『リズ』を観た後、一緒に行ったDEBU・HAGEと「萌え」の議論になって、
「でも今だからこそ、萌えは必要だと思うんです!」
と言うもんだから、
「でも『リズ』は、萌えはキライ!レズが好き!って言ってるようなもんだぜ?」
と、返してやった。
「萌え」という言葉は、岡田斗司夫さんが言う通り、定義づけが難しい、ていうか不可能である。
だから(作り手としては)一旦は受け止めるしかないものだ。
僕は「萌え」を無碍に否定したことはない。
今出回っているものは本当の「萌え」ではない!と主張しているだけだ。
もちろんこの定義も手前勝手だ。だから一旦受け止める。完全否定はしない。
『ハルヒ』も『らき☆すた』も『かんなぎ』も『Wake Up,Girls!』も、そして今作ってる『薄暮』も、「萌え」を否定して作っている訳ではない。
「萌え」にプラスして、まぁ「萌え」だけでは身体に悪いから、ちょっとは栄養になるものも付加して、作っているのだ。
「萌え」という言葉は、岡田斗司夫さんが言う通り、定義づけが難しい、ていうか不可能である。
だから(作り手としては)一旦は受け止めるしかないものだ。
僕は「萌え」を無碍に否定したことはない。
今出回っているものは本当の「萌え」ではない!と主張しているだけだ。
もちろんこの定義も手前勝手だ。だから一旦受け止める。完全否定はしない。
『ハルヒ』も『らき☆すた』も『かんなぎ』も『Wake Up,Girls!』も、そして今作ってる『薄暮』も、「萌え」を否定して作っている訳ではない。
「萌え」にプラスして、まぁ「萌え」だけでは身体に悪いから、ちょっとは栄養になるものも付加して、作っているのだ。
かつて伊丹十三が、押井守の『うる星やつら オンリー・ユー』(だったはず)を観て、
「いいのかね?こんな甘いケーキにたっぷり砂糖をまぶしたような映画」
と、評した。
「いいのかね?こんな甘いケーキにたっぷり砂糖をまぶしたような映画」
と、評した。
「美は撒き餌である」と言ったのはチェリビダッケだが、僕は「萌えは撒き餌である」と言うしかない。
美しいもの、カワイイもの、それを頭ごなしに否定することはしない。
しかしそれに縋って生きるのは無様だ。
その反面、「萌え」を認められない、でも「萌え」に耽溺するという、これまたなんとも身勝手な、浅薄なプライドだけが先行したような表現もあるのだ。
その結果、出てくるキャラみんながこの世の終わりみたいな表情を浮かべる、異常な世界が生まれた。
「人間の悪い部分は見たくない!私はキレイな人間だ!だから私の描くレズはキレイなレズだ!」
とでも言いたいのだろうか?
僕にはその主張自体が異常にしか見えないが。
僕はこれこそが、「ポタク」の心性の根本なのだと思っている。
ああ、昔ありましたな、「ぼ・く・は!オタクじゃないですからね!」と言ってる人間が明らかにオタクであるという。
まるで中二病。
こんな表現が横行するようではオタクは進化しない。
「萌え」は進化しない。
それだけは言っておこう。
「キレイは汚い、汚いはキレイ」
『マクベス』の冒頭のセリフだ。
美しいもの、カワイイもの、それを頭ごなしに否定することはしない。
しかしそれに縋って生きるのは無様だ。
その反面、「萌え」を認められない、でも「萌え」に耽溺するという、これまたなんとも身勝手な、浅薄なプライドだけが先行したような表現もあるのだ。
その結果、出てくるキャラみんながこの世の終わりみたいな表情を浮かべる、異常な世界が生まれた。
「人間の悪い部分は見たくない!私はキレイな人間だ!だから私の描くレズはキレイなレズだ!」
とでも言いたいのだろうか?
僕にはその主張自体が異常にしか見えないが。
僕はこれこそが、「ポタク」の心性の根本なのだと思っている。
ああ、昔ありましたな、「ぼ・く・は!オタクじゃないですからね!」と言ってる人間が明らかにオタクであるという。
まるで中二病。
こんな表現が横行するようではオタクは進化しない。
「萌え」は進化しない。
それだけは言っておこう。
「キレイは汚い、汚いはキレイ」
『マクベス』の冒頭のセリフだ。