ポトマック河畔に大きな拍手が響いた。1973年9月27日、日本の首相田中角栄がフランスの首相メスメルと手を結んだその日である。角栄とその秘書官、小長啓一にとって因縁の男と言っていい人物が外交の檜(ひのき)舞台に躍り出てきた。
黒塗りリムジンの公用車でさっそうと現れた因縁の男の名前はヘンリー・キッシンジャー。ニクソン大統領の訪中など70年代の米外交を主導した男だ。
この日、キッシンジャーは国務省長官として初登庁、正面ロビーでは約50人の事務員たちが出迎えた。世界が注目する米外交を立案する主役のポジションを射止めたキッシンジャーを万雷の拍手がたたえた。
しかし、キッシンジャー初登庁の日に角栄とメスメルがかわした握手は、日本とフランスで歩調を合わせ米国に対抗軸を打ち出すことを意味した。大西洋を挟んだワシントンの向こう岸で、米一極支配のエネルギー供給体制を突き崩す日本とフランスの構想が動きだしたのだった。
このあと、次第に対立していく角栄とキッシンジャーの関係を考えれば、実に暗示的だった。
ただ、すでにこの時点でキッシンジャーの角栄に対する感情はかなりこじれていた。
伏線は72年8月31日。この日、ニクソンの大統領補佐官を務めていたキッシンジャーは、首相になったばかりの角栄と米大統領ニクソンとのハワイ会談に同席する。そして日本が中国と国交正常化を目指し準備を進めていることを知らされるのだった。
「最悪だ」。ほんの7カ月前までニクソンの電撃訪中を演出、得意の絶頂にあったキッシンジャーだ。その上を行く角栄の素早い動きに中国外交の主導権を奪われ、不満を漏らした。
確かにキッシンジャーが不満を持つのも分からないではない。角栄の日中国交正常化は米国を完全に逆撫(な)でした。
当時、米国はベトナム戦争で経済が疲弊、ソ連と中国の双方を敵に回して置くのが難しくなりつつあった。そこでまずは中国から切り崩し、米国主導で中国を国際社会に引き入れるシナリオを描いたのだった。
キッシンジャーは71年7月、パキスタンから中国入りし極秘裏に首相だった周恩来と会談、10月には「米国は『台湾は中国の一部である』とする中国側の主張に反対をしない」ところまで話し合いを進めた。そしてその上でニクソンの電撃的訪中。キッシンジャーが周到に進めた準備が見事、実を結んだ。