@latertheword
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ずっと考えてたことなんだけどまとまりがない。『君の名前で僕を呼んで』映画の最後のセリフが「エリオ」であったことについて。タイトルとの呼応。ちょっと原作の話も。

原作で、エリオはオリバーとの共通点をしきりに気にしていて、また彼のようになりたい、を通り越して、彼になりたい、と願う。恋の一形態としての同一化願望でもあるし、まだ17歳という大人になりきれない年齢にあって目の前に現れた理想的な大人に自分のなりたい姿を見出してる。
その二重の願望を読み取ったみたいに「君の名前で僕を呼んで」と言ってくれたオリバーは完全な理解者で、愛欲とは別のところでも、かけがえのない存在となった。オリバーという擬似鏡像を見つめることによって、エリオは自己を認識していったんじゃないかな。
鼻血を出してしまった後、ダビデの星のネックレスについて話すシーン。字幕はどうだったか忘れたけど、ネックレスについてお母さんに言われたのはJews of Discretion自由裁量のユダヤ人/ユダヤ教徒。ユダヤ人だからって考えなしに身につけない方がいい、ってニュアンスを感じる。エリオが再びネックレスを身につけるようになったきっかけはオリバーとおそろいだから、って意味かもしれないけど、オリバーもまた故郷のニューイングランドで唯一のユダヤ人家庭に育ったって環境も耳にしていて、エリオは自分のルーツについて再び考え直して、ダビデの星を身につけることにしたんじゃないか。ここでも、他者を通して自己を見つめることになった。少なくとも言えるのは、ユダヤ人だから身につけるわけじゃなく、自由意志から身につけた。それを母親もわかったから、否定的なコメントをしなかった。
そして、ラストのあの暖炉のシーン。数分もないんだけど、ティモシーシャラメの顔というスクリーンのうえでひとつの時代が終わってしまうのをまざまざと見せつけられる。ティモシーシャラメが自分について表現した言葉を借りればon the cusp of manhood大人の男になりつつあるエリオが本当に大人になり、またオリバーという完全な理解者としての他者を失ってはじめて、ひとりの、他者にその自己性を依拠しないという意味で完全な人間になる瞬間を、けっしてのがさずあまさずとらえようという気魄すら感じさせる長回し。
この映画は「エリオ」という二度の呼びかけで終わる(字幕は一回だったかも)。エリオ、と自分の名前で呼ばれて、一度はまだ暖炉を見つめているけど、もう一度呼ばれてエリオは振り返る。あれは自己をついに受容したということだと思う。「君の名前で僕を呼んで」と言って、相手の中に自分を見ることを許してくれた、鏡像としての役割を果たし自己の認識を手助けしてくれたオリバーを失ったエリオは、最終的に自分の名前で呼ばれることを受け入れたのかなって。
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