今回ご紹介するのは芸術崇拝の思想:政教分離とヨーロッパの新しい神です。5月下旬に新装版が刊行される予定ですが、もともとは2008年に刊行された本です。政教分離という近代の流れのなかで、「芸術」が宗教に代わる新しい崇拝の対象とされていったという議論です。少し前に、美術作品に高値がつく理由を自称「アホの人」が「芸術学の先生」に尋ねに行くという記事がネットで話題になりましたが、そこでまったく触れられていなかった構造です。自分は「アホ」ではないと思う人にはぜひチェックしてもらいたい内容。


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さて、ネットで話題になったと言えば、今回の記事のタイトルにも書いていますが、いわゆる「宇佐美圭司壁画処分問題」という事件がありました。ご存じない方はググっていただきたいのですが、東京大学の食堂に1970年代から飾られていた、現代日本美術の大家の重要作品が、売却でも寄贈でもなく「処分」つまり廃棄されていたという事件です。

芸術作品というのは、人文学的にいって人間的な仕事が込められたものであって、それを破壊するというのは嘆かわしいことです。しかし今回の騒動では、かつてイスラム過激派として世界を騒がせたタリバンによるバーミヤンの遺跡破壊(ISによる同様の「蛮行」も記憶に新しいでしょう)を引き合いに出す人が目につく^_^ことが印象的でした。戦後日本の美術作品であっても、その背景に明確な宗教的な対立や排斥思想がなくても、無知だったり無教養だったりする人による作品の廃棄処分は、偶像破壊的なものとして見えるらしいということです。

もっとも多い印象なのは「呆然とする」とショックを受ける人たち。比較的に理性を保っているように見える人たちは、縦割りのシステムによって、作品の価値を知らない人たちが自分たちだけで処分をしてしまったのだろうと分析をしていました。美術批評家の黒瀬陽平氏は起きてしまったことは仕方ないので、慰霊碑を作ってはどうだろうか、とほぼ唯一人、はやくも建設的な提案をしていました。スケープゴートを求める人たちは、今回の事件の責任者の名前を挙げて責任をとらせようとしていますが、当然のことながら失われた作品がそれで戻ってくるわけではありません。作品を所有していた生協には問い合わせが殺到し、本件についての回答は2018年4月28日朝の現時点では保留されています。そもそも作品が掲げられていたのはギャラリーでも博物館でもなく、食堂であり、その保存補修が十全になされていたと考えるのは難しく、そもそも直接の関係者たちにとっては文字通り「目の上のたんこぶ」的なものだったのかも知れません。

黒瀬陽平氏は、最近刊行された思想誌『ゲンロン7』に収録された連載のひとつ「他の平面論[第6回] 外側の眼が見る」で、日本近代美術とインド近代美術の並走関係について、どちらもモダニズムに乗り遅れた「悪い場所」の芸術運動として共通点を認めつつ、その差異も浮き彫りにするという語り方をしていましたが、そこではモダニズムには政教分離のルールがあるのに対して、日本とインドの美術ではその宗教性の排除は完全に行われなかったと書いています。『芸術崇拝の思想』によれば、当のヨーロッパですら政教分離は芸術の上では完成しなかったということになるのですが、今回の事件ではいずれにせよまるで自分たちが崇拝する神像を、敵対する別の宗派の人びとによって破壊された人たちのような姿が見えたような気がしました。

日本は仏教国だ、いや神道の国だ、多神教だ、無神論の国だ、など色々と言われていますが、今回は「芸術教」の人たちの姿が浮き彫りになったという事件だったとも言えるでしょう。

反知性主義の時代とか、教養の失墜とか、歴史の終焉といったことが言われていますが、短絡的にそれを嘆くのではなく、その構造へと目を向けて議論を進めていくことも重要なのではないでしょうか。


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