところがあります。
「真面目」にこだわって苦しむなんて、もったいない
「真面目に生きたら幸せになれるはずなのに、報われないからこの世は理不尽だ」と叫ぶ前に。「不真面目」のほうがよっぽど正しいことだって、幸せになれることだって、この曖昧な世の中ではいくらだってあります。
真面目さにこだわって辛くなるくらいなら、そんな重い鎖は捨ててしまえばいいんです。それでも真面目さが大切だと信じられるなら、その志に殉じればいいじゃないですか。
もし片方を選べないなら、その時々で得をして生きたいなら得な方を、善行に生きたいなら善だと思われる方をちゃんと考えて、その都度責任持って選んで生きればいいんです。
真面目だとか不真面目とか、そんな安っぽい基準で全て割り切れるわけがないのだから、そしてルールを破ることで得られる幸せだってあるかもしれないのだから、一つ一つの選択を真摯に行っていくことが大切だったりするということです。
以上、ぽわるんでした。
(4/26追記:↓修正版の記事を書きました。多分こっちの方が優しい書き口になっているので、ぜひお役立てください。)